| 2002年10月30日 村に帰る 10月30日、名古屋発のガルーダ889便の乗客は40人。そのうちインドネシア人が3人、白人女性が1人。日本のビジネスマンらしき人が10人ほど。家族連れの観光客が一組。他は女性ばかりの4人連れ。二人連れ2組、カップル2組である。20日以降はこんな調子が続いているようだ。 ングラライ空港はガランとしている。出迎えロビーのところは人はまばらで、空港駐車場もガラ空きである。 ジュプンバリツアーのグデに出迎えをお願いしておいた。ブックツリーやグランブルーのあるレギャン通りには入れないので、町を見てまわることはやめにして、シェラトンヌサインダーに向った。ングラライバイパスは現地の人ばかりで観光客はほとんどいない。 12日の爆発事故以来客はゼロ。グデは元気がない。ヌサドゥア地区に入っても人がいない。シェラトンもロビーに入ったら僕ら二人だけだった。客は全部で16人ということだった。ほとんどのホテルが約5%。土曜日にはシェラトンはインドネシア人たちの会議があって10%になるという。12月はロシアからの客もあり、今のところそこそこだという。レストランマネージャーたちからの話や、グデの話によると、インドネシア政府は各国からの支援金で大々的なプロモーションを行う予定で、とりあえずは11月15日にレギャン通りをオープンさせてお祓いの儀式を行い、各国旅行代理店にプロモーションをかけるということだ。 「グデ、どうやって食べていく?」と聞くと、 「最悪の場合は村に帰るかも知れない。銀行のローンがあるから、とりあえず2台ある車のうち一台を売る。一人で客をとる。それで生活できなかったらバカスに戻る」 バリ人たちには戻るところがある。いつでも戻るためにか、故郷との縁を断たないために、慣習として、たとえ他所に出て行った者も、故郷のバンジャールに籍を置く。故郷には度々帰る。 「一年もこの状態が続いたら、バリ島はもうダメだ。」 既に失業者があふれている。シェラトンもスタッフの人数を極端に減らしている。 「忍ぶしかないよ、グデ。オレもできる限りのこと日本からするから。」 「グランブルーやエステはどうするの?」 「閉じるよ、しばらく。そしてまた再開する。ブックツリーだけは3〜4人交替で事務所に常時いるようにするから、ツアーのやりとりはできるから。」 「ウブドはどうだい?」と聞くと、 「ここより、もっと静か。ほとんど客はいない。サヌールもゼロに近い。」 部屋のNHKテレビでは、アジア危険情報を流していた。イスラム過激派の本拠地を、東南アジアの地図で示していた。4つのグループがネットワーク化していて2つがインドネシアにある。 アメリカは外交官、その家族が退去、という報道があった。 イスラム武装闘争グループの特徴は、ネットワーク化にある。組織だてされていない。登録もなければ位階もない。アラーの神を信じ、忠誠を誓うだけで、個人それぞれが活動できる。上からの指令があるなしは関係がない。アメリカのテロとて、本当にビンラディンから指令があったのかどうかあやしい。自爆テロが示すように勝手にジハードをやってしまい、ネットワークが追認、あるいは共に背負ってしまうという形である。 武装闘争を容認する人々が1千万人以上いるというから、アメリカの唱える「テロ撲滅」は至難に思える。 「バリ島で同じようなことは2度起らない。」 と誰かリーダーが宣言してくれたらよい。その言葉がTVで流れるだけでこの島は助かる。そういう寝技師みたいなのはいないものだろうか。州知事にそれほどの交渉器量があればよい。 2002年11月1日 半日は明日のことを考えない 一時的に銀行に預けているお金を引き上げることにした。仮に次のテロがバリ島で起れば、経済封鎖になるかも知れたい、という判断をした。インドネシア政府も外国企業の資金の引き上げを心配しているが、こればかりはどうしようもない。会社を守るためにもと決行した。 BNIも相当説得にかかってくるかと予想したが、全くそれもなく回復には6ヶ月から一年かかると思うので、安全になったらまたお願いします、ということだった。 ルピアから円が一円78ルピアであったのを76ルピアで交渉した。 デンパサールに行く途中、村の通りにペンジョールが立ててある。オダランかと聞くと、グデが寺院の改装記念だと言う。 デンパサールのマタハリデパートで、6〜7枚CDを買った。今一番バリで流行っているバリの流行歌、WIDI WIDINANAのKAOUNG BELUS。グデのおすすめのBaleganiur Semarandana(ガメランのロックみたいなもの)、SIONG、RINDIK、それに古いダンドゥットと一番新しいダンドゥットのCDである。 今、シェラトンのビーチ前で、スロンディンを聴きながら、海を見ている。遠浅の海が今日は澄みきっている。10年以上も前に夕方の6時頃になると潮がすっかり引いてしまい、そこを通って家路を急ぐ現地の人たちの列を見たことがある。見たことのない風景だった。近道なのだろう。 バリのどこが危険なのかわからない。今、こんな静かで、のんびりとして、陽は輝いている。 ロシア人らしき女性、ドイツ人らしいカップル、中国系らしいカップル、日本に新婚のようなカップル、白人の老人がビーチを散歩している。 プライベートビーチなのに、いつの間にか物売りの男が貝の殻をケースに入れて前方でサインする。これ、どう、と身振り手振りをまじえて、商品を見せる。誰も相手をせず、無視していると、いつの間にかどこかへ消えていった。 現地の人が投げ網をもって現れた。じっと魚がいるかどうか見ている。僕も興味をそそられて、その男のそばに行き、同じようにして海をじっと見るが、魚の動きは僕には見えない。彼は黙ってじっと水面下を眺めて、いつでも網が打てる姿勢である。背のカゴをのぞくと、イシダイの子、サンバソウだった。彼には水の中が見えるのだろう。僕も昔、魚や貝の気配がわかったのだったが、今は勘も鈍ったのか、気配もわからない。魚を捕るというのは山菜を採るのと違って、緊張感がある。網を投げようとする姿勢に感じ入りながら、僕はくつろいでいる。 プールで泳ぎ、部屋でシャワーを浴びて、NHKのニュースを見る。 シェラトンのレストランは「イカン」という海辺のレストランのみオープンでメニューが極端に少ない。食べるものがないとも言っておれないので、昨日と同じようなものを注文した。 そこで驚くべき発見があった。 シェラトン専属の四人の音楽グループである。初め、どこにでもいるラテン音楽をやるグループかと思っていた。演奏を聞いていると、トランペットの音やトロンボーンの音、あるいは鳥の声や犬の声も聞こえてくる。不思議に思っていると、四人のうちのパーカッションを担当する男が声で、トランペットをやっているのである。 その声のトランペットは、低い音も高い音もでて、一流のトランペット奏者のようである。 「ククルク パロマ」になると鳥の声やら、犬、カエル、にわとり、いろんな鳴き声が出てくる。たいへんな特技に僕らは大感動。 久しぶりにのんびりした半日だった。この半日は明日のことは考えないことにした。 明日、レギャンの様子は全部わかる。 2002年11月2日 クタ、レギャン 1 朝10時、レギャンに向って出発した。クタのエリアに入って、ベモコーナーのところで車はストップ。レギャン通りには入れなかった。開けている店、閉じている店をチェックしながら、ブックツリーの事務所に向った。 グループ会社の全員が待っていた。レストラン、エステ、みやげ物店、そして本体であるブックツリーを閉じるかどうか、そして雇用者側、被雇用者が互いに協力し合って、どこで今、落ち着かせるかまた僕らも落ち着くことができるか。 今度同じような爆弾事件があれば、バリ島はほぼ壊滅である。 各会社、それぞれ事情が違うから、それぞれの会社で僕らへの要求をまとめてくれ、とリーダーたちに言った。僕が直接言っても黙るばかりである。当然のこととして彼らは彼らの生活を守りたい。会社はつぶしてはならない。 要望事項をまとめる間、僕はこの爆発があったクタ地区のバンジャールの長のところへ行った。僕の要求を伝え励ました。 APECでバリ島への支援金が発表された。まずこのお金の一部をクタの再興に使うべきだ。みんなして、日本領事館へ行き、次いでバリ州政府に行き、クタ地区のすべての店がオープンしている状態にできるよう、働く人たちへの支援金を出せ、と要求するべきだ。違法の路上駐車は禁止するべきだ。そして支援のお金で、バリのクタ、レギャンを代表する者たちが、オーストラリア、日本などを訪問し、テレビ局に働きかけて、プロモーションをするべきだ。僕がお手伝いする、と説得した。 「説得」と言わなければならない。なぜなら彼らは支援金が出るとニュースで聞いても、あてにはしていないのである。違うところにお金が流れていると思い込んでいる。また、そういうことは訴えるものではない、待っているべきものだ、とトンチンカンなことを言う。さらにトンチンカンなことを言う。ます、「お祓い」をすると言う。 僕は「結構だ、だが同時に進めなければならないこともあるんだ。儀式のことが100%ではない。毎日毎日、店は閉じてゆき、働く人は減り、路頭に迷ってしまうのだ。」と言う。 名誉職のようなバンジャールの長というのは、バランスばかり考えている。ちょうどそこに州の役人がいたので、「支援金などをくすねたり、クタやレギャンの人、会社のために第一に使わなかったら、僕らはマスコミに訴えるぞ。」と言った。 「日本領事館へ行け、交渉しろ、とりあえずバリの店はみんなオープンにさせろ。安全の確保は当然のことだ。警備する人間を今の100倍、1000倍にするためにその支援金を使うべきだ、そうしてから、日本やオーストラリアにプロモーションだ。さっさと、バンジャールの役員全員とクタの住民全員でやってくれ、僕らもできる限りのことはする。」 グランブルーから結論が出始めた。彼らは、この11月の給料は全額払ってほしい。そして12月からは無給で自宅待機をし、ローテーションを組んで店の管理をすると言う。 このグランブルーのスタッフたちの宣言と合意書で、他の会社も右にならえとなった。本体のブックツリーは全員、基本給だけで耐え忍ぶことになり、毎日3人が出て、すべてを管理することになる。 こういう合意書作りで、時間は過ぎてゆく。するとレギャン通りから何かトランペットの音楽が聞こえる。追悼の行列である。爆発の地点までレギャン通りを北上する。みな黒いTシャツを着ている。「サリクラブ」とその前の「ペディス」は吹っ飛んでいる。15日にPurificationが行われる予定である。 2002年11月2日 クタ、レギャン 2 実際バリに来てみると自分の目と耳、そして肌で感じることがある。 この島の安全対策は十分か。他の場所でも起る可能性はないか。素人眼で見ていても、スキだらけで、厳重な警戒体制とは程遠い。タイのプーケットの映像と比べても、警戒体制はぬるい。 今度起きたらバリ島観光産業は壊滅であることはみんな知っているはずだ。 日本を含め各国からの支援金は何に使われるのか。バンジャールの長たるウェンドラさんの政府への期待感が薄い。復興へのプログラム作りにも積極的とは言い難い。彼らは必死である。まず儀式を考える。すべてはそれからだと考える。 支援金がいつバリ島に届くのか。どのように使われるのか、各国の領事館は見張る必要がある。 失業者が15万人から20万人出るとも言われている。 店を閉じればせっかく来た観光客もがっかりする。店はいつもオープンしている状態にしておく必要がある。こういう一連の施策を誰が訴え、誰が実行してゆくか、である。 支援金の使われ方のひとつに宣伝活動がある。十分な安全体制確保ののち、テレビや雑誌などマスコミでPRすることである。クタ地区のバンジャールの役員や住民が宣伝に出かける方がよい。州の担当官が旅行代理店なのにあいさつにまわる。バリに招待して安全であることを確認してもらうのも悪くないが、クタの人たちのプロモーションをするべきだ。被災地にはモニュメントを作る。しかも誰もが一度は見たくなるようなモニュメントである。 バリ人たちは、この事件を深層の意識のところでは「バチがあたったのだ」という思いも持っている。ディスコ、麻薬の交換所。この2つのクラブは白人社会を象徴しているように見えたはずだ。白人たちの中には喧嘩をする者も、ののしり合うのもいる。女を買い、連れて歩き、あたりのホテルに一夜を過ごす。そういう汚れた場所の象徴として感じとっている人も多い。享楽を慎むバリ人はひっそりとそういう思いを抱いている。 多くのジャワ人はジャワに戻っている。バリ人たちのジャワ人に対する感情が激しい。今度、小さくても同様の事件が起れば、おそらく、バリとジャワの対立は決定的になるに違いない。 バリの観光産業も冷水をかけられて、観光にかかわる人々がそれぞれに反省する期間となればよいと思う。 こういう機会に、観光産業の基本から、新聞社などでキャンペーンを起こすとよいと思う。 ぼる、だます、ひっかける、サービスとは何かを何を大事にすべきかを考える。まだこうのような記事は見当たらないが、ちょっとずつ人々の口から口へと伝わり、再生した時のバリはこれまで以上に安心でき、心癒される島であってほしいと思う。 2002年11月3日 神の声 ヌサドゥア地区やジンバランのホテルなどは厳重な車両のチェックを行っている。空港については国内線ゲートが厳重である。各港も厳重である。今度同様の騒ぎが起れば、バリ島はもう壊滅だと、ほとんどの人が思っている。 観光都市を守る宣言をASEAN会議で採択されたが、反テロ声明とリンクされているから、それでテロが防げるわけではない。あくまでも政治的な声明であり、問題を解決するものではない。 世界はイスラム原理主義とどのように向き合うかというグローバルな問題として解決しなければならない。 不思議なのはバリ人たちのおとなしさである。怒る声を聞かない。帰る村はちゃんとある。そこでならなんとかやっていける。金はないがまあやっていけるかという気持ちもある。政治や州は何もしてくれるわけではないと思っている。怒りはジャワ人に向けられる。我々に対しては黙るだけだが、怒りの感情はジャワ人に向いているように思える。全体的にそういう印象を受けた。慣習的に、行政組織たとえば市や県や警察に解決を求めていくことをせず、村の自治組織バンジャールが大半のことを決め、その掟に従ってきた。そしてバンジャールと行政組織は別になっており人々にとって優先はバンジャールなのである。 クタで働いているのに、クタのバンジャールに所属していない。だからクタをなんとかしていこうと思っても、よそ者になってしまう傾向がある。バンジャールが第一で、島全体が第二、そして外の島からやってくる者はよそ者と見なすという三重の構造がある。ジャワ人たちはバリ島で職を取り、違法のトランスポーテーションをし、ドラッグなども売る。つまりバリ島を汚しているという感情をバリ人たちはもっている。行政に対しては黙り、ジャワ人に対しては隠すように悪感情をもつ。僕はこの4年の間でそういう印象をもっている。 今回の爆発事件はクタで起り、観光産業を一時停止にした。州政府がやるべき事はある、と思っている。そして気持ちとして、支援金がどれほどこようともその使途について、州政府をあてにしていないのが実情である。 前回でも書いたが、この「サリクラブ」、「バディーズ」をターゲットとした爆発事件も、バリ人特有のものの考え方が深層の意識にある。享楽と退廃。観光地で毎夜現地人を排除して、バカ騒ぎをする場所、ドラッグが交換される場所。仕事が終わればまっすぐ村に帰るバリ人たちにとって共通して、ディスコやカラオケは<好ましくないもの>として映っていたのである。人の命は尊いけれど、このような場所が消滅したことにも何か神の声を聞いているようである。 2002年11月4日 結婚式の日 爆弾事件があってから、どういう理由か次から次へと難敵が襲ってきた。敵の攻撃にひるまず、やや後退させたと思った翌日は結婚式だった。 先輩であり、会長であり、友人であり、つまりパートナーであるYさんは、連日の神経戦で疲れたのか昨晩は食欲もなく、夜の八時には部屋に入ってしまったのだが、翌日の結婚式は、心も晴れやかなものだった。 結婚式の主人公たちにまた自慢話だ、なんだかだと話かけて不興を買ったら悪いと思い、なるべく遠ざけるようにして、「見物するだけやで!」と念を押しておいた。先に言っておく。彼はその約束を守ったのである。 11月3日に結婚式を挙げると、僕がバリに発つその日に最終的な決定があった。バリの日本人スタッフは帰国していた。僕が急遽案内をすることになったが、のん気な気持ちでいた。 Aさんカップルは2日に到着。午前11時半にホテルで待ち合わせだった。Yさんは車の中で待たせておいた。そんな事に気を遣いながらも肝心なことを忘れていた。 Aさんたちとの打ち合わせである。僕はてっきり二人は知っているものと思っていた。それを知らずになかなか約束の時間にやって来ない二人に本当に到着しているのか心配したので、フロントで確かめた。確かに二人は居た。電話をするとまもなく二人はロビーに現れた。 あいさつをするやいなや、二人は不機嫌である。帰りのガルーダ航空がキャンセルになった、と言う。ガルーダの職員は、成田ならある、そこからは自費で、と言うらしい。時間もかかる。結局、しかたなくシンガポール経由を選んだらしい。不機嫌なはずである。 さらに僕はその不機嫌さに輪をかけてしまった。何の打ち合わせもなく、お迎えのBMWに乗せてしまったのである。運転手は気の利いたことなど一言も言えない若いバリ人。彼は緊張している。「Congratulations!」とか「Happy Wedding!」などと言えるような男じゃない。運転手は黙っているものだと思っている。 本当は運転手の隣りに僕が座り、ガイドのようにするべきだった。しかし僕は心から遠慮した。「二人だけの方がいいですよね。私はあっちの車で行きますから。」などさっさと言ってしまったのだった。 バリ島の西、車で50分程走ったところにタバナンという農業地帯がある。こめとクローブ(丁子)の産地である。ここのクロポンという草餅も有名だる。中にはパームジュガーのシロップが入っており、表面にはココナツをまぶしてある。 タバナンにケラビンタン宮殿がある。王制が廃止されてから、敷地面積は10ヘクタールから2ヘクタールに減った。今はもう王ではないが、第八代目の元王がここに住んでいる。 渋滞もなく車は走った。タバナンの中心地に入るともうすぐ宮殿である。僕らと同乗しているバリのスタッフたちは悠然としたもんである。日本のような式の緊張感はない。なんとなく始まり、なんとなく終わる。わざとらしく演出を凝らし、涙を誘ったり、感動を起こさせるようなことはないだろうと思っていた。 宮殿に車が着いて、二人を着替え室に案内した。不機嫌である。打ち合わせもなにもない、と言っているのが聞こえた。僕は冷や汗もんで、 「おい、イダ、オレが通訳するから式の順序を説明してくれよ。」と言うと、イダはのんびりと優しく順序を英語で説明した。僕は初めての経験なので、通訳すると「・・・・・らしいです。」と言ってしまう。 なんとか格好がついた。思えば、運転手の役割分担のことも地方のことも、宮殿のことも、式の順序のことも、なんとなく始まってなんとなく終わるような文化についても、僕は予め説明しておくべきであった。 僕は、昨日、一昨日よりも疲れてしまった。 日本だったら、着付けをする人も恐らく「本日は、おめでとうございます。」くらいは言うだろう。そういう言葉もなく、二人は着換えをし、メークアップをした。衣裳が変り始めると、二人の機嫌が良くなってきたように感じて、ホッとしたのだった。 新郎が背に剣をつける頃になって、ガメランの楽団員たちがゾロゾロと現れてきた。どのように測っているのだろうか。着付けの人がサインでもするのだろうか。 するとどこからか踊り子たちが列を作って現れて、着換え室に入っていった、と同時に激しいガメラン音楽が始まった。太鼓を打ち鳴らす。グンデールをたたく。ドラが鳴る。踊り子たちに続いて新郎新婦が出てきた。バリの白い傘を持った男性が両側の先頭を歩き、庭を二週すると、門の前に新郎新婦が立ち止まった。進行の案内役がちゃんと二人の横にいて指示してくれる。祝福の踊りが始まった。花びらが二人にばらまかれた。二人の表情を見ていると、すっかり式の中に入り込んでいて、初めて見る踊りや祝福のされ方に驚いているように見える。するとトペンが門から現れた。王宮でしか見られないというトペンダンスである。その仮面も驚きだろう。 そばで見ていたYさんは、なにかしら興奮している。以前、別の宮殿で宴をもったことがあり、その時と重ねるようにして今日の式を見ているのだ、きっと。 トペンがおわると、宮殿の中にある寺院でお祈りと誓いをたて、さらに宴会場の前で互いに3回ずつ聖水をかけあって浄めをしたり、椰子の実を3回ずつ蹴ってこれからの人生に訪れる悪い敵を蹴るのだ。人生の甘さ、辛さ、苦さを表す砂糖や塩、バナナなどを互いに食べさせる。盛り立てることなどは何もない。淡々と進んでいく。たえず、楽団が演奏を続ける。食事をする時間があり、そうしてなんとなく終わった。 Yさんは感激しきっている。彼はすっかりいろいろ想像をめぐらし、「オレもやりたい!プロデュースしてくれ!」と連発し始めた。もう彼の妨害はないと思い、Aさん夫妻にあいさつもしてもらい、その後彼は上機嫌で宮殿の見学をAさん夫妻に同行して見学したのだった。 終わってから、ここの主、元王様夫妻が登場。記念写真を撮って、二人は機嫌よく帰路に。すみませんでした、と心の謝りながら見送った。 車の中で、Yさんは興奮がやまないらしく、自分もやる時のことを騒がしくされやこれやとうるさい。 ホッとした僕は、次の課題、インペリアルのドラッグストアをどうするか、という問題をなんとかしなければならない。40分後はインペリアルホテルである。どうするのがよいか。ドラッグストアを閉めてしまうと、この時期わざわざバリに来て、このホテルに泊まってくれたお客様に迷惑がかかる。うーん、とまだまだ難問は続く。 |