No.14(2002/07/09〜07/19)

2002年7月9日
バリ着

 ガルーダ889便は4年前は12時出発だった。だからJR特急南紀7時09分に尾鷲を出ると、9時25分名古屋着で、新幹線口にある空港バス乗り場に急ぐと9時40分の空港行きに間に合うのだった。バスで20分から25分。10時くらいには着くのだった。
 出発時刻がだんだんと早くなってきた。11時半、11時。今は10時半である。車で空港に行かない限り、前泊を余儀なくされた。


 今日は、空港の中はわりあいと人が少なく見えたが、デンパサール行きはほぼ満員だった。チケットカウンターで夏休みの増便のお知らせがあった。これまでの月・火・木・日に金曜日が臨時に増発されるようだ。
 ワールドカップの日本への経済効果の低さは感づいていたが、世界各地の観光地にもかなりの影響を及ぼした。人々は家でサッカーを観戦することを選んだのである。
 飛行機の中は圧倒的に若い人たちだった。
 
 久しぶりにCDリピーターを荷物の中に入れた。部屋の中で音楽を聴こうと思ったのである。ソニーのCDリピーターはプレーヤーにスピーカーがついているので便利である。軽く、機能的である。
 レストランのために音楽を揃えることはした。自分のために音楽を流そうということをしてこなかったことを不思議に思う。したいとは思ったけれど強烈ではなく、なんとしてもCDリピーターを持っていこうとは思わなかったのである。余裕が出始めたのかも知れない。新しい歌を覚えようという気にもなっている。桑田圭祐の「東京」。この偉大なアーティストは、人に余裕をもたせ、CDを買わせようとし、歌を覚えさせようとする。
 朝5時に起きたので、飛行機の中では始終眠い。週刊誌を読み、「新潮45」の広島の一家四人と犬が突然消えたというレポートを読み、うつらうつらしていたら、夢なのだろう、昔、僕の下で働いていたIが現れた。頭の一部がはげていて、髪には白髪が混じり、「死ぬんだからもういいんです」と言う。Kという男と三人でソファに座って、さて事情を聞こうというところで夢が醒めた。続きを見ようと思って再び目を閉じたのだが、二度と彼は現れなかった。
 入眠幻想というやつだ。自分は起きている、醒めていると思っているのにリアルな夢が脳の中に現れる。


 コンピャンと智美さんが空港に出迎えてくれた。日本よりずっと涼しい。コンピャンは鼻かぜをひいているらしい。智美さんはようやく仕事にも慣れたようである。
 二ヶ月ぶりである。バリは相変わらずのように見えるが、店に置いてあるものは二ヶ月前とちょっと違う。
 僕もやっぱり二ヶ月終わっただけだけど、ちょっと気分も今後に対しても考え方はちょっと違う。
 グランブルーに行った。バワ、プトゥ、マデ、アユたちとあいさつを交わす。
 バワと情報の交換をする。あの店が閉じた、レギャンで空き屋が出た、などいろいろである。


 インドネシア語の「男と女の会話」の本へのコラム、30タイトル書くことを引き受けた。
 そんなこと、明日のこと、日本に帰ってからのことを、各会社、店のことを光が点滅するように思いながらビンタンビールを飲み、食事を終えてから殺虫剤と帽子を買いに外に出たのだった。
 いつもの店で、ジンセンを買い、「バイアグラいるか?」と聞かれたので、「アガリスクいるのなら売ってやるよ」とアガリスクの説明をしてふざけあって、ホテルに戻った。ヘレンメリルのボーカルを聞きながら、これを書いている。帽子代300円、ジンセン600円。いずれも不必要といえば不必要なものである


2002年7月10日
着いた翌日はいろいろとある

  バリに来ると必ず毎朝グランブルーで遅い朝食をとる。トラジャコーヒーを頼み、パンはジャッフルにしたり、クラブサンドウィッチにしたり変えるが、バナナにヨーグルトと蜂蜜をかけものは定番になっている。トラジャコーヒーは美味しく、2杯も飲んでしまう。バリコーヒーというのはインスタントコーヒーのように細かく挽いた豆をカップにそのままいれて湯を注いでしまうものである。ろ過紙がないので、しかたなくそうなったのだろう。粉が沈殿するのを待って、上澄みを飲む。当然おいしくない。粉も浮いてきたりして邪魔である。


 それから事務所に行く。アキちゃんが帰っていた。シンガポールのインドネシア領事館がテロ対策でシンガポールを経由する外国人に厳しさが増し、何日も待たされたのだった。もしかして帰ってこれないかもしれないと思っていた矢先だったので、
安心をした。彼女は世界を放浪して歩いているので、パスポートは相当にスタンプだらけであり、不信な点も多いはずである。で、まあ無事、KITASと労働許可証発行となるので、よかったよかった。アキちゃんもややふっくらしていた。身体は以前と変わらず、どちらかといえば悪くなった、と言う感想を漏らしていた。身体の不調はそのまま心の不調になるので、身体がどうしようもなない場合は心の調整を自分の意思や認識力でしなければならない。


 ブックツリーのリーダーのイダは突如昨日休んだことを詫びた。理由を聞くと、妻がバリアンになる修行をしていて、ロンボクの寺院に御参りにいくと言い出し、連れていったのだそうだ。家族全員で。奥さんは一人っ子である。イダは彼女の両親と共に住んでいる。男の子を期待し、男がいないので、と言う言葉ばっかりを聞いて育った彼女である。結局夫婦に男の子ができず、家にイダを迎えることになったのである。その彼女は感が強く、自らバリアンになりたいと言い出したのだそうだ。
 バリアンとは呪術師である。阿部晴明みたいなものである。
 薬学などの知識をしっかり得なければならない。憑依して占ったり、解決法を示すバリアンもいる。バリでは心の問題、わけのわからない不定愁訴の問題はバリアンにいくのである。すると「恨み」が大きな原因であると言われる場合が多い。「恨み」を解き放つのがバリアンの大きな仕事である。


 仕事の打ち合せをした。この日は大阪から仕事上での知り合いTさんの招待旅行である。応援である。女性12名、男性4名。飛行機が関空を早く出発したらしく、予定よりも30分早く着いていた。のんびりしていた僕らはいくらったても急遽ホテルにいくことにした。ホテルで旅行会社の人が説明をしていて、まだ部屋に荷物を運んでいなかったので、胸をなでおろした。遅刻とは格好が悪い。感じのよい人達ばかりのグループでバリは初めてだそうだ。事前情報をチェックしているらしく、
 「すぐアーユルベーダがしたい」
 「象に乗りたい」
 「ラフティングがしたい」
 「レゴンダンスが見たい」
 「ウブドゥにいきたい」
 「エステがしたい」
 「ゴルフがしたい」
 「家具、インテリアのもが見たい」
というリクエストがあった。
 すべての希望を叶え、手配するのが今日の仕事である。スタッフ6人であたった。


 この仕事が終わり、ジュプンバリツアーのグデと確認作業をグランブルーに戻って行い、「失敗するなよ」と念を押し、たいへんなスケジュールをこなしていこうとする女性のパワーに感心したのだった。


 マデが現れた。対葉豆が乾季のため葉が落ちてしまい、予定のキロ数とてもじゃないができないという。シガラジャに土地を借りて、そこで栽培しようという提案である。
 対葉豆の全国販売がもうすぐ始まる。う〜ん困った。スマトラ島のほうにまで足を伸ばしたほうがよいか、ちょっと思案した。


 いつも表情が暗く、何を思案しているのかと思える印象のワヤン。今日は会うやいなや妙に明るく、話すのも積極的である。どうしたんだい、と聞くと、いつもと変わらない、という。そんなことあるものか。そう、いつもと変わらないのだろう。だがなんとなく機嫌がよいときがあものだ。気分はちょっとハイになり、口も軽やかになる。そういう時がある。


 オランダのカップルが2週間毎日グランブルーに足を運んでくれ、食事をしていってくれたそうだ。有難い。2階がこのレストランの全くのハンディである。1階だったらすごいだろうと思う。かなりのレストランを回ったが、味はグランブルーが一番だと自負している。
 ホテルのセキュリティーにあいさつし、部屋に戻ったのは12時だった。既に酔っ払っていた。


2002年7月12日
コーヒーとアガリスク

 バリ島のホテルやレストランのコーヒーがまずいと日頃思っていた。今日、日本からコーヒーの豆の収穫時期ということで、日本のコーヒーメーカーの人たちが、僕をたずねてやってきてくれた。スラバヤのコーヒー豆問屋さんの方、輸出手続をするシンガポールの人、コーヒーについて詳しい人ばかりである。
 良いコーヒー豆はほとんどが輸出にまわされてしまい、業者にはねられたのがバリに残るのだそうだ。コーヒーの産地はどこも同じようだと言う。
 日本のコーヒー豆を入れる袋には窒素ガスが入っていて、ある程度品質を保持するが、バリ島ではそれができないため、焙煎されてから三日もしないうちに香りや味が変わってしまうらしい。デリケートなもんだ。
 僕への話は、日本の焙煎方法をスラバヤの問屋さんに伝授し、できあがった商品をバリ島で売ってもらえないか、ということだった。


 ピアインターナショナルの富永さんが来た。明日、僕らはヌガラへ行き、ピアのアガリクス農場を見学する予定であった。道を教えにきてくれたのである。社長の大澤さんは、千葉のショッピングセンターを売って、アガリクスの開発に全財産を投じたのだそうだ。彼が特許ととった発酵アガリクスで、現実に癌を克服する人を目の当たりにして、この研究を続けていこうと決意し、最も気候風土が適し、環境の汚染がないヌガラを選んだのだそうである。きのこ類は環境汚染がもっとも悪いのだそうである。これは富永さんの説明である。
 富永さんは10年以上前は日本でも必ず上位5位までは入るカーレーサーだった。練習中の大事故で8日間意識不明。九死に一生を得て生還したのだそうだ。日本では寒い季節は身体が痛み、暮らせない。
 社長は研究開発し、富永さんは伝道者のごとくアガリクスを宣伝してまわる。
 アガリクスは普通繊維にβ―グルカンがくっついていていくら食べても排出されるそうである。予防的にはカプセルで上等で、すでに癌が進行している人にはエキスタイプを使うのだそうな。免疫力を高める、肝炎、肺炎、癌などから身体を守る。富永さんも肝臓破裂からアガリクスで立ち直ったと言う。
 これが本当なら、どれほど人々の命を救うことだろう。アガリクスは多種多様に商品として出回っている。安いものから高いものまで、毎日のように新聞や週刊誌で宣伝されている。
 こういう状況の中で、戦い抜いていくには本当に効くものしかない。本物であれば必ず生き残る。
 バリ島にいると自分の知らない世界に住んでいる人と出会う。
 なんかくたびれた。夜、別の場所で夕食を、と思ったのだが、一昨日からのツアー客に気疲れしたのかもしれない。
 大阪からのツアーの人たちは過密スケジュールで超ハードにバリ島をエンジョイしている。バリが初めての日本人は忙しいのだ。


2002年7月13日
ヌガラへ

 ヌガラは牛のレースとジェゴグオーケストラで有名であるが、これまで行ったことがない。
 富永さんの招待で、アガリクス農場を見学することになり、ちょっとした旅行気分になっている。
 グランブルーのレストランのスタッフ、ウィドニーはヌガラ出身で5ヶ月も家に帰っていないというので、じゃあ一緒に行こうと言ったのだった。これが申し訳ないこととなった。
 ウィドニーの弟が前日伝令としてヌガラへ行き、僕らが来ることを両親に知らせ、掃除をし、もてなしの準備にと大童なのだそうだ。そうだった、シェフの家へ行った時も親戚の人も各地から集まり、もてなしの準備を朝早くからしたらしいのだった。気楽な僕らは恐縮するばかりであった。
 朝10時半の出発。タバナンを越えて、西へ海沿いに走る。左は白い波頭が幾重にも巻いた海面、サーファーが喜びそうな高い波のビーチ。右側はライステラスが続く。
 ヌガラに入って、最初の信号のところで富永さんは待っているはずだった。彼はヌガラまで2時間くらいと言った。なんの3時間かかったのである。
 農場に着くと大澤さんの奥さん以下スタッフが総出迎えで、ヌガラの海の幸を使った奥さんの手料理で歓待を受け、またそれが品数も多く、さらに美味しかったので、客をもてなすというのはこういう気分にさせることなのかと、今更ながらまた思ったのである。
 アジをたたいて、味噌としょうがでうっすらと味つける「なめろう」は富永さんの料理で、これは日本酒で食べるとたいへん美味いだろうと思ったが、出てきたのは、アガリクス・アラックだった。アガリクス・アラックも上等だった。


 最初のアガリクスが土から出るのに2年かかったそうだが、現在は順調に生産されているようだ。日本では4cmくらいにしかならないアガリクス茸がバリだと2倍の、どっかりとしたものができる。
 これはどういうわけなのだろう。朝と夜に適度な寒暖があって昼は暑いというのがいいのだろうか。
 きのこ類は環境汚染のホルモンも吸収するそうで、アガリクスの栽培地は絶対に環境汚染のない場所が大澤さんの作る条件なのだそうだ。
 多種多様に、値段も高低いろいろある中で、大澤さんがいくら良いと思っていても、世間一般にその優位性を知らしめるのは難しいだろう。
 アガリクス栽培の初めから終わりまでを見せてもらって、おいとまをしたのが4時半だった。
 帰り道、ウィドニーの家に寄る。ウィドニーと両親、弟、姉夫婦が出迎えてくれて、またごちそうが出た。
 今度は、ヤングココナツそのものと、小ガツオの焼いたものだった。小ガツオといえば、父が元気な時はよく小ガツオ釣りに連れて行ってもらった。20cmほどのカツオだが、これを焼いてしょうがしょうゆで食べると美味しいのである。ウィドニーの家の小ガツオの食べ方も焼くのは同様で、しょう油らしきたれがまぶしてあった。お腹がいっぱいだったが、魚が好きな僕はやっぱり食べてします。
 家の裏を200mほど椰子の林を歩くと海辺である。子供たちが遊んでいる。子供を抱いた母親や父親もいる。公園みたいなものなのだろう。砂の高いところにはジュクンが並んでいる。ここから舟を出して漁に行くのである。インド洋。ジャワ島が右方向にうっすら見える。きっとカツオとマグロの宝庫のはずだ。アカアジ、シマアジの宝庫でもあるはずだ。
 海に近く、潮風や波しぶきが強いから、農地に向かない。広い土地でも使い道がないのである。しかし、メンクド(モリンダ、またはノニフルーツ)が家の前にある。ということはメンクドは十分海の近くでも耐えられる植物なのだ。
 空き地の利用法を話し合って、記念写真などを撮り辞去したのは6時半だった。レギャンへの到着は9時半。急いで空港へ行くと、運良く津田さんらツアーの一行のバスが到着したのだった。間に合った。みんな笑顔なので、つつがなくスケジュールをこなしたようだ。
 普段、テレビばっかり見て過ごしている僕にとって、久しぶりのいい日だった。
 いい日だと、明日からもっといい日が続くような気がする。


2002年7月16日
歌をおぼえる

 昨日からブノアにあるアストンホテルに泊まっている。ブノアは幹線である一本の道路から海までの距離が短いのだろう。大型ホテルが少ない。アストンホテルで大きい方である。
 ブノアはなぜか陽の光が明るい。ひなびた海辺の町の雰囲気がする。しかし若者にはマリンスポーツの基地となっている。
 ブノアから、レンボンガン島や他の島々とをつなぐ船が出ている。
 仕事の大半が終わったので、ゆっくりするつもりだった。久しぶりに歌を歌えるよう歌詞をおぼえ、メロディを集中しておぼえようとした。歌詞を見ながら歌をおぼえるなんて本当に久しぶりである。
 ひとつは、桑田佳祐の「東京」。もうひとつはヘレンメリルの「You'd be so nice to come home to」でジャズの曲である。「素敵なあなたのいるところに戻ってくるわ」という、スウィングっぽい昔のスタンダードナンバーである。 
 ピアノに合わせてジャズの曲を歌ってみたいという気持ちはあったが、どういう気分か、今のうちに歌詞をおぼえておこうという気になった。
 不思議なことなのだが、中学生くらいの時はメロディなどは一回か二回聞くだけでおぼえたものだ。
 今、桑田佳祐の「東京」のメロディを完全におぼえるには、10回以上は聞かなければならない。さて、この二曲をどこかで歌える機会はくるだろうか。ゴルフはやらないのですか、とよく聞かれるが、ジャズのカラオケはやらないのですか、とは聞かれない。
 30代の頃は夜、よく外へ飲みに出かけたものだった。35歳の時まで、音楽番組はだいたいチェックし、歌も結構おぼえていたのだが、45日程オーストラリアに行くことになって、これもなぜかわからないが帰国後、音楽番組をチェックしなくなったし、新しい歌をおぼえることもめったになくなったのを憶えている。
 どういう気分の起伏があるのだろうか。僕は、今度は一曲「ファド」をおぼえようとも思っている。調子よくいけば、次は「モルナ」の曲をもうひとつ。
 いつでも、どんな時でも、リスボンやパリでもニューヨークや六本木でも、チャンスさえあれば、バッグさえあれば歌ってしまおうと意気込んでいる。
 こんなことができたらいいなあ、と思うことが幾つかあるが、そういうことをひとつひとつやっていくのも楽しい人生だと思う。
 仕事とは関係のないところで、ちょっと楽しみをもつということがなかった僕の心の具合はちょっとした変化の中に入っているようだ。
 大きな契機のひとつに、バリ社会、バリ人についての不可解さや疑念のようなものがなくなったということだ。
 行動を起こし、考え、失敗し、喜び、苦々しく思い、様々な経験をするうちに、バリ社会やバリ人、法律や慣習、文化など総合的に「わからなさ」がなくなったのである。
 知らないことはまだ多々あるだろうが、不安感というものがなくなったのは、とても大きな出来事である。
 今回このことに気がついた。


2002年7月17日
願えば叶う

 願えば叶うものである。
 アストンホテルで、たまたまモンゴリアンナイトというディナーがあって、何のことやらと参加したら、並べてある野菜や肉、魚介類を選び、さらにスパイス、ソースも自分で選んで料理してもらうのである。これをモンゴリアンスタイルというのだそうだ。
 この中から自分で、前菜用、メインディッシュ用などを選び考える。味付けは自分の責任である。
 僕はたいそう気に入り、たいへん機嫌が良い。
 ついつい隣のドイツ人家族とも話などをしてしまい、5週間も休みがとれるのを羨ましいと思ったり、物価の値上がりで飛行機代が高くなった、というユーロの事情を聞いたりしていた。
 すると、ピアノに歌手が一人、歌い始めた。
 さあ、ここはなんとしても積極的に次の希望につなげなければならない。僕はハト胸の女性歌手のところに行き、「You'd be so nice to come home to」がわかるかと聞いた。残念、彼女はやれると言ったが、ピアノ奏者は知らないと言う。しかし、彼女の歌に一度合わせたら弾けると言うので、リクエストしたのである。うん、まあまあ無難にこなしたのだが、僕がもっているスウィングの調子とは違うのである。ピアノが弾んでいないのである。
 ここはあきらめて、食事に熱中し、僕はその間に良い案を浮かべたのである。
 僕が部屋に持っているCDプレーヤーは、スピーカーつきである。それでその曲をピアノ奏者に聞かせる。こういう調子だよ、このくらいのテンポだよ、と失礼ながら言わせてもらう。
 さらにチャンスがあれば桑田佳祐の「東京」のCDを彼にあげる。これを練習して来いよ、と言う。
 すると、僕は次回の渡バリで2曲歌えるかも知れない。一挙に昨日書いた日記の中での願いが叶うことになる。
 こういう面はバリ島は気楽でいいなあ。
 このようなピアノと歌手のパターンでやっているホテルは他にもある。ヌサドゥアビーチホテル、メリアバリ、グランドバリビーチ。
 僕はやがて、この三つのホテルでもデビューを飾ることになる。次回は「東京」をさらに三枚用意しておこう。みんなそんなに真剣には聴いていないだろうから、一曲僕が歌ってもまあ許されるだろうと勝手に考えて、自分で興奮している。
 ところで夕方、僕はこのホテルのエステに行ったのだった。肩こりとかない僕は、何が気持ちよいのかわからなくなっている。二年前はたいそう気持ち良かったのだが、脂質とコレステロールが減ってからは、マッサージがなんとも気持ち良くない。が、スチームバスに入り、バリニーズマッサージを受け、さらにボレを受け、フラワーバスに入ったのである。妙な気分だった。雰囲気はあったが、なんとも言えぬ虚ろな時間であった。言っておくが、アストンのエステが悪いと言うのではない。僕の身体の調子で多分エステに向いてないし、肌に関するこだわりもないのである。つまり落第。こういうことを言う資格がないのである。
 とこんな風に楽しい一日であった。


2002年7月18日
後遺症

不思議なことがあるものだ。
 今年でバリは3度めのTさんは交通事故の後遺症で、京都ではたいへんに身体が痛むのだそうだ。痛みと不快の毎日なのだが、バリに来ると全く痛まなくなるのだそうだ。
 同じ話を元カーレーサーの富永さんから先日聞いたばかりだ。飛行機が赤道を越え、バリに入ってくると痛みがとれていくのだそうだ。スタッフのアキちゃんも今後遺症に悩んでいるが、バリに来ると痛みはとれるのだそうだ。3人、交通事故の後遺症で苦しむ人がいて、バリに来ると、調子が良くなるのである。
一年ほど前、突然に足が痛くて動かなくなり、原因不明で日本ではどうしようもなかったところ甥に暖かいバリ島にでも行ってみたらと勧められて、10日程の予定出来たものの、痛さはなくなり、普通に戻ったので、もしも日本に帰ったら再発するのかもしれないと思い、ビザが満了するまでずっと延泊した60代の男性の話を直に聞いたことがある。彼は、バリ島は赤道の近くで一番に膨らんだ付近にあるから、地球の回転によって振り飛ばされる力が大きく、その分重力が余計かかるから身体の消耗も激しいのだ、と言っていた。早い新幹線や飛行機に乗っていてなぜか疲れると同じ原理だと言う。
その方は、3ケ月経ってから日本に戻り、経営していた会社は売り、すっぱり仕事もやめて、バリに移住してしまった。ゴルフ三昧の毎日のようだった。足の痛みもなく普通なのだから、日本で普通であったようにいずれ何かをしはじめるかもしれない。


バリの女性達になぜバリに来たら痛みがなくなるのか、ときくと「マジック」だと安易に言う。「バリは神がいっぱいいるから」と言う。「そんなことあるもんか」と僕が言うと、笑って、「まあそんなことはないだろう」という顔をする。 アグンが言う。「それは磁気だと思う。アグン山、ブサキ寺院、そしてバリの海は磁力が強い。メディテーションの原理と同じではないか。ピラミッドみたいな中に入って瞑想したりするのはそこには何か磁場が形成され、それがチャクラを起こし、身体を調整する。バリはその三角のピラミッドと同じで、強力な磁場を持ってるんだと思う」
僕は「ふ〜ん」である。と、アキちゃんはシンガポールでも痛くなかったですよ、と言う。とすると、暖かいところがいいのか、と思うが3人とも7月や8月でも日本では痛いというから、「あたたかい」ということだけではすまない。イダが、「赤道と南半球」というのが関係するのではないか。すると口々に、気圧が違うのではないか、月の引力と関係があるのではないか、と言いはじめる。
結局納得いく答えが得られないままである。
内臓関係には関係がなさそうである。これは僕が知っている。バリに来て胃や腸がよくなったという覚えはない。骨とか骨に関係する神経が関係しているようである。脊椎動物というのは北半球のほうが生ききづらいのでなないか。交通事故のような突発的な事故で身体に歪みが生じた場合、人間は自分を守るために南半球に戻りたがるのではないか、などとも思ってみる。ここでは人間は無理しなくてもよいからだ。植物のようにして居ることもできるし、ゆっくりと動けばよいし、身体が冷えるということもない。また何か大きな磁場のようなものがあって、絶えず、身体を調節していてくれるのかもしれないなどと思ったりする。
もしかしたらインドの医学、アーユルベーダとか、メディテーションの本でも読めばとっくに解決していることなのかもしれない。
だれか説明できる人が居れば、論理的に説明していただきたい。
インドとインドネシアバリ島は共にヒンズー教である。磁場でつながっているのではないかと思ったりする。なんとなくだ。
ジャムーという生薬もその考え方はアーユルベーダから来ているのかもしれない。チャクラやオーラという言葉は誰もが知っているし。今度その辺のことを調べてみようと思う。


事実は僕の知る限り現実の結果として4人の人が実証しているのである。
なぜか、だけである。


生物の誕生から現代までのものがすべてあると言われるインドネシア。
まだまだミステリアスだけれども整合性のあるものがあるのだろう。
「神々の島」などと呼ばれるのも案外、単に神の名が多いのではなくてその背景には科学では分析はされていないけど、整合性のある理由があるのかも知れない。


2002年7月19日
テレビドラマ

今バリでは日本のテレビドラマが大流行らしい。「エンドレスラブ」というそうな。5、6年前のドラマだと思うが子供を取り違え、やがてその子達が大きくなって、取り違えに気づき、と言う話らしく、毎日月曜日から木曜日夜の7時からは何をおいてでも見る、とコマンは言う。
日本のドラマをどう思うか、と聞くと、まず返って来た答えは、「ストーリーがおもしろい」であった。インドネシアのは、ワンパターンで、大金持の家族、家、がでてきて、恋愛があってといつも同様らしい。「他に違いを感じないか」と聞くと、「画面、ビデオの取り方が日本のは複雑でおもしろい」と言うインドネシアのはこれまたワンパターンで撮るところが決まっていて、画面も安上がりで工夫がないことを言いたいらしい。
「外国映画はどう思うか」と聞くと、「外国映画というのは殺し、アクションばかりで、喧嘩が強く、物騒で恐いと思う」と。「いや、本当はそんなことはないんだ。たぶん安い映画ばっかり買ってくるんだ。てっとり早く楽しめるのはアクションだから。それはあくまで嘘話で、素晴らしい映画もいっぱいあるよ」と説明する。それにしても三流のアクション映画が多いのは確かである。


  インドネシアは、ミスユニバースには参加するがミスワールドには参加させないのである。なぜならミスワールドはビキニを着なくてはならないものだからだそうである。このくらい、こういうことは厳しいものだから、テレビなどではキスシーンなどはないのである。セックスシーンなどは絶対厳禁である。だから海賊盤CDVが流行る。
テレビやラジオ、インターネットがある限り、情報を遮断することは難しい。
日本人の若い人の物の考え方もバリの若者の中に反映もされる。普通に生きている人のドラマも放映されるから、ドラマのパターンの目も肥えてくる。
一人で生きていく女性も知れば、互いに信じ合い、助け合いできる伴侶を持つことのありがたみにで夫婦というものを描くドラマもある。もうとっくに気持ちはさめていて、女性のほうが別の男性と仲良くする云々もドラマもある。
電波によって、人間がみな共通する気持ちと、今はまだ不思議だと思う気持ちなどが入り交じった思いを感じながらドラマを見ているのだろう。
10年前はテレビを持つ家は少なかったが、今はほとんどの家にテレビがあり、しかも両親の部屋、息子夫婦の部屋などと部屋別に持つところも多くなってきている。つまりこの20年で夜のテレビという娯楽が増えたわけで、いつか日本の居間のように、ご飯を食べながら黙ってテレビを見、食事のあと親父はこっくりこっくりと居眠りをし、兄弟はチャンネルの争いをする風景に変わるのは目に見えるようだ。
「今日はエンドレスラブがあるからセレモニーがなかったらよいのに」などとも言いそうである。
これで観光産業が順調に発展を続けたら、きっとまだまだそうなる。経済の力がつくと、個人個人の思いも増えてくるものなのだ。
やがて経済力がついてきて、家でも建てて、子供部屋でも作ることになれば、引きこもりの子供もでてこよう。受験勉強で子供の尻をたたくのもでてくるだろう。親は犠牲になっても我が子の希望はかなえさせてあげたいという親もでてくるだろう。
バンジャールやバリヒンズーの指導者はどのような道を指し示すのだろう。
一つ経済発展の阻害をするのは寺院である。寺院がある限り、サヌールー クタ, タバナンーヌガラーギリマヌク までの高速道、クターサヌールーデンパサールーウブド ーシガラジャ までの高速道などは無理だ。では地下鉄は?地下に住む悪霊ブタカラをどう解釈するかによるだろうが、気が遠くなるほど、困難なことだと思う。バリ島がさらに発展するには基盤となる幹線道路か、地下鉄しかないのは確かなことである。 このようなこともどう判断そいていくのだろう。まあ、僕が僕が生きている間くらいにはそれらのテーマは一度は俎上にのぼるだろう。さてどんな議論になるのか楽しみである。