| 2003年10月1日 台北の夜 台北は相変わらず賑やかで騒々しくエネルギッシュな都市に見えた。中国語が飛び交うせいかも知れない。士林夜市で目当ての甘辛く煮た小さな巻き貝とガーリックとチリで炒めた渡り蟹を買って、あとはこれを食べる屋台をうろうろと探して歩いた。渋谷に売っていそうな安物のアクセサリーや衣類の店が並ぶ通りを抜け、新しく引っ越したという飲食店が並ぶエリアに足を運んだ。 小粒の蛎や白菜を入れたお好み焼きのようなもの、鉄板の上にアルミを敷き、濃厚そうなソーズで炒めた野菜や鶏肉や牛肉。どれも美味そうに見えたがそれは我慢した。妻は食べたいものがあるらしかったが、とりあえずは巻き貝と蟹を食べるためにちょっと元気がたりない主人の客も少ない一角の店に入った。 僕はビールを頼み、巻き貝と蟹を出した。妻はいろいろと注文したので、それを肴に気持ちよく、満足の気分で飲んでいた。すると40代らしき男性と30代らしきカップルが来て注文を始めた。僕らが食べているのをこっそり見ながら注文している。よそ者だとわかった。食べ終わる頃その男性が話しかけてきた。 「日本から来たの?先月札幌に行ったんだ。ひどい台風に遇ったよ」 台湾の人にだと思ったが英語が流暢すぎる。奥さんだか愛人だかわからないが彼の隣にいる女性は美人である。きっと台湾生まれの外国育ちなのかもしれない。二人とも英語が上手である。 「カナダに住んでるんだ。投資の仕事をしていて、世界あっちこっち行っている。息子はイングランドで勉強している」 調子よく話をしていて、この男性は香港の人で、今カナダに住んでいることがわかった。その女性は奥さんであることもわかった。買い物好きだということも。それで結局は連絡先の交換をして、See you again. と挨拶をしたのだった。 ますます気分が高まってさらにその界隈をぶらぶらしていると、衝動買いで珍しいハーブを20種類も買ってしまい、台湾ドルがなくなってしまった。両替屋がない。銀行は閉まっている。バリならどこにも両替屋があるが士林夜市ではそうはいかないのだった。前方にを見ると薄汚れたビルがあり、「ホテル」という看板がある。相当古いから両替はないだろうと思いながらも、入っていった。僕よりは年とったおねえさんがいて、 「両替はやってないよ」と言う。 「なんとか替えてくれないか」と頼むと、 「レートはいくらだい」とプロっぽい言い方をする。 「空港で2.95」 「そりゃあ歩が悪い。だめだ」 と足元をすっかり見られている。 「じゃあ、2.6、まあいいや、2.5でどう? 1万円 2500ドル」 というと、笑みになって、サイフを取り出した。 今度は広い通りの屋台の店に入った。昔食べたタンツー麺が美味しく、ぜひタンツー麺をということで、ビールを頼み、タンツー麺を頼んだ。台湾のタンツー麺はスープがあっさりしていてとても美味しい。しかも小さなどんぶりなのがよい。 すると40代の男と70代の日本語ができる老人が話しかけてきて僕らの前に座りこんだ。若い40代の男はビールを頼み、茹でたイカと茹でた海老を頼んだ。それを僕らに遠慮せず食べろと言う。イカにはワサビがついている。海老はチリソースがついている。 「僕は75歳だけど、日本人の軍人さんから日本語教育を受けた。頭に染み込んでいるよ。日本人は表裏がない。中国人は表裏がある。だから日本人が好きだ」 と言って日本人と会えたのが嬉しかったのか、日本が台湾を占領したときの話を聞くことになった。 台湾での日本帝国軍人や教師たちの評判はよい。下水道を整備した。これが台湾発展の力になった。お茶の技術も教えた。中国本土のお茶とは比べ物にならないほど台湾のお茶は優れている。物作りのこだわりを教えた。戦後台湾がやや遅れてでも成長を遂げたのは日本人を敵視しなかったからだ。そういう素地があった。 二人は僕らの前にどっかりと腰を落ち着けた。若い40代は旅行会社をやっていている。陳さんと言う。老人は彼の叔父である。やはり陳さんと言う。長身でガッチリしたとても75歳には見えない老人だった。僕らが食べた分までお金を払ってくれた。よく似たようなことをしたおぼえがあるから、それは奇妙とも思わず、奢ってもらった。奢ってもらう理由はないのだが、雰囲気はそうなった。自分で頼んで僕らに勧めるのだからそうなるのは当然でもある。 酒もたっぷり入ったし、「カラオケに行こう」と若いのが言い出した。ちょっと断れない雰囲気だ。「温泉街に台湾一のカラオケがある。そこへ行こう」と言ってタクシーを止めた。僕はレトロなバーに行くつもりでいたが、それはあきらめてついていくことにした。興味もある。 20分も走ると北陸の温泉街のようなところがあり、着くと大きな女性中国語で迎えられた。カラオケバーにいくのかと思っていたら、地下にある広い部屋に案内された。そこには大きな回転式テーブルが置いてあるだけだ。女の人たちがドコドカ入ってきて、先ほど屋台で食べ残した料理が配膳される。それに新しい料理が加わる。女たちが中国語でかしましく声をたてる。 「生バンドがくるから」と陳さんは言う。床を畳に替えたら日本のお座敷じゃないか。女性は白いポロシャツである。若い女性は一人もいない。日本酒をもってきてついでくれる。どうも水で薄めているようだ。女将さんらしき人は目もしっかりしていて着ている服も違う。もうひとり制服でない女性がいたが、陳さんにだらしない顔してよりかかっているから、女将ではないだろう。チーママってところか。 勝手がわからないため、どうも楽しめない。身包み全部剥ぎ取られるのではないかとも思った。7,8人はいるコンパニオンさんが次々と「カンペー」とか言ってくる。ためしに相手のを飲んでみたら「水」だった。う〜ん、良心的、自分を守ろうとしている。毎日酒ばっかり飲んでいたら身がもたんよな、などと思っていると、バンドがやってきた。さて何を歌うんだろうと楽しみにしていたら「大利根月夜」だった。すぐに僕に歌えという。誰もじっとしていにないから落ち着かない。 「銀座の恋の物語」を歌えという。「赤いグラス」を歌えと言う。それもこなして、潮時を考えていた。両陳さんはすっかりご機嫌である。 ここはどこだかもわからないし、「逃げる」というのもなんだし、「陳さん、もう12時も過ぎて明日は早いからもう失礼するよ」と退散の申し出をした。 「何を言っ手てるのか。2時間、借り切っているのだから、あと1時間はいなさいよ」とひきとめにかかる。バリで500万円やられたことが疑心暗鬼にもさせている。 そのうち旅行会社で景気がいいのか、若い陳さんが100ドル紙幣3枚ずつ女性たちに配り始めた。それを機に「これで失礼します。ありがとう。大阪かバリに来たらお返しするよ。台湾でバリ旅行を企画したら、現地コーディネイトはするから。」と言って、握手して外にでた。ママさんがタクシーをすぐに呼んでくれたらしく、すぐにタクシーは来て、ホテルの戻ったのは1時を過ぎていた。 タクシーの中でいろいろなことを思った。人昔、「社長、社長」などとおだてられると大盤振る舞いをする人がいた。僕もしたことがあった。 昔、と言っても12年ほど前、会社にアメリカやオーストララリのスタッフが入ってきた頃、あまりにも尾鷲の人が「飲め」や「食べ」やでどの店に行っても奢ってくれるで不気味がっていた。僕はその雰囲気はわかるので(外人は尾鷲の人には珍しいし)説明してやると安心したのか、その後は奢ってもらうのが当然のような顔をしていた。 「台湾は独立するべきだ」と老人は言う。 「でも国民党は捲土重来、悲願は大陸の中国に帰ることにあるのではないか」と僕は言う。 「中国はだめだよ」と老人は言う。息子を日本の大学に行かせた。日本びいきである。軍人にたたきこまれた人だけに背筋をピンとし、たいそう紳士的な老人ではあった。だが、僕に台湾のお座敷のシステムを説明するには語学力が不足していた。 けたたましい台北の夜であった。道を聞いても英語のわかる人と出会わなかったのも12年ほど前の日本とよく似ていた。塾の数の多さにも驚いたのだった。話す英語ではなくきっと受験の英語をやっていると思う。 2003年10月2日 元気を取り戻せ 3ケ月ぶりのバリである。到着するやいなやチュルクに行った。帰るまでに銀の細工を作ってもらわなければならない。時間が限られている。やり直しがあるに違いない。銀のアクセサリーの店をやっていた。一昔前はツアー客で大もうけしたであろうこの店の裏庭には広く、様々な果物がなり、屋敷も大きかった。しかし今回行ってみると店は閉じていた。爆弾事件以後この後継ぎの若夫婦と会っていなかった。母親はやり手で、この若夫婦に店のあとを継いでもらいたかったのだった。留守番をしていた女性によると、その母親も出かけていて、娘はスカワティの近くにオープンした小さなマーッケトの半畳くらいのスペースを借りて地元の人たちの衣類やアクセサリーを売っている、ということだった。お婿さんはホテルに働きにいっている。 そのマーケットまで行くことにした。彼女は小さな店にいた。明るく手を振った。こちらは4人なので、マーケットの人たちは一斉に好奇心で集まってくる。 設計図を見せ、これを銀で作ってほしいと、細部について説明し、製作は可能か、いくらになるか、何日かかるか、を教えてほしい、と注文をつけた。明日、電話で返事する、ということだった。いっぱい注文をくれ、と言う。もちろん成功したらいっぱいする、と言って、辞去した。 マーケットに並んでいる品は一昔前のものばかりで、どうしてこのような店が今になっても建ち並ぶのか不思議である。 スカワティもチュルクも全く元気のない村になっている。 グランブルーは賑わっていた。立ち代わり客が入ってくる。どうやらだんだんと元気になってきたようだった。レギャン通りの様子を見に、通りを北に歩いてみる。 アパッチという店が賑わっている。マカロニが改装を終えて大繁盛だ。通りに数あるレストランやみやげ物店はどこも客が入っていない。特に、地元の人が経営している店が閑古鳥である。テロで店が持ちこたえられていないのだろう。品不足と新商品のなさが資本力の不足を物語っている。爆弾の跡地には塀ができて供花が置かれ、その前は今工事中である。あと8日であの爆弾テロ事件からちょうど1年である。 マタハリデパートは3階以上を閉鎖している。今の時期さえ置いてあったマンゴスチンもランブータンもない。 よい匂いをさせてシーフードを売るレストランも活気がない。忍の一字。みんあ忍んできたのだ。それがありありとわかる。シェフのバワが急に辞めていったスタッフのことで話をしているうちに、「みんな頭の中は金、金、金なんだ。今日の金のために信義も誠実もルールもあったもんじゃない。今、我慢して腕を磨きあげるということも考えない。お金には苦労してますよ。みんな」と、やや元気なく言う。 「今、調子が戻りつつあるのだから、思いきってメニューも替え、テーブルも替えよう、花をもっと置こう。食材の質の向上も図ろう、今やっておこう」と僕は言った。1年は長かった。みんなも不安がずっと続いたのだ。花がしおれるように人間もしおれてくる。 ヤーマもエステ・デ・マッサのスタッフもしおれている。肝心要のブックツリーのスタッフも淡々とはやっているが、元気がない。あるのは自分ばかりか。 この1年はなにもできなかったのだし、シフトを日本に替えたのだった。明日から元気を取り戻させるために日本で練りに練ったプランを実行に移すのが今回の渡バリである。 2003年10月5日 レゴン・ラッサム ウブドゥにアルマという美術館がある。そこでに日曜日の夜「レゴン・ラッサム」の完全版をやっているということで、見に出かけた。 レゴンダンスと言えば、「ティルタサリ」のレゴンダンスなどをこれまでに見ている。少女の軽やかで、俊敏な動きと、めりはりの利いた身体の動きがなんと言っても特徴で圧巻であった。 観光客用に25分ほどに縮められているそうだ。だから期待してアルマに行ったのだった。今日の歌舞団はプリアタン・マスターズという。ここのレゴンダンスは俊敏な動きというものがなかった。レゴン・ラッサムだからなのか。 レゴン・ラッサムはレゴン・クラトンよりも前のレゴンダンスだという。 レゴン・クラトンも古典とお言われているから、ラッサムはより古典というわけである。しかしこの知識は定かではない。 観光客にレゴンダンスを見せるようになってスピード化が起こったのか、おそらくティルタサリのは華麗で早い。今日のはやや趣が違い、ダンスの主人公が王に扮するダンサーになっている。ティルタサリのは侍女が主役っぽく、華麗に舞うのであるが、今日のラッサムは王と王妃の踊りが主になっている。これは迫力があった。比較すると悪いのだが、蜂や蝶のように舞うことはなかったので、なんだか物足りない感じがした。 僕は身体の動きは心の動きだと思っているところがある。膵臓の働きが悪いと身体の動きが悪くなり、当然心の動きも悪くなる。あるいは中上健二が書く小説「千年の愉楽」で描写される主人公とその女の身体の動きは一方の人間の究極のエロスというよりも自然な男と女の交わりと感情と心を表現しているように思える。 レゴンダンスは健全な女子が踊るべきものであり、不健康な女子ではとてもできないように思う。 踊り=ダンスというものを見るとき、気持ちが騒ぐのは身体の動きで心をどこまで表すことができるのか、また心の有り様を越える身体表現というのはあり得るのか、というところに目が吸い寄せられるからだ。 古典と言われる「レゴン・ラッサム」。昔、この踊りが宮廷で演じられていた。その時代の人間の心はわかるはずもないのだが、普遍的にわかる部分もあるというのが今日みたものの素直な感想のような気がする。 完全版といわれてもついていけない僕だった。演じる側が下手なのか、僕の見る目がないのかわからないが、逆に古典を演じるもののたいへんさを思う。過去に遡って過去の人間の心模様や時代の背景を感じとって演じなければならない。 ガムラン演奏者の質は高かった。惜しむらく演奏スタイルにもっとパフォーマンスがあってよいと思う。太鼓を打つ人はもっと手を上げてもよいし、青銅器楽器を奏でるのももっと目立ってもよい。音はアルマの屋根に響き、百花繚乱の音なのだから。 レゴンダンスを見に行こうという気分になったのだから、そしてこれについて書こうと思ったのだからバリ島も落ち着きを取り戻しつつあるということだと思う。 2003年10月6日 オールドバティック 今年は雨季の来るのが早いという。10月は暑くてじめじめし、おまけに風が吹き、突然雨が降るという印象だった。実はそんなことはないのかもしれない。印象が重なりあって、勝手にイメージを作っているのかもしれない。毎日、毎日涼しい日が続いている。いつも汗をかきっぱなしなのに、今回はハンカチが要らないほどだ。 朝は、ガムランボールの写真を撮り、それを日本に送ることで過ぎてしまい、昼に大阪ハッピーバリのスタッフの家族が来ては話をし、元気でやっていると伝えていると、オールドバティックを探し、それをアレンジしてクッションやバッグお作る女性とそのだんなさんが来た。彼女のセンスは優れていて、どこか洗練された趣がある。生まれもってのセンスなのか、センスの流れを絶えず追っているのかわからないが、彼女の作るものはよい。イレーンという名前だが、そういうブランドはできないものかと思う。彼女に金の繭でできた丸いランプを作ってほしいと注文した。ハッピーバリのランプシェイドはすべてイレーンが作ったものである。来ていただいた方はわかると思うが金の繭を通してでる明かりの雰囲気はなんと呼べばよいのか心が和む色合いをしている。店は高級感が漂うようになる。彼女の本職はガーデニングであるそうな。庭をデザインする。バリ島のようなリゾートホテルの多いところではおもしろい仕事だろうと思う。朝、昼、夕と夜、同じ庭でも表情が違う。それをどう演出するか。見えないところにいかに気を使うか。植物や石や土のことをよく知り、設計をする。 クッションカバーもバッグの柄も庭と通ずるところがある。思いがけず見つけた50年ものの好きな色と柄のバティックは、誰にも売りたくないのだそうだ。話を聞いているとその気持ちは趣味のコレクターの気持ちと同じようだ。 新しいバティックは綿でもプリントのせいかごわごわしている。オールドバティックの肌触りは年月を経た分だけ格別の肌触りである。見たこともなく模様のよいオールドバティックに出会うと興奮し、誰にも渡さないという気持ちも出来上がったものを見ているとわかる。 オールドバティックの難しいのはそれを置いたり使う場所である。たんに腰巻きで使われるようなものをアレンジするのである。それを現代の都市の空間で素敵に見せるようにするのである。古いバティックに命を再び与えるようなことをしている。 彼女は庭だけではなく身の周りの物にも目をやり部屋のインテリア全体へと 仕事の幅を伸ばしているように見える。いずれ彼女を起用する建築事務所などがでてくるに違いない。 アセアンの会議が明日から始まる。オーストラリアから3000人の観光客が一度にくるという。ブッシュ大統領も近々くるという。まだまだ昨年並みにならないけれどだんだんと活気づいてきているバリである。 だからこそイレーンという女性とも会える。 |