| 2003年3月9日 空港 約4ヶ月ぶりのバリである。 関西空港発ガルーダ883便の乗客率は80%。春休みのせいか学生が多いように見える。 うつらうつら居眠りをしていて気がつくと機内のモニターテレビは、あとデンパサール・ングラライ空港まで15分と表示していた。すると右側の窓からアグン山が間近に見える。アグン山を中心としてバリ人たちの宇宙観や生活観があると思えばこの島は神々の島であり、この島だけで人々はひっそりと息づいているように見える。麗しい島。 ングラライ空港で、アディが迎えてくれて、ングラライバイパスから、カルティカプラザ通り、クタスクエェアに入り、パンタイクタ通りに出てクタ海岸沿いを走り、ポピーズレーンUに入る。車が走っていない。観光客は通りに10人もいただろうか。ポピーズレーンUを抜けたところがサリクラブである。爆弾事件の跡地には新しい店舗が建ち始め、レギャン通りもあと2ヶ月もすれば元に戻るかのような雰囲気がある。が、旅行客は非常に少ない。 爆弾で崩壊したパディスが今度はバウンティーの広場の前面に新しいディスコを建設中である。 サリクラブは現在のところ再建の噂はない。 ディスコはイスラム原理主義から見れば退廃のシンボルであった。また貧しいバリ人たちから見ても、ディスコはのぞいてみたい気持ちもするが、「よからぬところ」という村の宣伝がある。 「レストランを今度作るならスミニャックがいいと思うけど、どう思う?」 と聞くと、やっぱりレギャンだとグランブルーのスタッフ全員が答える。 「だって、レギャンって駐車場はないし、一方通行で交通渋滞はあるし、爆弾テロはあったしでいいことろがないじゃないか。」 と言うと、レギャンを中心としたホテルの数のケタが違うと言う。四月からはオーストラリア人も戻ってくると言う。ディスコもまたできる。するとやはり中心地になると言う。 イラクと米英との戦争がどうなるか。バリ島のこの2,3ヶ月は、イラク問題が人々の気持ちに大きく影をおとしている。生活の予想をたてるにも、目の前にイラク問題が立ちふさがり、予想をたてられなくなる。 シェフのバワ、フロアースタッフのグスはレギャン通りの様子を時にじっと見る。かつてないほどの不景気。かつてないほどの大打撃。 夜8時。盛況だった時の100分の1ほどの人。つまり、チラホラ程度の通行人。 ぼんやりと二階から通りを眺めるバワやグスに元気がない。 元気をつけるために僕は来たのだった。明日から10日間。みんなに希望の灯を点さなければならない。 2003年3月10日 あの時 わずか一発、二発の爆弾が300万人のバリ人達の生活をおびやかしている。爆弾テロから5ヶ月経った今なおバリの観光は復興しない。 ヌサドゥア地区で約15%、クタ・レギャンで20%、サヌールで10%、ウブドで15%という客室占有率である。 夫婦二人で住んでいたアパートに入り、家賃をシェアする。故郷に帰り、マンゴスチンやドリアン、コーヒーの収穫の手伝いをして、わずかばかりのお金を得る。携帯電話を手離す。あらゆる手段を使って節約し、なんとかしのごうとしている。どこも火の車である。 のんびりしているのは相変わらず地主成金の連中で、彼らがバンジャールという村の自治会を牛耳っているから、この社会は貧富の差が大きく、あまり変わりようがない。 昨晩、グランブルーのマデというコックにミーゴレン(焼きそば)を注文した。すると、かなり塩っぽくソースが濃いミーゴレンだった。ホテルの部屋に帰って、水を何杯も飲んだ。翌日、マデにそのことを言った。マデはあわて戸惑い、「頭の中がいろんなことでパニックだった。1歳にならない子供が病気になって病院に行った。毎日お金が足りない。やりくりを考える。」と言い訳をする。「味を一定に保ってこそ料理人だよ。そんなんじゃだめだ。危機に備えとくのも、味を保つのもおまえの器量だよ。」と僕は冷たく言う。しかし、それは言い訳にしろ彼らの心中にテロは暗い影をおとしていることがわかる。結婚が今しばらく延期となった女性たちが、僕の知る狭い人間関係の中で3人いる。ヒンズーのセレモニーはお金がかかるから親が出してくれない限り、自分達で結婚費用を貯めることになる。 ほとんどのホテルやレストランやみやげ物店は給料が半分程になったから、これまで貯えていたお金を吐き出すことになった。 元サリクラブの土地所有者とバリ州政府との間での記念碑のための買収問題が決着がつかないでいる。記念碑ができたら、世界各国からTV各社が取材にくる。この宣伝効果は大きい。モニュメントの候補地でないところには、新しく店舗か建ち、再建を急いでいるように見える。が、肝心要の場所がはかどらない。 「予期せぬ出来事」というのがある。人生には予期せぬ出来事があるものだ。思わぬ事故。 僕は7年前、バリ島から帰る車の中で何気なくラジオをかけたら、社員のYさんの名前が耳に飛び込んできたのだった。初め耳を疑った。同姓同名の女性がいるものだ。阿曽付近の国道42号線で正面衝突だった。Yさんの友達のAさんは即死だった。家に着くとすぐ連絡をとった。Yさんに間違いはなかった。その日Yさんたちはゴールデンウィークの最終日、大阪に行く途中であった。 1ヶ月前の予定では僕ら家族とバリに行く予定だった。一緒にいくはずだった同僚の女性がオーストラリア旅行が当たり、バリ島をキャンセルした。結局、この旅行は僕ら家族だけで行くことになった。 あの時、同僚の女性がオーストラリア旅行の方をキャンセルしていれば・・・。あの時、Yさんらの出発がもう1分遅れていたら・・・。あの時、友人が車が外車でなく助手席が左側であったら・・・。あの時、友人が大阪に行くなどといわなかったら・・・。 そんな風に考えていくと、最後には矛盾にぶち当たる。「あの時、Yさんが生まれていなっかたら・・・。」と。そしてさらに、それは両親の時代にまでさかのぼって行き、永遠と無限の「あの時、〜でなっかたら」という慰めの問答を行うことになる。 爆弾テロで死んだ人達も同じであろう。 彼らの運命の余波をバリ人達は今受けている。テロリストはニタニタ笑って新聞の上にいる。 人々の怒りは、そのテロリストに向かない。怒りが拡散し、浮遊して、狙いどころもない。 ただ苦心して、今日、明日をどうしていくか考え、行動するだけである。そして耐えるしか方途がないのである。 2003年3月11日 若者 昨日は夕方一雨降り、また真夜中に降った。今日は朝8時頃から1時間程のスコールだった。雨期も終わり頃になると通りの樹々の成長の早さに驚く。通りの各店の看板は、ほとんど役立たないほどに、葉は茂っている。 サーファーが多いようで、サーフボードを持って歩いているのは日本の若者たちだ。オーストラリアのサーファー達はあまり見受けられない。 僕はいつも思うのだが、日本の若者の多くは印象がよい。バリで会う若者は礼儀正しく穏やかで、豊かに育ってきたことの良さが感じられる。 その点、現在の日本の50代、60代の横柄で社会のルールを知らないトンチンカンな男性、女性をよく見るなかで彼らに若者を批判するような資格はあるものかと思う。電車内の携帯電話も、マナーモードにすることにも気づかず、聞きたくもない仕事の話を大声で喋る。平気で座席をひっくり返して、足を伸ばす。会社でも学校でもこの世代の人は人を縛ることしか方法を知らない。彼らの全部ではないが、僕は若者たちの方の穏やかさの大を評価する。 テレビで紹介される若者は茶髪でピアスをして、同じような喋り方をし、成人式で騒ぎ、精神の障害を持ち、キレやすく、ネットで自殺心中をする。大人はそれを見て「とんでもない若者たちだ」と思い、自分の若い頃のことは棚にあげている。 先日テレビのニュースで広島で行われたNO WARの人文字を作り、世界に戦争反対を発信している若い人達を見た。個々に集まり、人文字作りが終われば個々に帰ってゆく。明るい戦争への抗議だった。東京からバスをチャーターして、人を集めたり、リーダー格の男性は「開かれた個人として、開かれた運動になればいいんです。」と言っていた。 僕は感心した。個人を尊重し、集団に出入りすることも個人が優先される開かれた関係で、さらに開かれたインターネットを使って世界に発信する。こういうことが言えるのである。 連合赤軍も閉じた集団を作ってしまったために、あのような結果となったのだと思う。あの頃若者たちの多くはアメリカに支配される安保条約を拒んだのだった。やり方は暗く、閉鎖的だった。その後、時代は完全に高度経済成長の波に乗り、日本人は豊かになっていったのである。 豊かさの中で育った人たちが大人にになり、個人と個人、個人と集団、そして個人そのものの関係性をなんとなく知り始めたのかも知れない。すがすがしいニュースだった。 ここで、バリの若者に触れなければならない。彼らは村落共同体の一員である。個という概念に乏しい。集団の中でのやり抜き方をよく知っている。 物事は宗教的な思念で解決を図ろうとする。テロ事件→神のバリ人への警告→試練→良いカルマ→未来は明るい、いう風に。 しかし個の度の過ぎるわがままさは他から抑えられる。自分でバランスを保つと言うことはない。他人の忠告、他人の眼があって、なんとかバランスを保っている。個なんて要らないと思っているような節もある。その辺があいまいになってきている。バリ人の人あたりは非常に良い。だが家庭の中の彼らの本当の姿を僕は知らない。 2003年3月12日 贅沢な日 どうも心ここに落ち着かないという状態が続いている。みんなの表情が冴えないし、コンピュータの調子も悪い。主要な仕事は1日で終わってしまった。朝、雨が降り、午後も断続的に雨が降った。ジュプンバリのグデと2時間ほどバリのよもやま話をした。「死んだ人には悪いけど、バリ人の多くは今回の爆弾事件はバリ人が傲慢になった神からの警告だ」と言う。なんて分かりやすい解釈だ。宗教はそれだから嫌だ、と思う。グデを嫌だとは思っていない。宗教がそのように解釈させるのである。「交通事故にあった。死ななくて済んだのは信心のおかげである」というのと全く同じである。 こういう信じきった考え方を覆すのは並大抵のことではない。千の神経や万の根気を必要とする。結局「今は試練の時です。MR.モトキは良いカルマがあるから、次の代の息子さんはもっとよくなるでしょう」などと言う。本当は自分に向かって言っているのである。そこに信心が現れる。 「バリは2年ごとに悪災に見舞われる。1995年のコレラ、1997年の経済危機、1999年の暴動、2001年のアメリカ同じ多発テロ、そしてバリでの爆弾。観光地化して心がよからぬ金のほうに動いていくのを神は見かねるのだ。」と言う。 「どうして自分たちのほうにばかり引き寄せて神を考えるんだい。お前の神はサリクラブで遊んでいた白人を救わないほどに差別をするのかい。」と言ってしまう。 「お前の神はお前だけのもんなのかい?それともバリ人だけのものかい。俺はお前の神から見ればどうでもいいのかい?」とそこまで言う。次は言うのを止める。 「そんなご都合主義の神の論理なんか言うのは止めな。テロリストも神の意志と思ってやっているんだ。つまらん自己慰めなんかやってないで、代わりにほれアグレッシブに、ほら客をゲットすることを考えろよ。臆病になるなよ。」と言う。 彼は本業のツアー会社がこのテロの影響で客がなく、耐え忍ぶのにジャカルタの会社の健康食品を売っている。日本のデフレの現象を知らないから、日本人には安いもんだろう、と勘違いしている。 グランブルーで雨が土砂降るのを見ながら、熱帯の植物の成長の早さに感嘆しては通りの樹木を見て、雲の激しい動きに目をやる。 4時。日本にいるマンタラの家族が今が旬のランブータンとサラックをいっぱい持ってきてくれて、話をし、今度はソンダルの兄貴がやってきた。日本にいる彼らからの渡し物をとりに来たのだ。マンタラの家族は対葉豆の生産も引き受けてくれた。ソンダルの兄貴は公務員だからできない、と言う。 ほう厳しくなったもんだ、と思う。彼はバリの電々公社にいる。ユダの娘が来たのは6時。ユダからは奥さんの渡してくれと言われていた。身分証明書をと言いたいところだが、ハッピーバリに電話してユダに確認をした。 デンパサールに買いつけに行って帰ってきたスタッフと共にに買いつけた来たもののちょっとした品評会。 7時から「あちゃら バリ」という雑誌をやっている五十嵐さんと会った。僕の方から無理やり誘ったのだった。な、なんと11年もバリにいるという。東京の通勤が嫌いなのだそうだ。集団の中にいるのが得手が悪いのだそうだ。「バリでなくてもどこか、パースとかアメリカのどこかとかで暮らすでしょうね。仕事のチャンスがあれば」と穏やかに話す。東京に帰る気がないようだ。いろんな人がいるもんだ、とバリで人に会う度思う。たいへん良い出会いであった。 そんな風にして時間は過ぎた。スラバヤ、スマトラ島に行く事もなくなった。15日、ヌガラに行くことだけが予定である。贅沢にとりとめもなく過ぎた1日だった。 父親 マンタラの奥さん、マンタラの妹と父親が来たので、事務所から大阪のマンタラに電話した。電話器を父親に渡し、話をしては、と勧めた。父親は照れているのか、電話器を取らない。物静かで穏やかな人だった。 先日、実家に行き、父の様子伺いをした。母は外出していて父は寝転んで「鬼平犯科帳」を読んでいた。父は4年間病気で苦労した。向こうから何度も呼ばれたと言っていた。父とは魚釣りを一緒にしたくらいで、話し合ったり、互いに笑いあったりしたことがない。物言わずで黙ってテレビをつけて横になっているのだった。酔えば戦争に行った時の話をした。遠洋漁船に乗っていたから、子供の頃は滅多に会うことはなく、逆に帰ってくると日常の生活パターンが違ってしまうし、重たい空気の塊に包まれたようで息苦しかった。 実家に帰っても笑い顔ひとつするでもなくいた父が始めてにこやかに話しかけてきた。何かないいいことがあって笑っているのではない。息子を見てニコニコしているのである。 僕がバリ島に生く度に母に「順一はまだ帰らんのか」と心配そうな口ぶりで言うらしい。ちょうど3月の始めだった。この時期、父を見ると「えたれいわし」を思いだし、無性に食べたくなる。昔は少しおすそわけをしてもらっていた。ほどよい脂がのるのはこの1週間である。 父がいくらニコニコしていても、互いにいつまでも話をするような習慣はなかったから、また世間話は互いにしない性質だから、二言三言喋るだけであとはもう話がない。 マンタラの父親を見ていて父親というのはそんなものかな、と思った。 父親と話なれていないので、娘や息子ができてどう接してよいのか、自分には刷り込みがないような気がした。当然誰でも親になるのは初体験のことだ。だが、父親をどんなトンチンカンな話でもプロ野球の話や相撲の話でもしている経験があれば自分の子供のああでもないこうでもないと話しているに違いない。 親孝行をするにもそのやり方がわからない。母親にだったら旅行でもしようか、今度カラオケでもいこうかと言える。何が父親を喜ばせるものなのかわからない。同様に子供たちに対して、無駄な話はしていないように思う。言うときは肝心な話だけを言う。 それでも最近息子が久しぶりに帰ってきて「やっぱ我が家はよいな」と言われると嬉しいのである。 さてマンタラの父親は結局息子を話をしないまま帰って行った。僕を見に来たような気がしてくる。日本人のボスはどんな男か。奥さんは嬉しそうに電話で話をしていたが、その様子を穏やかに見ていただけである。しかし父親の役割をしっかり果たして帰ったのである。僕はマンタラにきっと言う。「お前のお父さんは良い人だ。りっぱな人だ」と。 メルマガ 「人・社会を考える 本木周一の25時間め」 ただいま59号。ぜひともご登録、ご購読ください。 週1回、金曜日に発行です。 2003年3月13日 ヴィラを訪ねて メルマガの「ちょっとバリ気分」でヴィラをシリーズ化して紹介しようと思い、取材にでかけた。僕はアポもとらず直接行くのでバリ人のスタッフは驚く。驚くというよりヴィラ側にあきれている。インドネシア語の上手なアキちゃんはすでにバリ人と見られているようである。コンピャンはバリ人である。まず彼らは取材の電話をする。それから企画書をだす。そういう手間がいる。そしてお断りという場合もある。逆にいえば、そういう手間をホテル側もかけている。無駄なことだ。僕は直接行く。「日本ではヴィラが人気である。今度のスミニャックのビラを紹介したいので、案内書がほしい。そして幾つかの質問答えてほしい。もちろん写真はすべて取らせてほしい」と頼む。断るはずがないではないか。宣伝になるのだから。 それがバリ人同士だと、とたんに厳しくなる。ホテルを運営する側はとにかくバリ人にホテル内をうろうろしてほしくないようだ。 今日は5つのヴィラを取材した。ヴィラは家族やグループで泊まれば安上がりかもしれない。またどこにも出かけず、のんびりするのならいいのかもしれない。 僕にはヴィラと言えば敷地の狭さが気にかかる。せいせいしない。ヴィラはどこも敷地が狭い。オベロイのようなホテルヴィラだと敷地も広く、ディナーもレゴンダンスなどを見て楽しめるし、テニスやエクササイズも楽しめる。貸しビデオもある。普通いわれるヴィラではいちいち外に出かけなければならない。ショッピングも外になってしまう。しかし気の合う仲間がいて、誰にも気がねせずいられるのだったらヴィラはいいだろうな、とも思う。僕は宿泊場所は音楽をやっていたり、バーがあったり、いろんな外国の人がいてプールサイドで楽しんだり、テニスができたりしたほうがよいので大型ホテル、贅沢を言えばホテルヴィラの方がよい。どこにも出なくて、すべて済むところがよい。 どうしようもないようなヴィラが、オベロイよりも高い。スタッフの質は高そうでもない。異論のある人がいるだろうが、個人的な見解である。 スミニャックは結構観光客がいると聞いたが、ほとんどいない。ヴィラはがら空きであった。これまでどこもヴィラの客は日本人と台湾人が多いということだった。 汗が顔から吹き出るので、ヴィラの前にあるジャワ人がやっているワルンに入った。現地の2人は客なのかどうかわかないがチェスに熱中している。一応ウエイターの少年が「いらっしゃいませ」とも言わず、僕らを無視しているので、勝手に冷蔵庫から冷えたテ(甘茶みたいなものだ)を取りだし、ナイロン袋が油でヌルヌルしたパンを取る(これは美味しかった)。 「勘定!」というと裏庭からのっそりおばさんが出てきて、無愛想な顔で勘定を言う。バリの女性もそうだが、インドネシアの女性は怒っているように見える。話し合いの時などは喧喧諤諤のようにように見える。 行く先々でみんなイラク攻撃の話を話題にする。18日にどうなるか。もし戦争が起きればまたバリ島に観光客は来なくなると考えている。 クタのイマンボンジョールからスミニャックまでのサンセットロードがやっと完成し、今は車が軽快に走っている。それまではアナボコだらけの道だった。この道が完成することで、スミニャックが注目され、ヴィラが多くできたのだろう。 ロイヤルスミニャックのマネージャーと会った。8%の客室率だそうである。僕にこっちに移れ、という。特別な値段をだすと言ってくれる。ちょっと心が動いたが仕事では便が悪い。 この2日、雨はない。雨期は終わったのだろうか。 相変わらずバリに来ると身体がだるくなる。もうずっとだるい。原因はわかっている。アルコールの飲みすぎで肝臓が疲れるのと、やはり強い引力と強い重力の関係なのだろう。 バリニーズマッサージではこの疲れはとれない。内臓の問題なのだ。夜、エステに研修に来ている女性と、仕事に行き詰まって1週間考えに来たという男性に「顔色が悪い。大丈夫ですか」と心配された。グランブルーは青いレストランだからそう見えるのだろうが確かに身体がだるい。部屋に帰って、鏡で自分の顔を見た。こんなもんだろう、と安心した。 と言いながらビールくらいしか飲むものないし、さていまからビールを飲むか、飲まないか思案している。きっと飲むと思う。 勇気 エカはイダ・バグスのカーストである。クルンクン県のバカス村には3つのイダ・バグス家があって、その3つのイダ・バグス家の長男がグランブルーで働いている。エカはバカス村を出て、クタにアパートを借りて住んでいたが、爆弾事件後、アパートを出て、叔父の家に居候している。 そのエカにガールフレンドができた。二人は結婚したいと思っているが女性のほうはカーストがスードラである。両親は反対。兄弟にはこのことを言えず、苦しんでいる。 おそらくエカが主張を強くすれば、結婚はありえるだろうと僕は思う。違うカーストのものが結婚するのは近頃では珍しいことではない。慣習としてカースト制度は残っていても、法律上禁じてはいない。国の理念がはっきり示されていればその理念のほうに人々は動く。 コンピャンもオカもバワも違うカーストの女性と結婚している。だいたいが5%ほどしかいないイダ・バグスカーストの中からイダ・アユ(女性の名前)を見つけるのは至難の業だろう。彼は親の反対にあっている。悩むだろうが彼の決断が最も尊重される社会になっているから、あとは勇気の問題である。 ワヤンの夫が今収穫時期であるマンゴスチンとドリア、コーヒーを栽培しているシガラジャの実家に手伝いに行っている。 彼はシガラジャから子供を残して夫婦でクタに出てきたのである。いろんな地方から若い人たちがデンパサールやクタに出てきて働いている。昔、各地方から東京や大阪に出て職を見つけたのと同じである。それによって地方は都会との情報交換ができるようになる。 マンゴスチンが地方の農家でキロ500ルピアとか700ルピアえ買い取られ、マタハリデパートではキロ2000ルピアになっているのを息子から聞くと、それは不条理で、なんとか直接に売れないものかと思うのは人情だろう。 思えば、マンゴスチンは高価らしくホテルでも夕食や朝食に出し惜しみをしている。きっと仕入れ値が高いのであり、中間マージンが大きいのだろう。 単純に言えば、息子と父親はデンパサールのマーケットに卸したらどうか、という発想になる。その話を聞いて、僕は馬鹿な、バイパス沿いかクタやレギャン通りにでも「フルーツの店」を開いたらいいではないかと思う。きれいにラッピングをしてある店であればマンゴスチンは1コ5000ルピアで売れると思う。ランブータンも一房5〜6コの実がついて5000ルピアはいけると思う。ただしそこで売る方法が必要である。買わせる方法は消費資本主義の日本の人なら優れている。それを伝えるがなかなか理解できない。一番消費者と接する小売店が生産を引っ張るということがまだわからない。日本の政治家もそのことは本当に実感としてわかっていないが、バリ人はもっとわかっていない。店をどんなものにするか。ラッピングをどうするか。味の均一をどう農家に伝えるか。看板をどう作るか。広告をどうするか。果物のセットをどう作るか、などなど、そこまで考えは及ばない。馬鹿にして言っているのではない。 時代の段階の壁を打ち破っていく人たちが必要なのだ。 こういうことをする人に銀行はお金を貸せばいいのだが、銀行は担保のとれるものしか貸さない。バリには心優しい外国人がいる。彼らがエンジェルになればよい。 エンジェル基金でも作ってそういう人たちに資金を提供する。ふと思いついたことだがいいなあ、そのアイディアは。 2003年3月14日 バリ島 フランジパニは愛らしくプールサイドで咲き、ブーゲンビリアはホテルのベランダを鮮やかに装飾する。夜のセダ・マラムは妖しげな香りを放ち、ロータスはひっそりとその花を朝早く開く。ハイビスカス、フラボヤント、熱帯の花々はバリ島を包んでいる。 花の中で暮らしているようなバリ人である。 バリ島には我々の細胞の中に染み渡る懐かしい記憶がある。ヴィラに篭っている人達でも周囲に懐かしい記憶があるから安らいでいられるのだ。これがイギリスだったらそうはいかない。どこかに違和感が生ずる。30年ほど前、イギリスにいたことがある。僕はその人工的な公園に違和感を覚えてしょうがなかった思い出がある。整然と整備された公園は僕が遊んでいた頃の原生林の山とは違っていた。 バリ島は世界のリゾート地の中でも最高級な環境を持っている。舞踊、絵画、木彫や石彫、種類の多い音楽、原始と現代にわたる人々の生活。花々、香辛料、動物や植物。おそらくバリ島を支配したオランダ人はこの島の豊かさに驚き、感嘆しただろう。 旅のおもしろさは人と出会うことでもある。カタコトの外国語や身振り手振りで話す。一期一会である。それがよい。会う人々は舞台の上で会うようなものだ。バリ島ではすべての人が舞台で演ずる人のように見える。 小さな島である。北へクタから3時間。西へクタから5時間で共に果てである。 棚田は美しい。椰子のシルエットも紫色の夕暮れ時に美しい。半分の土地は水が十分あり、半分がいつも水不足である。もう少し人口が少なかったら自給自足は可能なのかもしれない。ガソリンを求めなければ。 バリ島は90%がヒンズー教徒でその民族をバリ人と呼んでいる。彼らはその昔南インドの方からきたのだろう。ジャワに渡り、そしてバリに入ってきた。この豊かなバリ島を守るために彼らは必死で村落共同体を守り、連合し、今日にまで至っている。「神々の島」と外国人に言われるほどに神や霊と関係する儀式や祈りは多い。その文化があまりにも強固に残されているため、旅人にとって最高の異空間を作り、同時にそこにある印象と見たことがあるような回想がだぶり感動を呼び起こすのである。 自分のこと 個人は優先されるべきだが、自分のことはいくら考えてもわからない。考えれば考えるほどわからなくなるのが自分である。すると考えないほうがよい。流れにまかせ、何かが自分にやってくるくらいの気持ちのほうがよい。 「仕事で行き詰まり、社会にも入り込んでいけないんで・・・・」とバリに来た男性は言っていたが、社会にはいやおうなく入って行くときが来る。バリだったら、個人という概念がほとんどないし、自分のことを考えるということもあまりないので「社会に入れない」とか「仕事に行き詰まった」というような気分はないと思う。バリ人から見れば「何言ってるの」となるだろう。先進国人の悩みは「自分のことを考えることだ」。しかしそれは通過しなければならない段階で、自分を考えた末に結論はでないが、より内面と外面が開かれた個人になっていく。 バリ人は内面が未発達の社会っぽい。閉鎖的。恨み。妬み。セックス観、世間や周りを気にする態度。物が言えない不自由さ。経済の発達で徐々に開かれていくのだろう。 後進国の民族ほど宗教を信じるというデータがある。貧しい国ほど宗教心が高い。世界の宗教心に関するデータはアメリカのみ違っている。アメリカは超先進国である。が、キリスト教の原理主義が多い。イスラム国にイスラム原理主義の人がいるのとどこか共通しているのではないか、と思うほどだ。 アメリカも広い国である。ニューヨークやロスはほんの一部のアメリカ人であり、映画で見るアメリカ人もそのあたりの人たちだろう。実は南部や中西部にかなり保守的で、キリスト教を純粋に重んじている人々がいる。彼らは日本などはあまり知らない。海を見たこともない人も多い。極端に言えば世界は彼らの住む社会である。それでも世界のニュースは入ってくる。そのニュースをキリスト教の原理主義の理念で選り分けるのである。いわば、アメリカのこれらの地域は後進国並なのである。 それが大変な量の核や生物兵器を持ち、世界の警察と勘違いしている。迷妄である。彼らも個人というものを考えたことがないのだ。テロの行う悪よりも国家が行う戦争のほうがなお悪いということすらも気がつかない。そして、「世界の各国の歴史の段階」に思考を及ぼす力もない。排他的で差別主義である。 話がまたもやそれてしまった。自分のことをどれほど考えても結論はないし、わからなくなるだけで、わからなくなると不安が増すばかりである。しかし、それは通過しなければならないのだ。逃げてばかりもおれない。やがてどうしても、イヤイヤながらでも社会に出るのだ。そして心を開いて待っていればよい。淡々と。そう思う。 2003年3月15日 ウブドへ 朝方グデがマルベリー(桑)の葉とクリサント(菊)のお茶をもってきた。身体によいのだという。彼の説明をきくと万能でいかにも長生きしそうである。あと珍しいコーヒーを持ってきた。記憶力減退によい、というのである。そのコーヒーにはギンゴといわれる植物が混ざっているというのだが、日本語や英語で何というのかわからない。商売というのは何が当たるかわからんからね。試しに1ケ月ほど飲んでみるか。 昼前からウブドに出かけた。ヴィラの取材である。ウブドにも観光客はほとんど見なかった。ホテルにいるのかもしれない。が訪問したヴィラには一人の客もいなかった。 もうすぐオープンが来年の4月頃のオープンになるというロイヤルピタマハはまだ工事中であった。コンセプトは以前と変わっていないように見える。バリ彫が基本である。ヌサドゥアの「バレ」とは対極である。「バレ」はバリのコテコテ感を削ぎ落とし、雰囲気はインターナショナルである。ロイヤルピタマハはバリの彫刻がどこにも装飾されていて、ジャングルの中にいる雰囲気である。ヴィラからはアユン川の渓谷が見える。 いくつかヴィラを見学させてもらった中で、特筆に値するのは2003年の1月にオープンした「ガヤトリ」というヴィラと昨年の12月にオープンした「カユマニス Kayumanis」というヴィラである。 車の通る大通りからは外れていて一本道を中に入る。互いに近所どうしである。ガヤトリは3棟のみである。しかも3ベッドルームと広いリビング、広いプールがある。日本人の女性が作ったのだそうな。広々としていて、先日見学したスミニャックやヌサドゥアのヴィラのように暑苦しくない。スミニャックのヴィラは樹木が少なかった。太陽の照り返しがきつい印象を受けた。ガヤトリはこじんまりとして静かだった。マウンテンバイクやDVDなども用意されている。 「カユマニス」は 1寝室のヴィラが6棟、2寝室のヴィラが2棟。3寝室のヴィラが1棟でレストランとスパもある。 各ヴィラはちょっとづつデザインが違う。スマトラ島のデザインをとりいれた家具、ジャワ島のものおを取り入れたヴィラ、プールも広く快適そうである。 特筆するのは両ヴィラとも道を登り下りしなくてもよいほどにこじんまりしていることだ。ウブドのホテルの多くは斜面にできているところが多く、これがたいへんである。老人には向かない。 おそらく都会の狭いマンションやアパートに住んでいる人はため息がでるだろう。都会の多くの人が手に入れられない別荘を数日提供する。仕事でクタクタになっている人にはたまらんだろうと思う。 ウブドに出かける度に村のなにがしかの儀式の行列に出会う。オダランのため寺院に供物を持って歩いている女性を見る。 その風景は10年前と変わらない風景である。 棚田では人が多く出て、農作業をしていた。 バリ人の季節感はセントゥルという果物の花が咲くと、風が強くなり、雷雨が降り、乾期の到来を思う。あるいはドリアンも季節感を呼び起こすものである。日本の春の桜のように、バリ人たちの微細な季節感はあるに違いない。そんな話をゆっくりグデとしながらレギャンに帰ったのだが、なにせ言葉が英語だから互いにもどかしく。もっと季節感とか文学のことを深く聞いてみたいのだ。 ジャムー 近頃バリ島ではジャムー(インドネシアのハーブを使った漢方薬みたいなもの)離れが起きているようだ。ほんの最近まで夕方になると男たちはジャムー売りの屋台や薬局にいき、苦いジャムーに蜂蜜や卵を入れてスタミナに気合をいれる風景があった。この頃は簡単なものが出てきて今多くの男性が飲んでいるのは「エクストラ ジョス」という粉を水に混ぜて飲むものが流行りである。味はレモン水のようである。 「IREX」というインドネシア バイアグラというのも出まわっている。こちらは少量の液体が少量袋に入っているものである。 娯楽の少ないバリ島では刺激が拡散しておらず、セックスは最大の刺激的な娯楽のようだ。 先日、オフィスに行き、ちょっとコンピュータを使うよ、と言ったら、スタッフの一人が最初の画面に戻そうとした。すると、何を間違えたのか、男のチンチンを口にほおばる女性の画面が出てきて、「なんだこれは、こんなもん見とるんかいな」と笑ってしまった。今はインターネットがあるからどんな情報も取れる。テレビのキスシーンも禁じるこの国はこういう風にして変わりつつあるのだ。 今日仕事の終わりかけに男性スタッフと女性のスリアシがいて、ちょっと世間話になった。4年前のスリはまだ高校の出たてで、メガネをかけたあどけない女性だった。この半年でめっきりおしゃれをするようになり、髪も普段の仕事の時は後ろで束ねているが、帰り際になると髪を長くおろすようになった。それが色っぽく見えるのである。ボーイフレンドができたことは知っていた。ボーイフレンドでこれほどまで変わるものかと驚く。グスティーが今年こそは結婚したいというので、その話で花が咲き、話題は「スリお前はどうなんだ」ということになった。スリは少し照れたが、笑いながら「妊娠してから」という。バリ島では妊娠が結婚の必要条件であるのは知っていた。スリのよう若い女性もそういう考えをもつのか、と思う。バリ島には「恋」とか「愛」を至上のものとする人もいることは知っている。しかし次代を作ることも大事なことだと考える。それは循環の思想から来ている。生まれ変わってくる者を断ち切らないことがひとつの命題である。 子供ができない夫婦はいくらでも日本にはいる。それで肩身が狭いということもない。日本社会がやや開かれた証拠である。バリ島にはこういう点でも窮屈さがある。 卵巣は言うまでもなく我々の身体は宇宙の太陽系の天体の相互の影響し合うリズム(波動)に合わせて生きている。鮭は餌を食べる食の位相から故郷に戻り産卵と射精をする性の位相に変化し、ダムができてもひたすら次代を作るために溝を見つけては劇的に這い登る。 思えばスリは僕ら日本人よりもより強固に鮭のように這い上がる無意識を持っているのかもしれない。 先進国では人間は罪刑法定主義の中、法を犯さなければどんな夫婦のあり方も、生活も、認められるようになっている。それは人間とはもっと複雑なものであり、難しいものだからだろう。その難しさにスリが当面したら、スリもボーイフレンドは何倍も苦しむことになる。放っておけばよいことを放っておかない宗教的な物の考え方が周囲にある。しかしそれも変わっていくのだろう。ジャムーが変わってきたみたいにだ。 2003年3月16日 母と子 一回3時間会っただけの感想である。彼、ワヤンは器用に日本語を使いこなす。頭の回転もよいと日本人の奥さんは思っている。 彼は日本の「潔癖症」に否定的な考えを持っている。サーフィンが大好きでサヌールの浜で今の奥さんをひっかけた。奥さんのほうは、なんとなく彼に惹かれていき、(電気は走らなかったと言った)、妊娠することになり、ついで結婚することになり、両親共反対することなく、父親のほうは賛成となり、母親の方は行く先を思えば反対のほうにまわったのだったが、赤ちゃんも生まれ、もうすぐその赤ちゃんは6ケ月に、オトナンという儀式を行い人間の仲間入りをする。 奥さんの母親がワヤンの今後が心配で、アドバイスもしたくて今回バリにやってきた。ワヤンに一人立ちしてもらいたいと思っている。ところがワヤンは商売のこと、ましてや会社のこととなると知識がない。サーフィンの話だと目を輝かせるワヤンは会社の設立となると元気がなくなる。ポーズなのか、照れているのか判別はつかない。 グランブルーの連中に「ビジネスは苦手だ」と言っていたらしいから、今が良いのだろう。ビジネスは煩わしい。奥さんものほほんとしている。 僕から見れば、奥さんは「母親から離れたかったのではないか」「無意識にそういう方向に行動がいってしまったのではないか」と母子の会話を聞いていて思う。母親が悪いとか底意地が悪いというのではない。どう見ても人がよいし、朗らかで、直球で物事を言うように見える母親だ。お酒も好きだ。 ただ僕が感じたのは、その母親が自分の母親との関係がおかしな時に身ごもってたときの心の状態があまりよくなかったのではないかと想像する。なぜかと言えば、娘が物を言うとき母親が代わりに言おうとすることが2、3度あった。娘はそんな母親から離れていたいと思い、また今自分に子供ができたら母親の気持ちもわかるような時期にさしかっているように思える。母親の方もそれを察知していて、「離れているのがいいんですよ」と笑って返す言葉になっている。 母と子の物語は、母とその母や父、母とその夫、その時の時代的な社会の環境が織り成すと母と子の物語である。この親子を僕にそれを吐露するように垣間見せる。 こういう私事な話を書いてしまうと反転して僕はなんと私事の秘密を守らない男かということになりそうだ。しかし心配することはない。母親の懺悔も、母親の歴史ももう娘は認識している。娘は愛情と謝ることを心の中で二重に受けて育った。そして大人になって十分に認識する環境になっている。ワヤンを見つけることがそうだったのか、母親を越えていくことがバリ島だったのかは どちらでもよい。一歩足を踏み出したところで人生は変わっていく。それも人生、何も言うことはない。他人から見れば。 母と子 2 その母親に乞われて、翌日ワヤンの家族たちが基地とするレンボンガン島に行くことになった。サヌールを出発してバンダン海峡を渡る。海峡に入ると波が高くなる。高速で飛ぶように走るモーターボートで35分。 レンボンガン島が真近に見えてきた。透明で、岩に砕け散る波の飛沫は白く、ところどころ青い宝石のルビーのような破片が見える。海見は透き通っている。ワカメを栽培しているらしく規則的に点在して白い砂地にワカメの一群がある。 長細く見える島で幾つかの砂浜があり、できるだけ砂浜の近くに寄るような境界線に集落がある。 漁民の島である。漂海民だったのだろう。島は乾燥していて、水が不足しているため、農作物の栽培はできないように見える。 水遊びがここを訪れるわずかな旅行客の目的だろう。 段々になった石畳の道をだたみを汗だくになってワヤンの兄が経営しているバンガローに入った。ハワイの男に名義を貸していて、そのままハワイのオーナーは来なくなったので、今はワヤンの父と兄が自分たちのものとして使っている。3つのバンガローには2組の日本人と1組のオーストラリア人が滞在していた。ワヤンは調子よく、 「午後からはいい波が立つから、俺もいくぜ」とオージーの男に言っている。 ワヤンはサーファーの身体をしている。猟師の身体は魚のようにヌメとして筋肉感はないが、ワヤンは胸の肩、腕、腹の筋肉が発達している。そのわりに足はほっそりとしているのだ。海の上でボードで手こぎをする筋肉なのだろう。腕と腹に刺青をしている。 きらりとした良い目をしている。たくましい美男である。人気俳優のようなオーラがある。彼は一時代前なら猟師になって海に毎日出ていたのだろう。今はサーフボードに乗って漂っている。サヌールで客をとってサーフィンをする。ホテルを紹介すればちょっとした手数料をもらう。兄貴のバンガローを紹介する。妻の母親は独立してなにかビジネスでもしたらどうかと勧めるが、実際のところビジネスなどしたいと思っていない。あんな窮屈な計算事は嫌だし、割り算とてまともにできやしない。釣りが大好きである。日本人の妻さえいれば、気楽なのは事実だろう。 行くところもない島なので少し歩いてみたが、不便このうえない。ちょっと歩けば段々である。歩くのもやめて僕はレンボンガン島の海が刻々と変化している様を5時間ほど見ていた。 夕方、サヌールに戻った。日曜日のせいか船を碇泊させる海辺やその裏の広場は現地の人で賑わっている。サテ売り、とうもろこし売り。よい匂いが広場に漂っている。 ホテルまで送ってくれてから、 「夜はカヌーで釣りに出かけるから、ママ達を頼むよ」 と僕に言って、釣りに出かけようとする。 「サーフィンから帰ったばかりなのだから、奥さんのところにも寄って、顔くらい見せろよ」 照れ笑いもせず、ピッとクラクションを鳴らして行ってしまった。 義理の母親は限りなく男性に近い女性だ。娘はこのどこか荒くれたところがあり、単純にファッションで刺青をしてかっこいいと思い、波に乗り、魚を追う男に惹きつけられていったのだろう。まだ未開の本能のようなものがある男に吸い寄せられたのだろう。 母親はワヤンを幾つもの違う感情からワヤンを見る。 それに気がついておらず、ごっちゃに言っている。娘の母親という点からは「もっと独立を考え、収入を得、娘や子供にたいしてしっかりとした男性になってほしい。」 女としての母親からみれば、「なかなか惚れ惚れする息子ができた。出来の悪い奴ほど可愛い。」 人間の立場から言えば、「そんな人生もあっていいだろう。やがて落ち着くところに落ち着くだろう。」 恐らく娘のほうは子供のような夫を得て、さらに子供を産み母親からますます離れた段階にいることを自分で獲得したのである。ワヤンは母らしからぬ「飲めば口うるさい妻の母」につきあっている。明日はオトナンである。親戚が集まり、子供が人間の仲間入りをする儀式を行う。母親は黙ってヒンズーの儀式を見て、これまで思ってもみなかった異界と縁ができたものだと自分の人生を訝っているだろう。 *今回の「僕のバリ日記」はこれで終了です。次回は5月の渡バリになります。 メルマガ「人・社会を考える 本木周一の25時間め」は日本で書いたもの を週1回で発行しております。雑誌「自由」の5月号、6月号でも掲載されます。ぜひともご一読ください。 |