| 2003年11月12日 ズガニは上海ガニ? 慌しくバリ島に行くことになった。行くまでに片づけておかなければならない事が山とあった。山とあったというが、残業を夜の10時までする、ということではない。朝10時から7時30分まで慌しく仕事をした、ということである。 バリ島に行く前に、名古屋と大阪、また名古屋で人と会う約束があった。 今日、朝6時30分頃起き、JRの南紀特急に乗って名古屋へ行き、今後のエステ用材、ノウハウの話し合いをエステ商社の社長たちと話し合った。それが正午に終わり、大阪へ向い、僕の仕事の手伝いをしながら自立していきたいという女性と会って話をした。 しばらく「ハッピーバリ」でバリのスタッフ達と冗談を言いながら、言うべきことを言って、新大阪からまた名古屋に戻った。名古屋でKという会社に勤めるYさん(32才)と会い、楽しく酒を飲み、話をした。話をして楽しい人については何も言うことはない。恐らく、どこか共通した思いと過去のようなものがあり、互いに共振できる感情の幅が合うのかもしれない。相性が合う人と話をするというのは気持ちのいいものだ。 いろんな話をした。職場の事、私生活の事、政治や思想・哲学の事、そして最後は紀伊長島で採れる「ズガニ」が上海ガニではないか、ということ。尾鷲では見たことないため、ぜひとも「ズガニ」をみんなで食べるチャンスをもうけよう、ということになった。「ズガニ」とは何とも響きが悪い、と僕は言った。彼は言葉の響き、言葉のストーリーを組み立てて商品化し、物を売る、その頭脳になっている人物である。いかにも僕のその感想は彼の笑いを誘った。そういう風にして、「じゃあ。」と言って別れた。ズガニは上海ガニ?これはおもしろい・・・ 自分にとっておもしろくない人間と、おもしろい人間というのがはっきりしている。こういう面に関しては忍耐がなくなっている。 いろんな人間をまとめていこうという立場でないから、気楽にプライベートな判断で、「話したい」「話したくない、もう結構だ」を決めている。多分これは老化だ。昔だったら無理したこともあった。 Yさんは会って楽しい人である。僕よりずっと若いのに、である。 さて、僕は明日、バリ島に旅に出る。誰もうらやましいと思う。自分の時間の制約を思う。 バリ島では5日間であるが、主な目的はまず顔を見せること、僕がずっとバリと関わっているということ、新しい試みを示し、それを確立すること、新しい人脈というか取引先を増やすということ、である。どこまでうまくいくかわからない。 バリ島はテロから1年。政治はゴルカル党とメガワティ率いる闘争民主党との戦いになっている。その中にわずか5日間でも入っていくことになる。 僕らのような会社はそれが大変な事である。 シガラジャやタバナンの方で、それぞれの支持者たちの間で争いが起る。人が死ぬ。するとすぐに観光客のキャンセルがある。 ここ名古屋のホテルの夜中。すでにバリ日記は始まり、バリのことで頭がいっぱいになっていると思う。 2003年11月14日 いろいろと バリ2日め。僕にとっては1日め。今日はいろんなことがあった。アキちゃんが復帰した。1年と1ケ月ぶりである。爆弾テロがあり、入院がありで、交信はしていたが、僕のほうはにっちもさっちもいかなくなっていた。 アキちゃんの復帰は嬉しかった。嬉しかったのは僕流に身勝手に言えば、僕の呼吸に賢いアキちゃんが会わせてくれたことだ。頃合いをはかる才がある。頃合いをはかる才があるこそ、押しが弱いとも言えるが、人生どこかで助け合うならば呼吸がわかった人である。 ということで、アキちゃんはHP上の記事を再開してくれる。 この感情をうまくアキちゃんに言えればいいのだが、なかなかうまくいかない。アキちゃんもこういうところはあっさりしている。感傷っぽくならない。 グランブルーの一番の顔、ウィドニーが辞めてしまった。男性スタッフがからかったその言葉が許せなかったらしい。頑なに戻ることを拒否する。なかなかのものである。僕の方針は決まっていた。ウィドニーが僕が来た以降本当にやめるようなことがあれば、からかってウィドニーを怒らせやめさせたその男性も道連れだよ、ということだった。その男性スタッフにそのことを言った。「ウィドニーを呼び戻せなかったら、あなたも一緒にやめるんですよ、いいですね。」 これが真意だけど、多分僕の表情からは「わりゃあ、ウィドニーを呼び戻せなんなら、イナも一緒にやめてけよ」となっていただろう。 「女をいじめる男、みんなでよってたかって女をからかう男たち、は許せん。」 僕は大きな声でそう言った。 すると、脇から若いコマンが「えのもとさん、ストレスをためたら、よくない。」 と口を挟んできた。 僕はにっこり、「コマン、こんなのはなんにも。俺はずっとずっと経験を踏んでいる。なんてこたあない。おれの原則に従ってやってるだけだ。それはフェアーというやつだ」 エステの新技術導入のため、全員で打ち合わせをした。新しいエステ用材を開発して、それを試そうというわけである。開発というのは楽しいものである。こうか、ああか、こうでもない、ああでもない、といろんな人の助言を受けながら開発は進んでいく。 研修できている清水さんにも、そのままを見てもらう。なんでも10年やればプロになる。プロになって相撲力士のように強い人もいれば弱く番付けが下の人もいる。10年続けたのは才能のひとつであり、そこからさらに技を磨いていくのは別の才能である。 開発の現場にいたら一足飛びである。この開発商品についてはわかるはずだ。 それはさておき、間違ったことを10年やりとおしていて、私はプロだ、と言えない場合がある。中学生にはウサギ跳びが足腰によいからとウサギ跳びばかりを罰則でやらしていた教師がいたとする。ある日科学の力で、ウサギ跳びは筋肉を痛めるだけで、足腰の鍛錬にはならないとということがわかった。 中学生から見ればどうしてくれるの?である。教師はだいたい黙っている。 もうひとつ例がある。 中国での6年ほど前の話である。ある電話局で電話番号をつぶさに覚えてている天才的女性がいた。彼女の価値は高く、一度聞いたら憶えるその能力にかなう人はひとりも周辺にいなかった。ところがコンピュータが導入された。それで彼女は終わった。コンピュータがあれば彼女以上に間違いなく電話番号を教えることがコンピュータができる人なら誰でもできた。 長々と前置きは長いが、エステも同様だと思っている。むちゃくちゃに身体をいじくっていて、何の脈略もない10年選手のエステテシャンよりも、筋道をきちんと習い、現在の科学に裏打ちされている1年選手のほうがずっとよい。 そういう思いで清水さんの研修を引きうけた。 今回の渡バリはエステがテーマである。バリハーブボールというのを作ったので、それを導入したかった。このバリハーブボールは12種のバリ島のハーブが入っていて、それを布に包むのである。それをスチームして暖かくし、ツボに当てるのである。温度が42度くらいならとても気持ちがよい。レモングラスやアサム、対葉豆やノニなどオリンピックの代表選手のようなトロピカルハーブが勢ぞろいしている。 そのハーブボールで肩から上のデコルテを確立したかった。全部脱ぐことに抵抗を感じる人のために気持ちのよいエステを提供したい、というのが本意であり、ビジネスのポイントである。 僕はいつもこんな風に思ってしまう。理論のほうが勝つのだと。下手なラーメンスープよりも美味いインスタントスープだと。下手な20年選手よりも1年選手のほうが上だぜ、ってこともある。 だから清水さんはそうあってほしいと思う。いやいや物事はそううまくはいきませんよ。やっぱり石の上にも3年。くいしばってこそのものがありますよ。 だったら3年。3年、清水さんは我慢すればよい、と言う風な理屈になる。 今日はここで書ききれないほどいろんなことがあった。これを密度の濃い一日だったというのだろう。バリにこそ自分の人生の拠点があるのだろうか、バリ人のためにも、と思ってしまった。 2003年11月15日 アマヌサ デンパサールへ行く途中、久しぶりに紫色の桜のような花が通りで咲いているのを見た。「マオニ」というらしい。フラボヤントと大きな枝豆をつけたような花も咲いている。フランジパニも今が一番美しいと思う。バリ島は今花の季節なのだろう。気温は32度を越えていて、湿気がひどい。僕にとって汗がでっぱなしである。その分、トイレにはいかなくて済むので楽なのだが。 これほど暑いのは久しぶりの体験である。バリはこんなにも暑かったか、と思う。思えば以前も暑くて頭が痛くなり、クリニックにいったことがあったことを思いだした。11月は一番温度と湿度が高いのかもしれない。 バリ島で一番好きな場所といえばアマヌサリゾートの敷地である。ここはいつ来てもよい。セダ マラムという花のみを生けて、その香りが充ちている。天気がよければ、テラスというレストランの左上空に月がでて、眼下の海に月の光が映し出される。階段を下り、プールサイドを渡ると、右手にイタリアンのレストランが重厚な建築物として存在し、その照明の加減もまた落ち着いてよい。 別世界を感じるが確かにここはバリ島である。木も草花も、アランアランの屋根もバリ島である。下の世界のほうから聞こえてくるセレモニーの音楽は全くバリ島である。ヴィラタイプのリゾートホテルとしては抜きんでている。このデザイナーはどんな人だろうと思う。あらゆる場所に気配りがされている。 回廊を歩くにも、小道を歩くにもさりげなく、目に入り、なごませるように工夫されている。石彫、照明、花、蝋燭、絵画やイカット、音楽演奏者達の位置。 ゴルフ場が前だからゴルフをする人には最高の場所だろう。 普通、こんなホテルに一生のうち何度泊まれるだろうか。 レギャンから解放されたいと思う時、じっくりと話をしたい時は必ずここに夕方来る。いつも満月の時を狙ってくる。この日はめったに聞けない「スマール プグリガン」という小編成の静かなガムラン音楽が聞けるのである。月が昇り、その月の光が海に映え、余韻が重なったような青銅器音楽の調べが一連の建築物に共鳴しているようである。 いつも駆りたてられる。いつかこれ以上のホテルを作りたいと。夢は果てしないが誰でも現実の歩みはのろい。途中で果てるか、たどりついて果てるか、いつもここに来て思ってしまう。そして静かな情緒に浸るのである。 2003年11月16日 ここまで来たぞ 去年の爆弾テロの影響はすごかった。日が経つにつれてなおもその影響下にる。毎日更新で新しい情報をお届けしようと毎回楽しみに編集をしていた「あれこれバリ島、発見・発掘」も毎日更新ができなくなり、古い情報や新しい情報の整理もできなくなった。 1年以上の忍耐は今度はインドネシア内部の政治の問題に集中されていきそうな雰囲気がある。それを見越す人々が圧倒的で、政治混乱が沸き立つのは必至である。するとまたバリ島の情勢が悪くなる。 アキちゃんが復帰することになってまもなく彼女のレポートが毎週届くようになる。これはたいへん嬉しいニュースだと思っている。ここまで来るのに、アキちゃんの入院もあったが、バリの会社が立ち行かなくなった事情もある。レギャン通りは封鎖されたのである。 さて僕の方である。この4年間の日記を読んでもらえばわかる。僕は今は仕事の大部分を日本に移し、バリ島を生産や制作の拠点としながら日本で展開するシフトに入っている。爆弾テロが起きたとき、さっさとそう決めて実行した。実行までにかなりの時間がかかったが、ようやくそうなりつつある。 僕のスタンスは「尾鷲」中心である。居住地が尾鷲でそこから離れる気持ちは今のところない。魚はうまいし、住むには便利であるし、住みなれている。さらにインターネットという強い情報通信手段がある。これほど便利なものはない。インターネットがなかったら、僕のようなスタンスはとてもとりにくいだろう。 バリ島の各会社の情報、大阪の情報、そしてマーケティングやら、調査や交渉の数段階まではインターネットでやれるところまではやれる。人との出会いもまたインターネットである。 今はバリ島について考えることはそれほどない。馴染んでしまっている。不安感もない。事情がわかってしまっている。たぶんあと5年もしたら、僕はバリ通のプロになると思う。10年やれば人はプロになるものだ。それでもまだ僕は50代。案外人生も長いものだな、と思う。 なんでも最初「不安」はある。飛び込んでしまえばたいていの不安は3年でなくなってしまう。そんなものだ。神経質に考えることでもない。僕は僕なりのやり方でこの解消をしてきた。 「僕のバリ日記」もこれからは結構緩慢になると思う。冗長といおうか。中止することも考えたが、続けようと思っている。情報ととってもらえれば、何か新しい情報を提供できるかもしれない。心の動きと考えれば、緩慢さがいつなんどき緊張に変わるかもしれない。そして一人の人間の様子を知らせることができるかも知れない。 もう今日の夜には日本に帰る。万華鏡が待っている。万華鏡の謎解きは100%終わった。あと一歩である。エステ用材の展開準備もすべて終了した。こんな風に仕事がシフトした。 グランブルーは12月の中旬から新メニュー。エステ・デ・マッサは僕が指揮することとなり、23日から新メニューに 新技術が導入され、価格も変わる。品質重視のサロンにしたいと思っている。 ゆったりと行こうと思っている。時間はかかるものだ。はや2004年が待ち遠しい。 |