| 2004年2月7日 最終回 1 朝9時50分発の南紀5号の中で新聞を読むと、鳥インフルエンザ豚の中にも感染し、豚の中でウイルスがヒトに移すものに変異する恐れがあることを報じていた。鳥と豚が同居するバリ島の知り合いたちの家を思い浮かべた。豚に感染しやすい状況が整っている。今回は写真撮影もあって、ディープにバリの村々を歩かなければならない。 何なのだろう。どうしてSARSや鳥インフルエンザが東南アジアで発生するのだろう。共通した特有の原因があるに違いない。 人々が密集し、さらに鳥や豚なんでも人々と密に生きているせいだろうか。暑い地域の人々の急速な生活の近代化に家畜動物やヒトの免疫力も落ちているのか。うーんと考える。医者じゃないからわからない。バリ人たちは体温が下がることに一様に敏感である。外気温が30度から28度になろうものなら、バタバタ風邪をひき、厚いジャケットを着る。身体に生姜や丁子が入ったボレを塗り、身体を温める。それほど気温の変化に敏感に対応している。日本人は雑菌を徹底して避け、あるいは殺したりして神経症的な清潔感がある。 どちらかと言えば、バタバタと死ぬのは日本人の方ではないかと思うが、鳥から豚、豚からヒトとウイルスが強力になっていけば家畜と同居するバリ人たちの被害は免れないだろう。 さて、自分である。行かなくてはならない。 バリ島はニューヨーク同時多発テロ、バリ島爆弾テロ、SARS、そして鳥インスルエンザと厄災が続き、人々は失業にあえぎ、明日がわからない状態でしのいでいる。宗教的形式は日本よりも色濃く、村落共同体の結束は固い。西洋的な物の考え方の侵入を警戒しているものの、映画、DVD、TV、音楽やファッションでウイルスのように入ってくる。若い者が一番感染されやすい。 車が増え、排気ガスで道路は充満し、事故死が増え、経済上と不倫上の自殺者も増えている。 インドネシア経済危機が起こる前は 、もっとゆったりとした島だった。10年前はさらにゆったりとした時間が流れていた。スハルト政権の退陣後、バリ島は政治的にも経済的にも混迷し、爆弾事件で混迷の度を増すこととなった。経済成長が2%から3%ではこの国の人々はやってゆけない。維持発展するには最低でも7%から8%が必要である。 ジャマイスラミアがインドネシアを聖戦の地域と指定している。この方針は未だ整っていない。彼らはタイの南部、マレーシア、シンガポール、フィリピンの南部、インドネシア全域でイスラム原理主義の統一国家を建設したいのである。貧しい地域から運動は起こり、貧しさの中から志ある者が運動に参加する。 僕のバリでの事業も一店舗は撤退を余儀なくされ、かろうじて4社が維持されている。 爆弾事件以降、仕事の中心を日本に移した。食えないからである。無収入でしかもマイナス収入の月日が移行するまで続いた。主宰するホームページも活気がなくなった。めげずに淡々とシフトを移行し、日本を拠点とする体制に組み換え、バリ島を生産と加工、見本の基地とすることにした。それは今も続いている。 学問的な研究はしなかったものの、約1200ページにも及ぶバリ日記の中では、経済危機以降のバリ島で感じたことを考えるのに徹底した。 万物は流転する。 明日、バリ島に到着する。そして、この国のバリ滞在で、「僕のバリ日記」は終了に向かう。それは現在から、アジア的段階、アフリカ的段階までの感覚的、体験的な旅の終着である。 この10日間で何が起こると言うのだろう。 2004年2月8日 最終回 2 ングラライ空港にGA883便は着陸し、タラップを降りて、バスで空港ビルへ。観光客の人たちは新設された観光ビザ代25ドルを支払うため、別のカウンターに集まった。僕はインドネシア在留許可証を持っているため、すぐに入国管理のカウンターへ向かった。 僕のパスポートを係員は何度もチェックしている。すると、「こっちへ来い!」と手でジェスチャーをし、いそいそと事務所の方へ僕を連れて行く。何だろうと思ったら、僕は在留許可証は一年のものを持っているのだが、2003年12月25日までに一度インドネシアに入らなければならないのに、入っていないのだと言う。 「ああ、しまった。うっかりしていた。」と内心思った。「日本に帰れ」と係員は言う。僕は「帰れるもんか、どうしたらいい?」と聞く。相手は「どうしたらいい、とはこっちが聞くことだ。どうして欲しいんだ。」と言う。一日20ドルの罰金である。僕は40日を超えている。ざっと800ドルの罰金である。 「う〜ん、一万円でなんとかしてもらえないか。」と言うと、「一万円って何ルピアだ」、と二、三人の係員が口々に言い、それが750,000ルピアだとわかると、「とんでもない!一日20ドルだぞ!」と目をつり上げる。「三万円でどうだ!」と言ったので、僕は即決。すぐに心変わりがないように握手をし、もしも値を釣り上げたら、叫んでやろうか、と思っていた。こっちも不法なら相手も不法である。やったるぞ、と思い、値を釣り上げるのかと思えば、係員はどこやらかのボスに電話をし、僕の名やパスポート番号を言い、了解を求めている。 無事バリ島に入ることができた。 日本だったら、こんなことはできない。 スハルト退陣から5年。このあたりの事情は変わっていない。しかし変わっていたら、僕はバリ島に入れないまま帰らなくてはいけないし、再度の手続きも相当面倒である。 空港を出ると、バリ式エステを研修しているYさんが迎えてくれた。日曜日なので、現地のスタッフにピックアップしてもらうのをやめ、Yさんに来てもらい、そのままヌサドゥアのウェスティン・リゾートホテルに向かった。彼女を労うのと、今後のことをじっくり話し合うことが目的だった。 ウェスティンは大変気に入っているホテルの一つである。ウェスティンにKさんが勤めていて、彼女はクタのクルクルリゾートで働いていた時に、取引関係で知り合うことになり、ウェスティン・リゾートに移ってからもお世話になっている。 Kさんが用意してくれた部屋はトイレが二つ、リビングとダイニングと寝室、バスルーム、バルコニーという風に大きいもので、テレビも二台あり、ファクスもCDプレーヤーも備わっていた。 セダマラムがいけられ、香り高く、バリのあらゆるフルーツが置いてあった。英語、日本語の本まで備えている。 徹底したリゾートホテルの気配りだった。 バリ島は外国資本に土地を提供することによって、そこで働く人々と観光客を目当てにした関連商売を行う、という手法で近代化への波に乗ろうとしたのであった。 それがテロとウイルスで進展を阻まれている。テロの時は、天罰が下ったと冷静ぶって言うバリ人もいた。ウイルスの前ではその言葉は聞かれなくなった。ウイルスはディスコで騒ぐ白人だけをターゲットにするものではない。 インドネシアという国が漂流すると、僕らの会社も漂流し、バリ人たちも漂流する。この5年漂流を続けている。国という単位での時代の流れを読み解くのは難しいが、地球という規模と世界の地域や国々との関連で読み解くのはもっと難しい。 この5年間、ついに読み解くことはできなかったが、5年間で得た体験と知識、そして感覚、それに加えて5年分年をとった精神の積み重ねを凝集させて、僕は日本でやろうと思っている。 バリのスタッフとは今後も密着して共にやってゆく。 しかし、すべては日本という土俵で行われることになる。バリのスタッフたちは僕に変革を迫られる。変革できないものは、それでよい。帰れるバリの村々がある。そこは淡々とやってゆく。バリ人たちも外国の会社で、自らの都合に合わせ、自らの習慣や文化に守られ、彼らの土俵でここまで来いよ、という風にやってきたのだった。 僕は突き離すことを始めた。日本にシフトを変えるしか、テロ後対処する方法はなかった。するとつき離すことになった。皮肉なことだとは思わない。 文化や経済の段階の違うところが様々にあるこの地球上で、僕はアメリカという先進的な経済人国と、原始を色濃く残した経済的発展途上で停滞しているアジアのこの島で、合計12年仕事を通じて考えてきた。 なんでこうなるのか。こんなことと無縁な人はいっぱいいるのに、と思う。 ひとつ肝に銘じておきたいのは、アメリカにもバリ島にも固定観念を自分の中で形成しないことである。 これができればよいと思う。 2004年2月12日 最終回 3 海からの風が強い。椰子の木もフランジパニの木々もさわさわと風に揺れている。朝夕きまったようにスコールが来る。 5年間でめぐる季節も風景もそう簡単に変わるはずもない。個性がまるでない店づくり。どれも同じものを並べて売るには、共同体の中で突飛なことはできないという横並びの抑制された感覚がある。 横並び感覚に圧倒的多くの人々が支配されているいるのに、一部だけ富める人々がいる。その富める人々も同じヒンズー教であり、村ではバンジャールの長でもある。 川は上流から河口に流れるように、金や物は階層ある人々を通して不浄の海の方に流れる。<つまらぬ社会>だ。バリ人に映し出される陰の部分。陰気な部分はおそらく自らが作り出してきた共同の村の負の部分を反映しているのだろう。 この3月から始まる総選挙を僕が話す限りのバリ人はこう予測して言う。「必ず荒れる。暴動が起きる。政治家は自らの懐のことばかり考える。仕事がない。昔からの楽しみである闘鶏が禁止される。ニワトリやアヒルが死ぬ。物盗りも多くなった。絶対荒れる。しかし、この選挙が終わり、新しい大統領が選ばれると落ち着くのではないか。」 思えば、5年半前、ちょうどスハルト政権がインドネシア経済危機で退陣した頃にバリで事業を始めたのだった。思えばあの時からインドネシアは漂流しているのだ。漂流した筏に乗ってしまったことに最初気が付かなかったのである。 僕もこの5年半に渡って漂流した。。 どこへどう進んでよいのか、ただ、海の上で星を見、月を見て位置を見、しばらく目指す方向を定め、また方向転換するという具合だった。しかし、いつの間にか日本とバリ島に見えないけれど確かに橋が架かり、この橋を行き来する人や物の流れが、明日を築き上げていくだろう予感もある。漂流する者同士でも橋は架かるのである。 政権がどう変わろうとここの人々は生き抜き、島を守ってゆくだろう。脈々と代を重ね、陰気さが消え麗しい島という言葉にふさわしい人々の恥じらいのある微笑とその暮らしを獲得する日を見たいものだ。 2004年2月17日 最終回 4 昨日から突然、風が止まった。木の葉ひとつも揺れてない。むし暑さが増し、身体は汗をかく。天井のファンは一台しか回っていない。地元の小さなレストランでバリコーヒーを飲んでいる。まずいコーヒーだ。粉が沈殿するのを待って、飲む。起きてすぐ胃は食物を欲しがるが、頭の方はぼんやりしているので、ここで遅いブレックファストをとって頭が目覚めてくるのを待つ。 外国人をターゲットにした若い暗い顔をした新聞売り屋がくる。日刊スポーツを見せる。スポーツ新聞は要らない、と言うと、首を傾げる。これはスポーツニュースだ。アサヒやヨミウリはないのか、と聞くとちょっと逡巡して「アシタ、アサヒ、OK」と返してきた。「アシタ、イナイ」と言うと、プイッと帰っていった。 日刊スポーツは約500円。これを値切る交渉が必要だ。新聞ひとつ買うのもこの島は交渉という時間がかかる。 レギャンストリートの右片側は下水道の工事中である。連日機械でレンガを切る音がする。片側の道200mほどの店は商売にならない。 この道は一方通行になっていて、いつも車が渋滞し、のろのろと走っている。コーラやビールの配送車、労働者を荷台に詰め込んだトラック、観光バス、それにタクシー。 昨日、僕を訪ねてくれた福岡からの三人はサーファーだった。 一人はプロサーファーで、27才。日本のサーファーの世界をちょっと覗いた。プロ野球選手と同じように小さいときからやってないととてもプロにはなれないそうである。各地に大会に出場して賞金と実績を稼ぐ。そうして基盤を作り、40代になって店を開いたり、指導したり、協会の運営にあたる。 昨日、今日の風では、バリの海も波が立っていないだろう、と想像した。もう一人の男性は高校野球から飛び出たような若者で、あどけなさが顔にまだ残っている松坂大輔によく似ている。もう一人が主たる訪問者で、シルバーショップ、ゆくゆくはサーファーショップを開きたいので、会社設立の手続きをやってもらえないかという相談だった。僕が5年半前にしたことを今彼は始める。半分ほどはタイからシルバーを運ぶのだそうだ。 バリは何をしても物価が高い。生産基地ではないからだ。TシャツもタイのTシャツに席巻され、デザインのよいシルバーはタイからのものである。テガナンのアタさえもジャワ島のアタが入ってくるようになっている。地元業者は負けることになる。 目に映る範囲でもブーゲンビリアの花が数ヶ所に見える。約一時間程座っているこのレストランから、通り過ぎる人を見ているのだが、日本人とオーストラリア人の数が約半々くらいである。今、日本の大学生たちが休みなので多いのだろう。 暑い、それにしても暑い。中学生の時、相撲部と柔道部のクラブ活動で汗腺を開きっ放しにしてしまい、未だそれを身体が記憶しているのだろうかと思う。 台湾の女の子たちが通る。台湾の女の子たちは、4,5人のグループで歩くのと、日本人とちょっとファッションが違う。日本人女性よりちょっと装飾が多い。歩き方も内股ではなく、足を開いて歩く。 今回の仕事は全て済んだ。すべて各会社はテロ以前のシフトに戻した。絶えず日本を核にして、ここでの仕事を行う体制に整え、変えた。今夜10時にレギャンを発つ。 完 |