No.12(2002/03/25〜04/07)

2002年3月25日
コンピャン

 何度も書いたことだが尾鷲市は三方が山一方が海に囲まれた小さな町である。そこに大阪での仕事の帰り、コンピャンが寄った。初めての尾鷲である。
 コンピャンはサヌールで生まれて育った。現在はブックツリーの建築のデザイナーをしている。本物のバリ建築の建築士である。
 桜が咲く時期だというので、暖かい季節だと思ったらしい。が、意外と日本はこの時期寒かった。
町を車でざっと案内しても15分かからない。駅から港までは車で信号機で待つ時間を入れても2分である。
 僕の自宅は港に近いところにある。
住宅も店もごちゃ混ぜになったところだがしずかではある。案内しながら思った。
 10m前に干物屋があり、50m歩くと魚屋、花屋、酒屋がある。ここから20m歩けば、歯科医が2件、整形外科医が1件ある。隣は銀行である。
銀行から30m歩けば、床屋、今流行のドラッグストア、服屋、雑貨屋、レストラン、中華料理店、喫茶店がある。
だいたいなんでもそろっているのである。
 市役所が運営する総合病院、体育館、文化会館、図書館があり、公園の中には天文台まである。
国道沿いには車屋、サラ金、CDや本やレンタルビデオ店、焼き肉屋、カラオケ、などがある。
 野球場は市営。テニスコートは4ケ所。桜の名所は2ケ所ある。
海では魚や貝がとれる。山では山菜が採れる。15分車で走ると淡水湖があり、反対方向には原生林もある。原生林を抜けると磯である。
 コンピャンに案内しながら思う。道もよい。車もさほど多くない。これはなかなか良くできた町だ、と今更のように思う。
夜、友達がコンピャンに尾鷲の町の感想を聞いたら、「完全に整った町」と言った。僕も思わずその表現にうなずく。
 彼はバイクを家族が手にいれるまで、母親の商売の仕入れを手伝うのに、朝2時に起きて、リヤカーを引いていた。バイクが買えるようになって起きるのが5時になった。
 こういう生活を大学に通いながらやっていた。


 尾鷲はバリと比べたら、とにかくインフラが整っているのである。電気の電圧はしっかりしている。バリは電圧が安定していないから電気製品が故障するため、なかなか買えない。道がでこぼこが多くて交通事故が多いし、渋滞となる。雨季になると下水から雨水が溢れる。電話代が高い、外国製品が高い。こういう基礎的な経済基盤が充実していない。
 「なんてコンパクトの完全に整備された町なんだ」とそう言われれば思う。コンビニだって3軒ある。
 ここまで整っていてなおも人口が減り続けている。昔、30年前3万4人あった人口が今は2万5千人。
 一方サヌールは一番最初のリゾート地として開発された地域だが。人口は増えると言っても減ることはない。
 「もしもうまれかわったら、尾鷲とサヌールのどっちがよいどな?」と友人が聞くと「やっぱりサヌール」と答えた。すめば都というのはわかる。しかしどうも社会基盤などのことで比較はしていないのである。「のんびりしていて人が行き交って、困った時は助けてくれる人が多くいて、自分は、子供が30才になるまでは責任もって働いて、引退する。引退後は自分の好きな絵を書いて暮らしたい。プライベートに日々を過ごしたい」と言う。mmm。
 「オレよりえらいやっちゃ、」と思う。僕らは考え過ぎてる。個人に執着がありすぎる。個人を前面にだすと、他者が認められなくなったらり、他者との差異ばかりを気にするようになる。
 コンピャンは「これを食いたい」と主張もしない。「みんなが食べるものを食べるから」と笑って答える。食への関心はそれほどない。「寒いとお腹が減る」と言う。
「寒いのは苦手だ、たいへんだ」と言う。
好奇心もそれほどムキだしにしない。
 ジャスコで妻へのみやげだと「アクエリアス」というスポーツドリンク20本を買った。「持っていくには重過ぎやしないかい」と聞くと、「妻が砂糖が少なくて美味しいと言って、また買ってきてくれ、と言うから」と笑って答えた。思いものを持っていくのもなんともなさそうな感じである。さしずめ僕なら「重いから軽い指輪ですましておこうと考える。mmm。勉強になるな、と思って、尾鷲を、また自分自身を客観的に見ることができた。
 バリにいるバリ人と日本にいる時のバリ人は違う。こういう風に居る場所の立場から物事を見直すのもなんとなく謙虚にうけとめてコンピャンの話が聞ける。
 新しい体験だった。


2002年3月26日
甃のうへ

  福岡ー名古屋ーデンパサールという路線になったおかげで前泊せずともよくなった。
朝 7時8分の南紀特急に乗れば空港には10時10分に着くことになる。とにかく尾鷲はアクセスにおいては不便なのだ。福岡からの客が増えたからなのか、春休みに入ったからなのか、ガルーダ889便は満席である。


 機内で何を読もうか、今回は「教科書で出てきた詩」を持ってきた。僕はいつも新学期の4月だけは今年こそ勉強しようという気になって授業に集中するのだった、国語において詩が教科書の最初登場する。
やる気いっぱいだからその頃の詩はよく憶えている。


甃のうへ   (高1)   三好達治

あわれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂々に
風鐸のすがたしづかなければ
ひとりなる
わが身の影をあゆます石のうへ


 あの頃の僕はまだ16歳だった。桜が満開となった日に尾鷲高校に入学したのだった。
尾鷲高校の桜並木は中学校の味気のなさとは違いもっと大人びた世界のように見えた。少し年を先にいく上級生たちがひどく大人に見えるのだった。


 一瞬に時は16歳に戻りこの詩を感じた時のことを思いだしてみる。春の寺で華やいだ女子たちがざわざわと語らい歩む風景を作者はうらやむように、自分の孤独を感じる。このとき視線が甍のほうに移るのだが、その情景が最後のところで叙情に転化するのである。
この詩が好きかどうかではなかった。新学期のやる気まんまんだけが先生の解説を聞かせ、ノートにも写し、この詩をいつまでも憶えているものにしたのだと思う。おぼえさせるリズムのようなものもこの詩は持っていたし、何かしら情景の描写から浮かぶ甍や娘のイメージに明暗があった。この詩を引き締め読みごたえがあるものにしているのは視線がとらえる情景の明暗だと思う。


 まだ飛行機に乗って3時間。隣に座っているあのヨクボシコキの山下さん(僕のバリ日記「バリアン」で出てきます)に異変が起こった。
心臓が苦しくなり、圧迫感を覚え,脈拍が乱高下している。血圧も乱高下している。
彼はすぐに救心を飲んだ。


 キャビンアテンダントを呼んだ。すると機内放送があり、「医者が乗っていないか」を聞いている。と、すぐ日本人の医者が来てくれて、脈をとる。僕は簡易血圧測定器のデータを見せる。命に別状はないと判断され、彼は席を移動し、安静にすることになった。


 僕がどん底の時に、暖かく手助けをしてくれた人だ。青春時代からはるか遠くへきてしまった僕らだが、いつかニューヨークにまったくの趣味で寿司バーでもつくり、ジャズでも歌ってと、たわいないことを言って、やろう、よしやろう、と笑っている二人である。心臓が不調だと身体が不安感でガクンと不調になる。
バリまでまだ4時間ある。


 バリ到着前、調子を取り戻した山下さんはお医者さんのところに挨拶に行った。
「エコノミークラス症候群ですよ。お腹いっぱい食べたあと起こるんです。狭いところで身体を動かさずにいると起こるのです」
 新聞やテレビなどの紹介でこの言葉は知っていたが、我が恩人にそれが起こるとは。
老齢に入れば身体は自分の管理次第となる。空を飛びたかったら、それに耐えうる血液と血管でなければならぬ。でないと行動の範囲は縮まる。勢い、頭の中の想像力だけとなる。頭だけなどというのは頑固でどうしようもないものだ。
 到着後、山下さんは一人旅の若い女性相手に自慢話に一人で花を咲かせていたが、その後、絶不調となり、肩は凝る、首は凝る、ついに寝ようと席をたったとき、息子の雅弘さん(彼は整骨院などをやっている)がやってきて、プロのマッサージをしばらく受けたのだった。


 頭の中で青春時代が過ぎ去り、現実は老いという問題がすぐそこで起こり今回の旅はなにやら波瀾含みかな、と思った日だった。


2002年3月27日
税金、銀行、経済

 山下さんが体調依然不調で、息子の雅弘さんが仕事を途中で打ち切り、付き添いになって日本に帰ることになった。
 山下さんはこれまでお金の世界で闘ってき、その勝ち抜きに残り現在にいたっているから、今度は健康との闘いになる。それは自分自身との闘いとなる。
 本人は内心ショックだっただろう。こんなはずはない、と思ったに違いない。突然に心臓が締め付けれられというのは尋常ではない。


 さて今日は山下さんも不調の中、銀行に行ったのだ。昨日は決算報告の分析を徹底的に行い、テロ以後の影響とテロ依然を分け、資金の流れを追ったのだった。
インドネシアの経済を 一外国人から見てみる。
 定期貯金は3ケ月、6ケ月定期とも年率14.5%である。普通貯金の利息はやや下がり9%である。普通貯金で100万ルピアで抽選券1枚がもらえ、抽選でBMWなどがあたるというキャンペーンをやっている。これが人気でBNIの普通口座に人は集まるのだそうな。
 金利から見るとひどいインフレである。借りる側は月率で2.5%。年にすると39%だから日本の町金融よりも高い。
 インドネシアは会社で言えば銀行の管理下に入っているようなもので、他国からの援助なくにっちもさっちもいかない状態が 経済危機以前から続いていた。それが明るみになったのがスハルト政権の崩壊であった。
 内に民族問題を抱える。更に人々の内に、国民、市民、という法の下では平等で個人も尊厳され、民主主義をおしすすめていくためのいくつもの意識の問題がある。
 交通事故の少ない道路を税金が少ないためか、どこかで消えていくためか一向に安全な道路はできない。電気の電流と電圧が一定でないため、電気器具がこわれやすい。そういう社会のインフラの整備が一向に進んでいないのは、税金とその使い方の意識の問題である。人は言う。「税金なんか払ってもそれが道や発電所になるのではなくて誰かの懐に分配されていくんだ。税金など払わずにみんなで分けたほうがいいんだ。」こういうシステムと意識ではインドネシアの発展はまだまだだと思わざるを得ない。デフレ下の日本の商品のほうが安いものも多くある。
 こうなると、より安い商品をと輸出は難しくなってくる。中国のように人件費を意識的に押さえ、対外競争力をつけていこうとする政策もやがて破綻すると思うが。
 僕がかかわり始めてそういう3年はインフレで推移し、他国の管理下で生きているインドネシアが続いている。
 インフレである限り、お金の値打ちが下がり、物の値打ちは下がるのである。
 まだしばらくこの状態が続くだろう。


 銀行はまわせるお金の量が不足しているから金利は高いのである。
2003年にインドネシアは経済危機以前に経済状態が戻ると発表している。
 
 国というものを考えるとき、いつも不思議に思うことがある。会社は倒産をし、新たな会社が現れ、人はその過程で生き、死にをくりかえす。国は政権は倒れても国として存在し、その中で人々が生き、死にしたとしても結果としてやがて大きな成長を果たすことも、ありえる。
 当面インドネシアは他国の手に委ねられた瀕死の倒産寸前前の状態である。
これは当分かわりそうもない。
  嫉妬、恨み、呪い、互助、儀式、バンジャール(村の自治会)、階級と不均一な平等意識、明日食う為のお金、子供への愛。
  金利がせめて8%とか5%になり、貸し出し金利が10%とか、9%になってきたら、成長への段階に入るのだろう。そうなってきたとき、大きくこの社会の持つ意識は変わっていくのだと思う。 
  で来週、苦渋なる税金をガバッと支払うのである。どこへ、どう使われるのは報告がほしいものだ。


P.S. インドネシアでは観光客でも定期貯金ができたのだったが法の改正でキタス(在留許可証)がないとできなくなった。


2002年3月30日
ププタン

 バリ人を理解する上でちょっと複雑な話から始まる。
ロイはブックツリーで働いていた。笑顔がよく、明るい良い青年だった。そのロイが同じブックツリーグループのヤーマの女性スタッフと結婚する仲になっていたのを僕だけが知らなかったようだ。


 バリでは同じ会社で夫婦が働くことはタブーとされている。ブックツリーとヤーマとは完全に別会社であるのに、ブックツリーがコンサルタント、運営する会社だから、一緒だと思ったのだろう。


 ブックツリーの方を、シガラジャの叔父の商売を手伝うことになったので辞める、というわけだ。あれだけ話しあった就業規則もくそもない。また上司もあっさりしたもので、「一人分の給料がうくのだからいいんじゃないか」と思っている。
辞めてから1ケ月後結婚となった。同僚達は結婚式に出席した。


 二人はきっと夜な夜な相談をした。
「ヤーマもブックツリーも給料はよい。お前は女だから、あんなよい会社は、辞めてしまえば2度と就職できない。オレは男だから就職は女よりも探しやすい。お前は辞めるな。いいかい。そうしよう、うんそうしよう」と
(これをシガラジャ弁で表現できたらおもしろいのに)


それから2ケ月経ったある日僕がバリに行くとロイがブックツリーにいるのである。
「モトキさん、コンニチワ。今、ジュプンバリのドライバーをシテイル」と笑顔でいう。
「なにー? 本当かよ。」
「おまえね、なんで、結婚前に一言いわなかったんだ」
「恥ずかしいから言えなかった」
「で幾らもらってんだい。35万。」
「ブックツリーの時の半分じゃないか」


ジュプンバリとブックツリーは提携していて、エステ・デ・マッサの車送迎を委託しているのである。その運転手としてジュプンバリに雇われたのである。


それで今日の話である。インペリアルホテルに用があって、ロイに運転をしてもらった。着いてから「エステ・デ・マッサ」から呼び出しの連絡があるまではここで待っててよ。呼び出しがあればその時は僕に連絡しろよ。」と言い残して僕はホテルに入っていった。
 帰り、ロイがいない。探したがいないので、呼び出しがあったんだろうとホテルタクシーを使った。
 夕方、「モトキさん、マッサから呼び出しがあったので帰ってしまった。」と照れ笑いしながら弁解する。僕はレストランで商談をしていたらしい。経験にない独特な雰囲気の中に割って入れなかったのだ、と言う。本人は笑っているのだから怒る気にもなれない。
 そこはかとなく子供っぽい。


気後れ、遠慮、恐怖、しょうがない嘘、バリ人と外国人の人間関係の中に多くある。
これが一人の場合、ただ怖気づくだけである。そのとき、ただただ人に迷惑をかけるとか、自分が信用を失うとか考えないのである。
 僕らの方に上下の意識などなくても、バリ人達は勝手に上下意識をもってしまうから、思いがけないところで異和感がある。この意識が気後れさや臆病さを作るのである。


  去年の話である。ガルンガンがもうあと1週間である。社長である僕はは知らない。その日レストランはどうするのだろう。開店したばかりだ。お祈りはしたい。誰もガルンガンの日はどうするのか、聞かない。ミーティングの席で社長が何か他に連絡事項はある?と聞くがだれも言い出さない。個人的にも言い出せない。仕事に不真面目だと思われたくない。
 そして、みんながそれぞれ思いの限界まで来たとき、全員で言い出すのである。
それも前日の夜にである。いわば一種の「PUPUTAN」である。
PUPUTAN とは最後の堪忍袋の緒が切れて全員で死をかけて闘う。これで最終だ、祖先もクソもない、民族としての滅びをかけて闘う概念を言う。
  バリ人達いつもこのような小さなププタンをやっているのだ。
初め、ハイハイと良い返事をする。わかっていなくてもする。ここがミソなのである。初めいいかげんに返事したことを反省するでもなく、その後、積み重なってくる矛盾に最後には耐えられなくなって、なんやかやと言い出すのである。
「初めから、言っておいてよ」と言いたいが、こればかりは、3年たっても変わらない。そのことを知ってすべてを進めなければひどい目にあうのだろう。
 これがバリ人の解決のしかたなのである。そして結論はどこかに収斂されていく。収斂の場所が日本人だったら、日本人はプッツンする。


これは平均的バリ人の行動パターンなのだが深い深い話なのだぞ


2002年3月31日
インターコンチネンタル ホテルのこと

 プールで両耳を水面下して仰向けになって浮かぶ。すると自分の呼吸が水に響いて大きく聞こえてくる。普段自分の息は聞こえないものだから、こんなに激しい息をしているのかと思う。この音を聞くたびに僕は映画「卒業」を思いだす。主人公は自宅のプールに浮いていた。あの呼吸の音を思えば録音技術者はどのように録音したのだろう。
 今回は途中で中休みをとることにした。ジンバランのインターコンチネンタルホテルでゆっくりすることにした。どうしても仕事場付近にいたら休まらない。思いきって、完全に仕事から離れた。いつものことだが6日してくるとバテるのは目に見えている。
 リゾートホテルに一歩入れば別世界である。
 ビーチにあるバレの中で写真集を見る。時々波打ち際や遠くの海、島を見る。左手方向の半島はたぶんフォーシ−ズンだろう。右手の半島は飛行機が着陸しているのが見えるからクタのほうだろう。ジンバランの波の音とレギャン、ヌサドゥアは違う。
もっとも安らぐ波の音はヌサドゥアである。レギャンはやや波音が大きい。ジンバランのは波打ち際の20mくらいのところで突然に音を立てる。
 写真集に飽きるとプールで泳ぐ。プール端と水平線が重なっている。大型ホテルは調度品、インテリアが楽しい。朝歩いていても気がつかなかったものが夜、気がつくこともある。こういうところまで、こだわってインテリアしているのか、と感心する。今は仕事柄、インテリア類、レストラン関係、建築関係にどうしても目がいってしまう。間仕切りの鳥を彫ったデザインには感心した。どのセクションもプロのデザイナーが考え尽くしている。ドア、天井、廊下においてあるもの、どれも興味深いものだった。いつか自分がホテルをしたらなどと思ってしまう。
 もうすぐ雨季が明けるが、既に雨は降っていない。湿気も少なく暑すぎることもない。
 今回は初めて日本で携帯電話を借りて持ってきた。いつも使っている自分の番号で使えるので便利である。日本からでもいつも日本でかけてもらうように、090 **** **** をかけてくれれば僕の携帯のかかるようになっている。その代わりバリ島内でかける場合一度日本を経由することになる。
 リゾートでくつろぐには本当にバリ島は良いと思う。日がなホテル内でのんびりし、夜はレゴンダンスを見た。それから食事をしたが、シーフードレストランでは1日目はリンディックを奏でていた。2日目はギター演奏、プールバーでは珍しいバリの木琴(竹製のリンディックではない)の3重奏をしていた。
 朝食は多種多様でサービスが行き届いていた。マンゴスチンもあったし、これまで経験した朝食で一番良かったような気がする。
 これまで幾つものホテルに滞在したが5つ星の大型ホテルの中では抜きん出ていた。
 惜しむらくはホテルの入り口にインパクトがなく、ロビーの明り取りがやや狭く、ロビー全体がやけに暗いことである。趣味の問題といえばそうだが、ビジネス的に言えば、もっとも外来者が見るところであり、僕だったらもう一工夫すると思う。


2002年4月1日
個人主義

 人間は絶えず二人以上でいることが本質的で、自然のあり方だとしたら、近代以降重んじられてきた個人主義の考え方を点検する必要がある。  バリの女性が赤ちゃんを産む。母親は個人ではなく二人以上と存在しているからエゴが希薄である。いつも近くに誰かがいるから用事があればちょっと世話を頼める。だから、女ひとりとしてのエゴ(というか思い)と赤ちゃんの世話をするということは互いに逆方向に分裂しないで赤ちゃんを育てることができる。
 赤ちゃんが乳をほしいと泣く。私は今テレビドラマの一番のクライマックスを見ている。こういう分裂である。
 この分裂の極限が虐待である。バリならこれはまずあり得ない。いつでも人が近くにいるからだ。
 バリには個人という尊重されるべき概念が希薄であるのと同様に「他人」という概念も希薄に思える。時々、自分と他人を混同している場面もある。
 人からの恨みや嫉妬はとても気にするが、他人を他人と思うのではなく、自分と同様に人がそこにいる。植物や動物がそこにいるように人がそこにいる。そしてその中でも「人」が一番厄介な存在であることは知っている。おそらくこういう感じである。
 一人でいる時間がほとんどないバリ人は日本で一人アパートで暮らすということがいかに恐ろしいことか知っている。一人でいることが自由きままになれる、邪魔はされない、何を考えてもよい、規制がない、と思わない。不自然だと思う前に恐怖なのである。
 日本でもこのような段階があったのだと思うが、個人の尊厳が教科書で唱えられ、経済の発展とと共に、人間関係のあり方が変わってしまった。今は病的な人間関係の社会となっている。「病的」というのは「エゴ」が丸出しにされて、それが保護される形で基本としてあり、そこから人間関係を求めていくという関係のありかたである。 隣近所の人との関係は避けながらネットでのグループに入るとか、自分の趣味をより満足させるために趣味の会に入るとか。意識して自分の都合のよい人間関係を求める、という風である。
 すべて「わがままきまま」の裏返しの「寂しさ」とか「孤独」から「他人」を求めるという風になっている。
 別段に、バリ社会を絶賛したいのでもない。恐らく息苦しい場面も多いに違いない。
 コンピャンが日本に来た時、「バリと日本、どっちがいい?」と馬鹿な質問をした。コンピャンは「いつも周りに人がいて助け合えるバリのほうがいい」と言った。
 個人が自由な意思で振舞えるそのおいしさをコンピャンは知らないのだろう。
あるいはこれは相当な毒だと気づいているのだろうか。
 日本社会は90%が中流階級意識をもった人々で構成されている。この90%が自分たちは正常だと思えば正常であろうが、どこか別の場所から見ればみんなわがままな神経症であり、人間関係は「不安恐怖症」に陥っているように見える。
 個人の自由をはっきりと意識化し、その問題点を認識し、そして自分の足で立ち、しかも他人という個人を尊重して個人主義は成り立つのかもしれないが、そんなものは幻かも知れない。


2002年4月3日
食事にさそえば

 バリ人を食事に誘うとがっかりする。が懲りずにまた誘うのだが、まず習慣としてバリには食事をしながら談笑する、お酒を飲みながら、話をするということがない。
 もちろん外国人と食事をする場合、言葉の問題もある。
 もしかしてたえず上下関係を意識しているからそうなるのか、と思ったりするがそもそも食事とは唯一バリ人が一人になる時間である。だいたい10分ほど。
 レストランのスタッフを他のレストランに連れていく。ビールを飲むか、と聞くと、コーラとかファンタとなる。こっちはがっかりする。好奇心を旺盛にして、アルコール類などとの味のとり合わせや、デコレイションのしかたなど研究してほしいと思うのだが。
 ヒンズー教の影響もあろう。共同体を蝕むものが酒である、という考え方もあろう。またお酒や贅沢な食事にまで生活費を回せないという事情もあるかもしれない。
 レストランと関係のないスタッフとなると、ちょっと自分たちが見たこともないものがでてくると顔をしかめ、気持ち悪いを連発するから、2度と連れてくるかよ、と思うのである。
 人は一人ではない。常に二人以上であることが人だという風にあるバリ人たちはことさら場を設けて食事をする、人とある場所で約束をして、自分のスケジュールをいっぱいにするというような不安恐怖症的なところがない。
 儀式にはお金を費やす。自分や家の通過儀礼、血縁、地縁の通過儀礼、友人、会社仲間に使われる。この頃はそれらをお金で買わなければならない。
 資本主義的な拡大再生産がそこにはない。成り物を神に捧げ、それが腐ってしまうか、他の人に分配するか知らないが同じことを繰り返しているだけである。
 拡大再生産と言えば、豚や鶏を家の中で飼い、子供を産めば売れ頃に売って生活の足しにするということをしてきた。1匹が数匹もの価値を産むのである。
 この頃では、一部お金を銀行から借りられる人が、車を買い、レンタカー会社やトランスポーテーションの事業主に貸すという利殖法をしている人もいる。
観光産業に側面から貢献しているわけである。すると様々な職への波及効果が及ぶ。
 車の整備関係、部品関係、ガソリンやなど。


 話がそれてしまった。
 早い時期から自立を迫られる西洋人。自立とは一生無縁であるようなバリ人。
その中間点にいるような日本人。比較をしてもせんないことだがつい比較をしてしまうのである。


2002年4月5日
名義貸し

バリ島でビジネスをしていく上で、あるいは売買に関して、基本中の基本、大原則は「他人名義を使わないこと」である。
 最終的に、他人名義にしたものは、たとえ自分がお金をだしたものであっても、公証人事務所でその旨の公正証書をとったとしても、それは誓約書どまりのことで、実際裁判になると、時間、費用、手間がかかり、弁護士、相手方の弁護士、裁判官も暗躍しだし、裁判をやりとおすことができなくなることが多い。
 正しくは名義を貸したものの所有物であるのだから、そう登記しているのだからしかたがない。何を言おうと文句を言う法律はない。
 裁判になるまで、惨憺たる過程がある。ビザを持っていないことが従業員に知れる。従業員はそれをだれかに言う。そんなところから、こういうことに手馴れた人の耳に入る。バリに来た時、入管もビザのチェックをする。情報もすでに入っている。「入れない」と入管で言われる。それで緊急に知り合いになんとかコネをつけてもらってお金を払い、入れてもらう。だんだんと会社も本当の名義は本人、オーナーのものではないことが知れ渡る。お金がひらひらと舞っているようなものだ。
 するとこれは他の者から見れば、安くたたき、買えるチャンスの到来である。バリ側のほうはこれに成功すればみんな儲かる。そこを使って事業をしたい人は安く買える。名義を貸していたものはリベートがもらえる。関係してくるものはだれであれ、利益を得ることになる。
 簡単なことだ。バリにその日本人を入ってこれないようにすればよい。もともと違反しているのだから、ということである。これはもうどうあがいてもダメである。


 ではどうするか。1つ方法がある。自分が代表取締役で日本人だけで外国人法人の会社を作る。そして名義を貸してくれている人と仲のよい状態のうちに、これではやっていけないことをきちんと話し(代理人でもよい)手切れ金(お礼金)の代わりにその名義人の会社から不動産、設備などを安く20年とか30年契約で借りる。借りてしまえば、名義人は売れなくなる。新会社によって正当なビザを発給してもらえるあるいはこの際に、不動産、設備とも買いとってしまう。
 整理屋やブローカーみたいなのが入って来ないうちに一連の作業を進める。さっさと進めるのである。
 実行するのに資金的な体力がないということもあり得る。つまりもう投資できる資本がない、と言う場合だ。
 この場合はやめること、撤退することを決心する。それを信用のおける日本人に貸す。(また貸しする)。この場合は契約書も生きてくる。あとで新会社に返してもらう。バリには譲与税とか相続税はない。
 バリ島で日本人が経営をして儲けるというのは至難の業である。基本は 法をきちんと通過しておくことである。くれぐれもご用心を。名義人は明日にも突然死ぬかもしれないのである。


2001年4月7日
アグン山の近くまで

 レストランの女性スタッフが結婚をするというので、式に参加することになった。いつも髪をきれいにして英語も話すしっかりもののコマンである。
本人は「カラガッサム、チャンディダサのすぐ近く・・3時間」とか言ったものだからすっかりその予定でいた。ところがチャンディダサを過ぎてもなおも車が走る。彼女が嫁ぐ家は チャントゥン バトゥリンイト(Cantung Baturingit)にあるのだそうだ。
3時間どころか、チャンディダサを越えて、テガナンを越え、聖なるアグン山を左手に真近に見えてくる。地図などはないからどの辺にいるのかわからない。アグン山のすそ野は潅木、せいぜい3mほどの木のジャングルが広がっている。そのジャングルの中を車は腹をこすりながら進んでいった。3キロほど走ったところで、バイクに乗った男がやってきた。聞くと、すぐそこだと言う。バナナの皮で作ったゲイト、それにペンジョールがある。彼女が嫁ぐ家だ。
 近所がない。一軒の家だけである。近所はと聞くと1kmとか3km離れているのだそうだ。彼女の夫になる男性はここで育ったのである。
 ブロックで作った2間ほどの家、庭に貯水のセメントタンクが3つ。あとは庭である。今日は結婚式の準備で、遠くからバンジャール(村の自治会)の人や男性側の親戚などが集まり庭で食べ物などの準備をしている。椰子の実の果肉のところをとる人、それをスライスにする人、粉にする人、豚の血、細切りにしたゼラチンのところなどをまぶし、ラワールを作っている人。別のグループはサテ(串焼き)を作っている。カメラを向けると男も女も子供達もきゃあきゃあ騒ぐ。しかし仕事は淡々とやっていく。
 家の回りを見渡しても、農地として何かを栽培しているようには見えない。売れる果物や野菜に適さないのだろうか。アグン山は豊富なすそ野を提供してくれなかったのだろうか。叔父さんとい人に聞くと、成り物をとり、鶏を飼い、豚を飼う、海が近い(近いと言っても10km以上はある)ので昔ながらの塩田をする人が多いのだそうだ。
若い人は都会にでていくだろう。コミュニティーさえもなく、一家だけがぽつんとあるのだから。それほど苛酷な条件の場所に違いない。
 シェフのバワやライの出身地であるバカス村も小さな村だったがそれでもコミュニティーがあった。人がいた。集会場があり、人が集まって闘鶏を楽しみ、人が通りを歩く、というような村の風景があった。
 ここにはそれがなかった。たぶんここを開墾する前に、観光産業が若い人たちを吸収してしまったのだ。
 子供たちは都会へ出て行ったから、両親二人がいるだけである。
 花嫁の家に行き、無事貰い受けて来た花婿が花嫁コマンと共に現れた。花嫁側の親戚の方々もいっしょにやってきた。
 コマンも初めてこの場所に来たのだそうだ。
 特に暑い日だった。結婚式のためにか、間に合わせのテントを上手にバティックで作っていた。ところどころ天井から紫、青、緑、黄、橙、赤の紙テープのようなもので、飾っていた、虹の7色だが、チャクラの7色でもあるので、どういうことなのだろう。偶然かな、などと思い、庭の自家寺院は金と黄と白のソンケットで飾られていた。
 式は二人だけで順を追ってやっていく。
 バリ島では僕の知る限りほとんどが「できちゃった婚」である。子供を産むことが最大の妻の努めという考え方がある。
 誰が着飾っているわけでもなく、儀式の時のクバヤを着ている人、普通のTシャツを着ている人いろいろだが、親戚など関係者はそれなりの身だしなみである。
 食事をよばれ、本物のアラックをいただいた。花嫁の両親とお兄さんにお祝いを述べたら、「ワヤンがお世話になって」という。「ワヤン? ワヤンってどのワヤンですか」と聞くと、日本に行っているワヤンだという。 「 ??? プジャナのことですか?」「そうです、プジャナです。」「ええ、コマンとプジャナは兄妹なんですか」
 どうやら二人はバリの慣習を破って、二人が兄妹であることを隠して入社したらしい。う〜ん。堂々と言えばいいではないか。周囲の目をそれほど気にしなければならないのだろう。仕事を得るには、兄妹じゃない振りをする。それで誰にも言わずに秘密にしてきたのだ。それが今日、ひょんなところからバレてしまった。
 嘘っぽいスピーチもなければ、長々と自慢話をする人もいない。ごくごく普通の結婚式なのだろう。それでも、コマンの父親は、一人娘を嫁がせるのが嫌らしく、いまだにすねたり、泣いたりで、結婚式にもでてこないのである。
 二人は披露宴をしたあと、デンパサールのアパートに住む。核家族がひとつ誕生する。
結局往復8時間の車中でかなり疲れた。その夜、バリを発った。