No.18(2003/06/12〜06/26)

2003年6月12日
未来へ

 名古屋からと大阪のガルーダ航空は6月末まで欠航。初めて日航のデンパサール経由ジャカルタ行きの便に乗った。来週からは、これも欠航だそうである。客はインドネシア人が多く、日本人のバリ観光客は30人くらいのもだろうか。
 思いもかけないSARS騒ぎで、バリの事業計画の再度の変更を迫られているのと、僕の在留許可証の期限切れが13日であるのとで、ぎりぎりの12日にバリに行くことになった。滞在は2週間である。本当は1ヶ月いなくてはならないのだが、先にパスポートをEMSで送り、手続を先行してもらって、2週間の滞在で許可証がでるようにしてもらった。こういう場合は融通がききやすく、有り難い。
 爆弾テロがあった昨年の10月12日以降の3ヵ月より、今の方がバリの状態は悪い。アメリカ同時多発テロ、バリ島爆弾テロ、イラク戦争と積もり積もったボディブローが効いてきたところへSARSという敵の見えないウィルスの攻撃であった。
 これまで経理関係もきっちりとやっていた我がレストランだった。昨年の8月は最高新記録の売り上げとなり、初期投資の回収も早まると喜んだのだった。
 SARSの影響以後、レストランで働く人たちも、明日のことよりも今日をどうするか、という風になってきて、売り上げからお金を拝借したら、その連絡がなかったりと混乱している。
 誰もそのことを止めたりできない。黙認している形であり、報告もないという状態なのである。総コントロ−ルをするブックツリーのバリスタッフとて黙認している。この状態がイラク戦争からSARS騒ぎを経て今日にまで至っている。
 バリクリフ、メリア、グランドミラージュが閉鎖、又、ヌサドゥアの他のホテルは半分灯りを消し、耐え忍んでいる。レストランは閉鎖が相次いでいる。
 そんな中グループ会社のスタッフの一人が自殺し、一人が「できちゃった婚」で結婚した。
 シェフのバワも、他のスタッフも一様に表情が暗い。バワは同郷の者を6人ここで働かせている。リストラ策に容易に賛成はできない。
 誰がいくら借りたか(持ち出したのか)、このリストを作ること、誰が、いくら他の金融機関からお金を借りているのか、まず、それを正直に申告させることにした。
 イラク戦争が起きるまでは、とりあえず12月まではこれまで通りの給料であった。運よく1月から3月までの期間はやや回復しだした。しかし、皆で話し合い、出勤を半分にして、なんとかしのいでいこうと決めたのだった。イラク戦争が終わり、なんとかしのいだと思ったところへSARS騒ぎとなった。バリ島ではSARS患者はゼロであるが、旅行客の心理はバリの観光業も飲み込んでしまった。
 爆弾テロ後、日本からお金を送り、しのいできたが、リストラ策をとらない代わりに全体の経費をきりつめる策をとった。
 うまくいっている時はいいが、悪くなり始めると、効率や能力の差も目立ち始める。20人で働いていたのを10人でやろうという考えも出てくる。すると、全員が疑心暗鬼で不安になり始める。今、自ら会社を辞めたとて、この悲惨な状況は変わらず、仕事を探すのは難しい。
 パニックになる寸前のところだった。
 グランブルーは底力があることがわかった。こんな状態でも、客はほどほど来る。これが何よりもよくわかったことだった。
 僕は今回、みんなの様子を見て、手を打ち、資金注入も図って、より万全なものにしようと思ってきたのだが、実はもうひとつ計画があった。それはバリ島に新しい産業を興したいというアイデアがあったからである。そのためのリサーチを前もって日本でしたが、果たしてバリ島で僕の考えに乗ってくれる人々がいるかどうか。今回の滞在の半分以上は、バリ島でのリサーチとうまくいける可能性があるならば説得に使いたい。それは、アメリカ市場、日本市場、ヨーロッパ市場を狙った「花」である。品質の良い花と品質を保つ輸送、品質とおりの市場への到着である。
 うまくいくかどうかはわからない。花農家を消費者の立場から育てる。良い花を世界の各地に届けられるようになったら、自分の知恵や情報にも交換価値がつくし、バリ人の花農家も一歩踏み出すことにはなると思う。


2003年6月13日

  翌日、ゆっくりと起きて、ゆっくりと朝食兼昼食をとった。昼から経理関係のことをチェックし、やおら、「花」の探索に出かけた。まず、花を見てみようというわけだ。もっとも気になるのはバリでの「輸出の実績」と「品質」である。
 雑貨にしても「キズ」をバリ人はなんとも思わない。それはそれでそんなことを気にしない大らかさと認めるのだが、日本のマーケットに入ってくると、そんな大らかさは通用しなのである。日本人はその点は逆に病的でもある。
 デンパサールの花屋を見て回った。案の定、花は話ならないほどキズがつき、傷み、素人の僕にさえわかる。セダ マラムもなんだか汚い。大きなホテルのロビーに置いてしまえばわからないかもしれないが、花屋で個人が選んで買うとなると許されないだろう。
 デンパサールで「ラン」を専門に栽培している花園を訪問した。見事にランはいっぱいあるのだが、なぜかしらキズや斑点が多い。日本では売り物にならないだろうと思う。「輸出などまっぴら」で、十分バリ島だけで採算がとれて、儲かるのだそうだ。
 たとえばデンファレ1本が花の数によって値段が決まり、5つの花があれば40円する。それだけで日本への輸出は無理である。輸出ならば1本5円くらいにならないと商売にならない。はたして1本5円で買い取るとし、デンファレの栽培をする人がいるか、である。
 クタにあり、一度だけ輸出をしたことがある花屋に行った。確かに選び抜いたセダ マラムのオランダ種、地元種、菊、などが置いてある。すべてジャワから来るそうである。ならばジャワに行くべきではないか。話はそうなる。するとジャワに品質を見定めるスタッフが必要になる。
 人材の育成の手間を考えれば、バリのこの店から買ったほうが安全である。
 まったく知らない世界だから思いは巡る。実際に花を見定めて、買い付けをし、梱包をして、ラベルを貼り、植物検査をとおり、飛行機で運んで、再度検査を受け、税関をとおり、トラックで運んで市場に着き、値が決まるまでをやってみないとわからない。僕は一日で「う〜ん」と唸っている。
 バリ島で花を作るのはどうか。水がないという。地域が限られるという。暑いところはだめで、ブドゥグルが適しているという。ブドゥグルが最も適しているが運送に遠い。
 いろんな人から話を聞けば「花商売」は難しそうである。しかしである。誰も本格的に外国市場を狙った人はいないようである。
 たとえば日本市場を狙って花を作るひとはいないようだ。ならば、日本市場向けに花栽培をすれば、自動的にヨーロッパやアメリカを狙えるのではないか、と思う。
 5円のデンファレでも5円のセダ マラムでもよい。それを1回10000本出して、それを月に10回だせば50万円ではないか。コーヒーを作るよりもよほどよいような気がする。1平方メートルに50本できたとしても1アールで5000本できるではないか。10アールあれば50000本になる。すると1ヘクタールとなれば50万本になるはずだ。すると2ヘクタールや3ヘクタールの農地を利用すれば海外市場は狙えるのではないか。
 ブランドとして育てたらよい。ブランド品となり10円になれば一挙に2倍の収入になる。


 僕は計算をし、可能性を探っている。可能性を探るしかないのである。はじめからダメだと閉じてしまったら、可能性がなくなる。
 一歩進む。それにはとにかく「花」を輸出してみることだ。するとこの厳しい世界はあきらかになりはじめる。「馬鹿だ、ちょんだ」と言われてもやってしまう者はやってしまうのである。やってしまえる人がいる。最初の開拓者だ。こういう人を幸運な人と呼ばず何と呼ぶのだろう。


2003年6月14日
デンパサールの新しいレストラン

 バリのスタッフの窮乏状態はバリに到着するやいなや理解した。一般の人々が今日のお金にも困っているのがバリの状態のはずである。
 シェフのバワが見せたいところがあると言ってきかない。繁盛しまくる店がデンパサールにあるというのである。ほんまかいな、と夜の9時頃、その店に行くことにした。シェフの言うとおりである。客は地元の人ばかりである。驚くほどの賑わいである。セレモニーがあったのかクバヤを着ている女性、サロンを巻いた男性、ジーパンの若いグループ、お金持ちそうな家族連れ。デンパサールの中心街にあって、周りは外国の事務所や政府、大型銀行のオフィスがある。
 この程度の店ならサヌール、ブノア、ジンバラン、クタ、レギャン、ヌサ ドゥアにもいっぱいある。しかしデンパサールでは初めてらしいのだ。そこのオーナー曰く、「ちょっとモダンに外国風を真似て、安くて恋を語りあうロマンティックな雰囲気を地元の人に提供したい。」
 それが見事にはまったのである。観光地のレストランは瀕死の状態であるというのに、これほど賑わっているのは、なぜなのか? それを聞いてみた。するとオーナーは笑いながら「爆弾も戦争もSARSも関係ないよ。土地成金がいっぱいいるんだよ。3年で使っちゃうけどね」という答えである。
 確かに団体客はバリに来ない。しかし団体客が落とすお金より、外国の個人が落とすお金のほうが大きいかもしれない。土地は自国でよりも割安で買える。建築費も改装費も日本やオーストラリアよりは安い。農地を手離すか、貸すかして、現金を手にする。本当は一生食えるお金である。こういう人をターゲットにして新しいレストランができる。昔の六本木のピザハウスみたいなものだ。
 ようやく首都デンパサールに地元客を相手に、ほどよい雰囲気(椅子は安物のプラスチックだが)で、新鮮なものをほどほどの値段で食わせる店が登場したのである。
 ここで思い起こすことがある。
 ジンバランの海辺に並ぶシーフードの店は昔、地元の人ばかりであった。それが逆に、地元の人ばかりの店ということで、徐々に観光客が来始めた。するとだんだんと値段が高くなっていった。ついには観光客ばかりとなり、地元の人は来れなくなった。観光業に席巻されたのである。
 そして今、爆弾事件以降、客が激減したのである。
 よいことも長く続かないものだ。さりとて悪いことも長く続かないものだが、しかし店はスタイルを変えてしまったためにもう当分地元客は来ないのである。そうこうしているうちに新しい店ができる。
 デンパサールの店のオーナーの顔は自信と笑顔が満ちて、12人の女がいると豪語し、自分の成功に酔いしれているようであった。人の世にはこのようなラッキーな人がいるのかもしれない。12人の女がいると豪語したほうがオープンで、人を受け入れやすくするのかもしれない。ほとんどの人が「景気が悪い」と言っているのに、彼だけが(まだ彼の他にもいるのかもしれないが)勝ち誇っているように見える。
 不思議なデンパサールの情景であった。


2003年6月15日
プダンダ

 バリ人の男性は結構結婚が早い。しかしイダ・バグスという僧侶の階級の男性は適齢期を過ぎても、なかなか結婚しない。
 ライは29歳。ワルティカは28才。共に独身であり、イダ・アユと出会うのを待っている。
 クルンクン県のバカス村にはイダ・バグス家が6つある。その中で、代々、プダンダになるのがライの一族である。ライはプダンダにならなければいけないと親戚のもの、親から刷り込まれている。
 プダンダとはもっとも位の高い、僧侶で、ヒンズーの儀式の中心的な役割を果たす。吉凶を教えることもする。村にはなくてはならない存在なのだ。
 「イダ・アユってめったにいないだろう。どうするんだい」と言うと、イヒヒヒと笑って、「みんな探してくれてるよ」とか言って、「ガールフレンドなら日本人がいい」などと平気でぬかす。
 「階級にこだわるような世代でもないだろうが。バワも、コンピャンもオカも違う階級の女性といっしょになったじゃないか。」
 「おう、ダメダメ。プダンダになる家はそれを許してくれないよ」
 僕らは古代から積み上げてきた宇宙観のようなものをもっている。ヒンズーもそのひとつ。仏教もそのひとつ。ヒンズーや仏教が生まれる以前から積み上げてきたに違いない。
 近代に入って、産業革命とともに発達した科学は現在までその発展のスピードを緩めず、合理的な精神で迷信や天国や地獄を無視して走ってきた。しかし以前にもこの日記で書いたのだが、古代から蓄積されてきたこと、例えば、西のほうはいつもあけておくとか、死者は北枕にするとか、先祖への供養が足りないとか、様々な古くて迷妄だといわれたものを再点検する時期が、つまり科学の発展とともに、振り向いて検討される時期がいずれやってくるに違いない。
 僕は馬鹿馬鹿しいと思うが、プダンダになるには先祖からずっとイダ・アユの血が必要なのだろう。なぜなのかときくと、リ・インカネーションがうまくいかない、という。先祖から引き継がれた記憶が細胞の中にある。その細胞に別の細胞が混じれば、物事はリセットされる、と考えている風だ。
 たとえば、バワは別のカーストの女性と結婚した。すると、彼女の氏名は変更させられる。名前はワヤンとかニョマンとか一番目に生まれた子供、二番目、3番目、4番目と名前があり、5番目の子供は1番目の名前と同じになる。イダ バグ家に嫁ぐと、その女性は4つの姓はなくなって「Jero +バリの花の名」とつけられるのだそうだ。Jero だけでは何か奇妙さを感じるのか、Jero Sandat というふうに花の名前をつける。
 Jero は単なる印というよりも存在を無にしているように見える。子供が生まれたらその子にイダ・アユ(女性)とかイダ・バグスとつけることができる。その子はまたイダバグスかイダ・アユを見つけられなければこんなことにどんな意味があるのか知らないが、彼らの宇宙観による根拠を持っているのだろう。都合よくできていると言えばできている。
 政治制度の中では法律的にもカーストはなくなったが、慣習として観念の中に生き続けている。
 自分を「特異なもの」と自分については思いたがる狭量さを人間はもっているから、窮屈だとライは思いながらも自慢でもある。イダ カーストは誇りでいっぱいである。そして結構人生を地味に生きている人が多いような気がする。


はげの話
 どうしてバリ人にはげの人が少ないか。ほとんどの人が髪がふさふさしている。以前、ワルー(シーハイビスカス)をヘアトニック代わりに使っているという話しを聞いたが、今回はバワからもっとはげ予防の詳細を聞き出すことができた。なんとも習慣的なものだが、おそらく科学的に分析すればつじつまがあっているのだろう。それを紹介したい。
 まず赤ちゃんが生まれる。4ケ月間は毎日クンチュールという生姜とターメリックを合わせたような植物と米粉を昼にとった水を晩おいてその水で翌日混ぜる。それを赤ちゃんの頭に塗るのだそうだ。さらに6ケ月が経つとオトナンという赤ちゃんが晴れて人間の仲間入りをする儀式があるが、その日から10回、剃刀で頭も毛を剃るのである。剃ることでよい髪の毛が生えるようになるのだそうだ。この10回が大事なのである。
 髪の手入れは香りのよいプダックという葉から汁をとってつける。それは任意に行う。ワルーを使う人もいる。ファイアーハイビスカスを使う人もいる。このように、髪の毛についてはかなり神経質にケアされるのである。
 なぜ、はげを赤ちゃんの時から防止するのだろう。なにか特に理由がありそうである。それを他のバリ人に聞いてみた。
 すると解答が違うのである。クンチュールを確かに4ケ月塗るがそれはまだ赤ちゃんは人間になりきっていないので、頭が冷えないようにクンチュールを塗るらしい。バリ人は体が冷えるのをひどく気にする。温度が26度にでもなれば冷えることを恐れる。冷えると抵抗力がなくなることに過敏である。クンチュールを塗るのはそのためで、別に髪のためでないという。またオトナンの時に髪を剃るのは人間以前のものを浄化し、きれいな体になって人間になるためだという。
 話が違っている。たぶんどちらも本当なのだろう。体を温める力がクンチュールにはある。それを頭に塗る。なにがしかの効果はあるのではないか。頭を剃るというのも、剃ることによってよい髪の毛が生えてくるのもどうやらそんな気がする。鍛えれば強くなるのと同じだ。
 バリでは髪のほそいしなやかな髪の女性が肌のやや白いことの次に美人としての重要な要素である。男は短いのがよいとされている。
 禿げる遺伝子が少ないのかもしれない。ということは禿げるようになる環境があまりないのではないか。体を冷やさないために頭にクンチュールを塗る。頭の血行はよくなるはずだ。10回頭を剃るというのは一種のマッサージである。足の毛でも剃ってしまうと濃い毛が生えてくる。抜けてしまわないようにするにはワルーがある。万が一抜けてしまったら育毛をするものがある。すると環境から言えば、フェロモンのように空気中に髪の毛によい物質がいっぱい漂っているのではないかと思ってくる。
 ただそれだけの自然のことなのか、バリ人が髪を特に大切に思うなにかがあるのか、わからない。まだしつこく質問をしてみる。なにかわかるかもしれない。


2003年6月16日
家具の話

 バチュラという村が中部ジャワにある。村全体が家具を作っているところで、インドネシアの家具はほとんどがここで作られるらしい。バリ島はここから家具を送ってもらい、塗装なり部品の取り付けをして、客に売るという中継地と小売りの役割を果たしている。おおよそなんでもバリ島は観光地であるせいか、生産地というよりも消費地になっている。つまり観光客がこないと物は売れないのである。輸入をするには当然物は高い。運賃と手間代、仲介代が入っているからだ。インドネシアの家具で輸出に耐えられるのは10%ほど。90%は耐えられない。木材の水分含有量がインドネサイの家具は25%から15%ほどあり、それを日本のエアコンの効いた中に運ぶと割れてしまうか縮んでしまうかする。すると乾燥機が必要になるから、乾燥機まで使って外国用に家具を作る会社というのは大手の会社しかない。それが10%というわけだ。
 日本では婚礼家具の売れ行きが悪くなってきた。小売り店は安い家具と新しい家具を求めるようになってきた。ある日テレビを見ていたら、資本主義国でインドネシアが一番労働賃金が安いという。鈴木さんは「これだ」と思った。それからアセアンセンター、ジェトロ、インドネシア大使館の経済部を回り、インドネシアでの家具作りの調査をした。バチュラにたどりついたのはインドネシア訪問3回目の時である。とにかく品質が悪い。結局乾燥機まで運ぶことにした。そして10年。ようやく家具職人が育ちはじめた。
 日本のバブル後の空白の10年が幸いした。満足のいくものではないが小売店から許してもらえるようになった。客も、日本のような精微な品質までも求めなくなり、アジアの家具はどこか手作りの感覚があるほうがよい、という傾向にもなってきた。割れてしまうかもしれないという恐怖もなくなった。それ以後1ケ月に一度2週間インドネシアに通っている。
 何が幸いするのかわからない。精微な家具作りを目指した彼は今は従業員に精微でないものを作れと言っているらしい。
 こういうエピソードから何を学習できるだろう。作る人は頑固にこれまでのやり方で作ればいいということだ。消費者は変化していくが生産者はあまり変化はしない。それで結局、消費者は円を描くように戻ったり、離れていったりするということだ。消費者のその運動を誰が察し、予測できるだろうか。
 大手の会社が宣伝をかけて、消費者をひっぱる。新たなニーズを作りだす。これは大手ならできる。もうひとつできるところがある。雑誌社だ。この手の出版社は意外と影響力をもつ。当然、出版社は世の中の消費の動きを敏感にいつもキャッチしている。
 鈴木さんはバチュラで家具を作り続け、いずれはデザイン、品質とも完璧なものが売れる時代が来ると思っている。しかしあんまりインドネネシアの家具が流行しないことを願っている。競争相手が増えるからだ。


豊かさの基準
 人の人生もいろいろあるもんだ、といろいろある人に親和感がある。みんななにかせよいろいろあるのだが、いろいろにも程度がある。こんなことで悩むかよ、ってことが本人には死ぬほどつらいということもあるから人間の関係は大変なのである。100万円の借金が「大変だ、大変だ」と神経症になる人もいれば、100万円さえも絶対に借金などいやだという人もいる。また1億円の借金があっても平気な人もいる。すべて性格のなせる業なのか。そういう風に生まれついたのか、そういう風に訓練されたのかわかないが人間それぞれに世界を持っていて、その世界が自分にとっては当リ前の、正しい世界だから、その世界に口を出せるとは存外難しい。
 あえて、そういう世界には口は挟まず、踏み込まず、まあまあの距離で関係を保つほうがよい、と考える人も多いだろう。
 まして人間40も過ぎればその人の世界は変わりようもない。変わりようもない人といくら喋っても結論は互いに違い、違う世界で収まるのだから、これほどおもしろくないことはない。
 なぜおもしろくないかというと、可能性や期待、つまり可変性をを期待できないからだ。互いに変わる。互いに影響し合え、互いになんだか成長したような気がしてこそ、話をしていて楽しいのでる。
 対談でもそうだ。ちょうちんもちの対談より、意見もぶつけあうほうがおもしろいし、そこで素直に得られるものは得たという感性の持ち主の話のほうがおもしろい。
 学ぶ意欲や好奇心というよりは変わり得る可能性を感じる人がおもしろいし、よいと思う。10代でも不変の者はいるし、70代でも可変の者はいる。ただ、可変の者は少ない。だいたい瀬戸内何某でも「私は25歳までの人に話をするんです。」などと平気で言っている。「だって45も過ぎた人は頑固で変わりようがないもの。」とテレビで彼女は言っていた。僕は「あちゃあ」とショックを受けたのだった。俺もその境界から外された人間かと。おまえだってそうだろ、と瀬戸内何某に言いたくなるが、そう言えばそうなので、こういうことをスパッと言えて羨ましい人間だな、と思ったのである。
 で話は「人生いろいろあるもんだ」の話である。
 一見幸せ風に見えて実は心の中は「地獄」というのがある。誰にも見えないし、見せない。たいへん経済的に苦難していて振り返ってみれば「苦労はしたけどなかなかよかったなあ」という人もいる。わからない。喜びや幸せの基準はわからない。それで一定のほどよい豊かさを言ってみたくなる。
 お金はないよりあったほうがよい。それもほどほどがよい。週に1回ほど外食ができて、季節の変わり目に服など買えて、車は5年に1回ほど替えられる。海外旅行には年に2回。親子には親和感があり、三世代同居か子供は近くにいる。土地は100坪程度あればよい。
 時には買いたいものも我慢しなければならない。近くに病院があって、気の許せる友人が2人、3人いる。そして一番肝心なことに母親が余裕をもって妊娠前から子育てができなければならない。
 こんな風に描いて、それでも基準はやや下でもよいかな、と思う。もちろん高級な車にでも乗れたらもっといいのだろうが、いきすぎると「不幸」も同時に見えてくるからそこは用心、用心。


2003年6月20日
祝いの日

 楽しいのは知らなかった世界を知る刺激である。花について調べている。読者もこの探索についてきてもらいたい。
 デンパサールの花屋で出ている花の品質や出荷元を調べる。すると栽培農家がわかってくる。こちらは専門家を連れてきて、専門家の目でみてもらう術を使う。ランの農園で品質を見分け方を勉強する。コーディーラインやフロリダビューティー、クラトンなどの花ではなくて葉そのものが勝負の植物が意外ににもしっかり栽培され、オランダに輸出されている。白、ピンク、黄色のカラーなどの球根類に果敢に挑戦し、失敗をしては、また挑戦する人たちがいる。国内向けランだけを作っている農家もある。ほとんどが海外市場を狙った花作りをやっていない。
 バリ島は花や葉を育てる地域が限られている。海抜からの標高。水の有無。これが一番の重要時である。
 スミニャック、クロボカンを抜けて、シガラジャ方面に向かう。北にあるブドゥグル方面に進むのだ。その農園は7ヘクタールもあった。水も十分にあった。経営者はここの他に4ケ所の農園を持っている。需要はほぼ、島内である。海外までやらなくても十分にやれるから、海外市場の話に勢い込まない。「1ヘクタールを1億ルピアで貸してあげるから自分でやってみれば」などといわれる。
 それよりも僕は妙な気分になる。葉が売るもののサンドリアナなどは白、黄色、緑とあるが、この葉を3種類も作る、3種類の用途を人間が作り出していることのほうに驚く。フロリダビューティーでも同じである。それを求める人がいる。専門家に聞くと、日本でもやっぱり同じだそうである。葉が人類によって選び抜かれてきた感がある。
 花については「大いなる指導をしながらいっしょに育てていく」「種を提供し日本市場用に育てる」ことしか花は商売にならない。ところが葉はいつでも出荷できるほど完璧である。ところがどこにでもある葉で特色がない。だから堅実に、ちょっとづつは利益はあるかもしれないが、市場での値の変化や花屋さんの期待度が少ない。
 僕はこの3日間でたいへん勉強した。まだプロとまでいかないがランのよしあしの見分け方はわかるようになったし、葉の切り取り方などもわかるようになった。自分に何か新しい知識がついていくことが楽しい。
 観光客はこの2,3日増えている。依然とは比べ物にはならないが、特にヨーロッパの人たちが増えているようである。僕たちは「ヌサドゥアビーチホテル」に滞在しているのだが、日本人は僕らだけで、あとほとんどがヨーロッパからの人たちである。
 花の視察を終えて、バーで飲んでいると、アメリカの男性がピアノでブルースを弾き始める。すると踊り出すカップルがいる。やっぱり5スターのホテルだな、と気持ちよくなって僕らは静かに杯を重ね、この2日見た花を思い浮かべ、以外だった葉を思い、これらのことをどうしようかと考えている。次に思いはグランブルーのことに移る。あそこを修理し、あおのテーブルや椅子を新しいデザインのものに変える。7月には新しいメニューにしたい。人で構築するシステムについてもあれこれ考える。
 やがてバーも閉店となり、花は明日農場主との昼食会を行って終わりで、またレギャンの仕事に戻ることになる。
 ガルンガンも終わった。9日後はクニンガンである。今このバリ島には先祖の霊がおりてきている。色濃く昔が残っている。バリ人たちと違い、僕はもっと客観的になっている。日本でも僕らよりも2世代上の人々は同じように祖先の霊を大事にしていた。
 僕は祖先からの遺伝子と細胞から成り立っているのだが、そのことは科学的にわかるものの、生活の実感的なものとは違っている。自分があることの感謝の念がバリ人よりはずいぶん少ないように思う。それは必然であって、恣意的ではない。もっともかわいいのは自分であり、自分たちである。
 もの思いが終わり深いチェアーから立ち上がり、会計をして部屋に向かう。3日間、贅沢をさせてもらった。
 たとえビジネスで来ようとも、こういうホテルに泊まったほうがよいな、と思う。仕事場から離れるのもよい。
 なんだかうたぐたと埒もあかないことを言ってしまっている。
 バリ島はたいへん過ごしやすい天気が続いている。アートフェスティバルも始まった。もうなにも起こらなければよいがと思う。
 翌日、クタにショールームを開いている店の社長とアポイントをとっていて、会った。これがまなんと言おうか、人目見るなり、今回は成功だとわかるのだ。顔に書いてある。
「みんな受け入れますよ、あなたたちの希望は・・・」と書いてある。話は早い。彼女は世界の花市場の情報をみんな知っている。わかってやっているから、日本人が来れば、どれくらいの値段で、どのくらいの量で、どのくらいの品質で、運び方はどうかも知っている。話が早い。気持ちもよい。僕のリクエストを受けてたとうという気概もある。ビジネスの場面でダメなのは神経質すぎる心配症とすぐに判断してしまう想像力だ。頭がよい人ほど、すぐに判断してしまう。その脳みそが自分自身の世界のみであることに気がつかないのかもしれない。
 彼女と兄妹の契りまで結んでしまって、ブドゥグルの5ヘクタールの農園で、カラーを栽培し、ニュージーランドに負けない品質で日本市場をせめようということになった。ブドゥグルの彼女の 農園まで火曜日の24日にいくことになった。とても楽しみにしている。
 ロイヤルスミニャック(元インペリアルホテル)の人と話し合いしている最中、出版社から電話がかかった。音楽のあるショートストリーに僕が応募していて、それが最終選考まで残り、発表をペンネームにするか本名にするか、決定してほしいということだった。
 本になって、FMラジオで朗読されるのだそうだ。と言ってもまだ決定ではない。最終審査に残っているということだ。嬉しい話ではないか。
 その夜、日本人の花の専門家夫婦はたいへん感動してバリを去り、その日が僕の誕生日だったため、バリのスタッフたちが祝ってくれた。何を?生きていることを。つつがなくいることを。もっともっと元気でやってほしいという気持ちもあったと思う。僕はもっともっと元気でいようと思った。テロもSARSも完全に忘れていた。賞も花も祝いの言葉も同じほど嬉しい。


 仲間が日本に帰ってしまった。なんだか寂しいような気もするが、こういう寂しさに慣れている。もしかしたらこういう寂しさにも耐えれない人というのもいるのかもしれない、ふと思うし、これ以上の寂しさになれっこになっている人もいるのかもしれない。要するに They have gone. で I am still here. である。お金の用意、もしくは使い方、仕事の指示が僕の仕事である。バリに一切の不安感は今はない。日記のバックナンバーを読んでくれたらわかると思うが、ビジネスの当初は不安気だった。わからないことが多かった。今は呼吸や間合いがわかるようになっている。


2003年6月24日
デンパサール

 「粉にするマシーンとシュリンクの機械を見て、それからサトリアでナシチャンプルを食べて帰ろう。」「そうしましょう。」ということで、暑い中デンパサールの住宅街を歩くことになった。路地が入り組んでいる。ややゴミの匂いのする住宅街を歩いていると、なんだか懐かしい感じになる。北京の大通りを1本を奥に入った路地や香港の家船の基地なっている島の町の路地、台湾や韓国の住宅街でも見たことがあるような気がする。もっと遠い昔、紀州の尾鷲の僕が生まれた路地に似ているような気がする。昔住んでいた路地にある生家の裏庭になつめや無花果がなっていた。井戸があり、鶏もいた。トカゲがチュロチョロといた。自殺して死んだ従兄が「カナチョロ釣る」といってトカゲを釣っていたものだ。僕は路地で育った。周りには2、3つ上とか下の子が一筋にかなりいた。学校に入るまでは路地の仲間たちとよく遊んだものだった。小学校に入ってからは路地の仲間とは時々顔を合わすくらいになり、学年も違うことから学校の友達が遊び仲間の主となった。路地よりもおもしろい遊びがいっぱいあった。行動の範囲が広がることはなによりも楽しかったに違いない。真夏の暑い夕方、路地に家を借りていた子供を二人もった夫婦が、路地の者と一線を画すように暮らしていた。学校の教師ということだった。なんだか雰囲気が違っていたが、なにしろ暑い日だったから、教師一家の夕食風景が見えたのだった。袖無しの麻の下着とステテコのスタイルの夫と化粧をし、特に唇の紅が鮮やかな妻と二人が座っていた。夫のほうは片ひざを立て団扇で顔をあおいでいる。確か、女性の方はパーマをかけていた。この夕暮れなのに子供たちがいないのを訝った。夫の方は肌がテカテカとした男性だった。いつとも知れず、この家族はこの路地から離れていった。路地の前に電電公社ができることになり、しばらく空き地になっていて、蝙蝠が夕暮れに飛ぶ中に佇んでいたことがあったが、その頃はもう小学6年生だった。高度経済成長は始まっていたのだろう。高校の1年生の秋に親が念願の家を建て、別の地域に引っ越したのだった。そこは核家族の住まいであった。
 デンパサールの路地を歩いていて一気に昔が甦ってきた。生活の匂い、路地でたむろする大人、庭に生えるマンゴやメンクドは尾鷲の生家の庭のなつめや無花果と同じに見える。なにがしか食べられるもの。
 季節が過ぎるたびに僕らはだんだんと一人ひとりの思いに更けるようになっていった。
 イダの親戚の夫婦はブロイラー種のコーヒーをシガラジャから買い付け、自宅で焙煎して粉にし、パックにして、ワルンやレストランに売っている。仕入れ値に2倍を手間賃としてかけた商いである。
 「去年は1ケ月で1トン商ったが、今年はテロとSARSで200kgがやっとだ。競争も厳しいし、好い日が来るのかねえ」とにこにこして言っている。普通のサラリーマンなら100万ルピアとか200万ルピアの固定収入であるが、シガラジャから買い付けたコーヒーを加工することで、1トン、つまり24百万ルピアも稼げたら上等である。
 「そのコーヒーミルで対葉豆も挽けるかな」などと話をし、ハッピーバリの「バリコーヒー」もここから買おうかな、と思ったり、ここの路地の夕暮れがどんな風だろうと思ったり、面影の中を漂うように、僕はまるで縁側のようなバレの床に座っている。デジャブーが起こりそうであった。彼はコーヒーの仕事が暇なので家の屋根瓦を一部なおしているところだった。この家にもアグン山の方向に家の寺院があり、仕事や台所はそれと反対の方向にあった。昔の東京の家のように、家の一部をアパートとして貸していたが、今は一人しかいないそうだ。こういったところにバリ島はこの20年で変貌し、経済的には発展したことを覗わせる。
 イダの親戚の家を辞去して、歩きながら、
 「イダ、25年前のことを憶えているかい?」と聞くと、
 「シガラジャからバスで来て、そこから馬車で来ました。車はほとんどなく、貧しかったけど、のどかでした」と笑いながら答えた。イダはバリ島が今や観光産業に誰もが頼っていることを知っているが、バリ人が変わっていく様を見て、忸怩たる思いを持っている。それは日ごろの彼の言動からわかる。バリ人はこうであらねばならない、というものでもない。豊かになることは嬉しい。しかし、と思っているのだ。
 サトリアでナシチャンプルを食べてタクシーで帰ったのだった。
 その夕方、「高速道路」について話をした。「シガラジャとウブド、デンパサール、クタをつなぐ高速道路ができたら、北部には新しい産業が生まれるだろうな」と僕は言った。するとナルミーニが、高架の道路は寺院よりも高くなるからいけない」と言った。「電信柱も短くしているのよ」と言う。すでに高速道路を知っている時代の段階にいる僕は「知っている」という折り返しの視点でバリの高速道路を考える。彼らはまだ未経験である。これからきっと選ばなければならない。第三の方法もあるだろう。迂回、例えば、ひたすら海側を走る道路を整備するという方法もあるだろう。
町が変貌しつつあるデンパサールを今日は感じたのだった。


2003年6月23日
プラガ

バリ人たちが家族で憩うブドゥグルの手前にプラガという村がある。ほぼバリ島の中央に位置する。今日はこのプラガの農園に行くことになった。途中、今日のホストのローズ社長が車を止めて、何やら買い物を始めた。川魚である。グラミという1週間ほど前にから揚げで食べた魚である。美味しい魚である。彼女は5kgの生きた魚を買い、土曜日に食べるのだという。88万ルピアだったから、相当な金額である。
 ひたすらくねくねとした道を走る。前方にブラタン山が見え、右手、時に左手にアグン山が見える。やや高地になっていて、乾燥している。ここにパシフィック ローズの花園がある。国内用と海外への輸出用にと挑戦した農園である。趣味も昂じているのか、戦略なのか、バリ島では見ない花ばかりを植えてある。ペーパーデイジーというドライフラワーのように見えるけど生きた花や、ひまわりも種類多く咲いている。話の通りカラーも育成中であった。隣の農園はマンダリンみかんを栽培している。このあたりは農園だらけだ。
 9月からカラーを週500本。10月からは週1000本。そして徐々に出荷数を上げていく。この計画でよいかと念をおすと、それでよい、と自信たっぷりに言う。冷蔵庫もある。虫対策もしている。言うことなしだが、カラーはまだ生えていない。昨年失敗している。今年は大丈夫だという。本当に大丈夫なのか。歴戦のつわもののような顔をしたローズおばさんであるし、兄妹の契りまで結んだのだからまあ、信用することにしよう。
 このプラガも中心地から近ければと思う。おそらく高速道路ならば20分そこらである。2時間かかったがひどく遠く感じる。バリの道は緊張に満ちていて、のんびりと居眠りなどしておれない。鶏は飛び出す、犬がふらふら歩いている。単車がヨロヨロと走る。オダランの行列がある。車はどんどん前方から来る。クラクションが鳴る。特に近年車が嫌いになっているので、僕は神経をすり減らす。ローズおばさんは特等席は助手席だと思っているらしく、2時間ずっと落ち着かなかった。昔は車は平気だったのに、年を重ねるにつれて、知り合いや部下が交通事故で死んでいる。おそらくその経験のトラウマのようなものなのだろう。交通事故死ほどつまらぬ死に方(残念な死に方)はないと思う。発展途上の国は車が忙しい。せわしない。アメリカであれば4車線が当たり前である。日本も昔は今よりせわしなかった。僕は日本はまだまだ道をよくするのは課題だと思う。その点では道路族に賛成だが、道路公団の利権や、いつまでたっても無料にならない高速道路行政にはあきれている。
 爆弾テロ以後、車を手放す人が多い、ともっぱらの話であるが、なかなかどうして車は多い。
 農園を見学したあと、ぎょろりとした目のローズおばさんは、ジンバランでレストランでもやらないか、と巨大なガルーダ像のあるジンバランの文化公園に連れていった。コンサートなどのイベントの中心として、ショッピングセンターなどが建ち並ぶ、巨大ゴーストタウンである。つまり、お金持ちの人がこのプロジェクトに乗って資産としてこの一画を買ったが用途がない。ローズおばさんのルカも、どこも空き店舗で誰も住んでいない。一目、僕にチェックを入れておいてほしかったのだろう。このゴーストタウンがそれらしくなるまでまだ2年、3年、いやもっとかかるだろう。
 車中、バリ島には観光業以外にまだ産業が必要だ、そのひとつに植物のエキス抽出がいいのではないか。日本などで、メディカルバレーが各地にできつつあるから、インドネシアにしかない植物のエキスをもっとさらに詳しく分析して、確かなデータにして生産、販売する工場などどうか、と僕は提案した。すると、「ああ、やってる。スラバヤに工場をもっているわ。弟にまかせてあるけど。ノニジュースを一番先にやったのはアタシよ。韓国に輸出している。チュバという癌に効くというのもやってる」と言う。驚いた。な、なんと幾つもの事業をしているものか。また共通の話題ができて、今度スラバヤに行こう、ということになった。人生は不思議なものだ。こういうふうにしてエネルギーある人と偶然知り合う。
 前回バリ島で会ったF・Fさんも傑作酒豪で、行動も早かったが、僕は男よりも女のほうが豪傑が多いのをこのごろよく目にする。
 男はどこかしらうじうじと、ねちねちとしている。これは相性なのだろうか。


2003年6月26日
日が悪い

明日予定通り日本に帰る。今日はろくなことがなかった。
 朝、剃刀を取り替えようと、新しい刃を挿し込みをしていたら、プラスチックか、剃刀の破片かわからないが、左目に飛び込んだ。万分の確率である。一瞬目が痛んだ。目を洗ったが、その後異和感がある。瞬きをするとやや痛い。放っておいて明後日日本の眼医者にでもいけばよいか、とも思って、散髪しに行った。
床屋が近くにないので、美容院に行く。前に一度行ったことがある。この辺だったかな、と思ってドアを開けると以前と様子が違う。ダラッーと女性二人が座って、ニタニタと笑う。ここのマネージャーらしき人が席を勧めてくれたのだが、その席はちょうど日が射していて暑そうだった。「ここは暑いよ」と言うと、別の席を指して、「ここでいいでしょう」という。先の二人の女性たちが座っている隣であり、相変わらずニタニタ僕の顔を見て笑っている。本当のアホとはこんなものだろうと思う。美容院の店員なのだから、化粧くらいはするのだろう。厚化粧で、オシャレはしている。でもアホなのである。それがわかる。この店の名は「ニューヨーク」という。ちょっと髪を切ってもらいながらこの娘たちにニタニタしていられたらかなわんな、と思い、やめることにした。何が起こったかわからないということもわからいようで、立ち上がりもせず、「バイバイ」となった。店を出て、以前の美容院を探したら、3メートル先にあった。なんだか安心した。手早く髪を切る美容師さんもいた。ツーリストを相手にした美容室である。
 まず、髪を洗ってもらう。ここが日本と違うところだ。すかさず、クリームバスのように、洗いながらマッサージをする。これが気持ちよい。冷たい水で体の暑気をとれる。次がヘアーカットである。助手が真剣に見ている。この美容師は手早い。スパスパと切り、サッサと整え、またスパスパと切る。何度も何度も同じところを切っていない。僕には気持ちがよい。髪形などはどうでもよい。スパスパとやってくれるほうが僕はよい。あのネチネチと1本の不揃いも許さない理髪師がいるが、僕はいつもちょっとイライラする。再度、髪を洗い、すかさず、クリームバス風マッサージで4万ルピア。600円くらいだ。
 さあ、今日は買い物でもするか、と思った。しかし、目の調子が悪い。時間があるものだから、クリニックに行こうと思った。これが間違いだった。偶然、クタにあって、24時間体制、緊急の対応も万全と書いた、Mなんとかというクリニックがあったので入ったら、日本人の看護婦さんか、案内する人もいるという。入ると、受け付けで、アンケート用紙があって、まず、SARS関係のアンケートである。「いや、目にちょっとゴミが入っただけなんで」と言っても、この質問票に答えなければならない。初診料が60ドルとある。「えっ、60ドル?。レギャンのクリックなら4分の1じゃないか」と言ったら「ここはインターナショナルですから」と言ったので、「おいおい」と思って、レギャンのクリニックへ行ったのだった。
 ここは看護婦よし、女医さんよしで、初診料が17万五千ルピアである。僕をベッドに寝かせ、懐中電灯を持って、僕の目の中を肉眼で調べまくる。たぶん目に入ったのは透明の小さな小さなプラスチックの破片だと思う、と僕は訴えた。看護婦さんと目をひんむいて探すのだが、どうやら異物はないらしい。痛むのは傷のせいかもしれない。ジーパンをはいたそのバリ女医は自信を持って「無い」という。目薬と薬をくれて、勘定となると、やっぱり60ドルくらいだった。以前血圧を測りに行ったときは無料だったので、安いのではないかと思いこんでいた。病院は高いのだ。二重価格になっているらしい。
 目は前よりも痛くなって、トホホ、とした気分だった。
それでも買い物をするため、レギャン通りを歩き、お目当ての「ミュール」というサンダルに似たものを買ってきてくれ、という妻のリクエストなので、その「ミュール」なるものを探したが、誰もそんな言葉を知らない。妻の足のサイズは23cmであることは知っていたが、店員は23cmがわからない。比較表などを見て、バリの4が23cmだと言う。これほど日本人が来ているのに、足のサイズひとつ、まともに対応できないのはこの10年変わらない。4とはなになのかわからない。しかし、23cmは4だというので、2つ買った。途中、よいメキシコの音楽が聞こえたので、それを買い、よい旅行かばんがあったので衝動買いをした。事務所に帰って、みんなにヘアーカットしたことを冷やかされ、ナルミーニに、「ちょっとこのサンダル、ヨーコに買ったけど、センスはどうか」などと浮かれた調子で言っていたら、サイズがヨーコには大きすぎるのではないかという。みんな出てきて、大きい大きいと言う。確かに大きい。しかし不思議だ。同じサイズ4ある。ひとつは23cmのようであるが、もうひとつは大きいのである。
 まあ、毎度のバリっていう感じであるが、この種のサービス精神の欠如にはいつも情なくなるのである。「その日よければ」である。こっちが学習しなければならない。
 よし、4と言ってもサイズを比較してみることが必要だ、と学習をして、もう、今日はなにもしないでおこうと「ひきこもり」をした。何か悪い時は一度にやってくる。
 今日は日が悪い、というやつだ。
 花と勉強をした今回のバリだった。観光客もやや戻ってきそうな気配もある。ローズおばさんと会ったのも収穫だったし、これまで勘違いしていたこともあって若干の修正もできた。天気は毎日晴天だった。魚が意外とあることも知った。人々は意識してかしないでか、親から離れて暮らすこともかまわないようになってきている。デンパサールのような都会ができるということはそういうことなのだ。都会というのは近代の都市なのだ。昔からのバリ人も、外国からやってきたものも飲み込んで、歴史をひっぱっていく。
 今回はこんなところかと、思ってこれで今回は最終回。
 遠くからトペン(仮面)劇の声とガムランが流れてくる。どこかの村のオダランに違いない。