| 2001年10月1日 バリ着 ガルーダの機内誌で昨年の日本人観光客は過去最高で34万8千人を突破した、と紹介されていた。オーストラリアからの旅行客が長年トップだったが、今は日本がトップである。 関西空港のチェックインカウンターで、テロの影響はありますか、と聞いたら、ありません、ということだった。機内では空席が20ほど。 今回の渡バリでは、 (1)緊急時のルール作り (2)大阪店の料理点検 (3)仕事上の問題点の原因究明と解決そして合意 (4)いくつかのホテルの部屋を細部にわたり写真に撮ること (5)バランシングオイルを開発すること (6)来日するバリのスタッフに日本での生活等レクチャーすること (7)家具を見てまわること (8)メルマガの新シリーズ「バリスタイル」の取材をすること (9)長期滞在型の「ヴィラウタラ」をオープンさせること (10)スタッフの養成 が課題である。これらすべてを9日間でするのである。 機内誌にナシゴレンとサテが出た。 窓を見ると青空が下にある。その空にポツポツと雲が浮いている。 学生の頃、僕らが目に見える空の上にまた空があって、それが本当の空なのかも知れない、と思ったことがあったが、空の上を飛んでいることは想像しなかった。 全くの青空である。しかしこれは海のはずである。本当は海はスカイブルーなのか。 僕には中学校や高校で学ぶような理科の知識などはないものだから、なぜ海はスカイブルーなのかがわからない。海は空でよいような気がする。そして僕は空と空の間を飛んでいる、と。 ある時代が確実に変わったと思ったのは阪神大震災とオウムの事件だった。今回のアメリカ多発テロ事件で、時代が変わった、という人が多いが、僕は阪神大震災とオウム事件の1995年だと考えている。突然に近代都市が壊滅した。そして突然何の関係もない者がサリンで殺された。この二つが交じったのがテロ事件であり、世界はあの時から新しい不気味な時代に入っていたのだ。 バリ島でバリ人たちに語るべき多くのことがある。もしもパキスタンの現政権が倒れたら。もしもアフガンの北部同盟が活発化し、パキスタンとも戦争状態になったら。ロシアが北部同盟を支援、アメリカもそれに乗じたら。イラクが何かをしたら。イスラエルが何かをしたら。インドネシアの過激なイスラム教徒が何かをしたら。混沌とした戦いが始まり、宗教戦争の様相を帯びるかもしれない。 こうなった時、バリ島の観光業は閉鎖に追い込まれるだろう。インドネシアではすでに聖戦参加の登録者が3日で500人を越え日々増加している。 前回来たのは7月の下旬だった。バリ島はやや蒸し暑くなっていた。クタはいつもより観光客が多い。 事務所につくと、ビデオ撮影で来ている古屋敷さんが痛みを伴う下痢でSOSに行ったという。聞けばたいへんなスケジュールで、これに同行したアキさんなどは毎日睡眠時間が2〜3時間程で、バリ島の運転手たちもそうだと言う。古屋敷さんもはりきりすぎて身体が弱ったのだろう。バリでは8日を過ぎると疲れがでると、バリ日記にも書いたのだがなあ。 打ち合わせをしていたら、ロンボク島の近くの小さな島ひとつを25年間借りたという男性が会いたいといってきた。トランスというジャンルの音楽をするのだそうだ。トランスパーティー参加者を集めたいため、インフォメーションの基地としてレギャンあたりにトランスの店を開きたいのだと言う。ふ〜ん、変ったジャンルの音楽もあるものだ。トランスか、トランス状態になる音楽なのだろうか。 夜中の12時頃、部屋にいたら、入国管理局だ、パスポートとキタスを見せて欲しいと部屋にやってきた。 「なんだこんな真夜中に」 「いやオレたちは24時間いつでも仕事だよ」 たまたまKITASの切り替えのため、空港でイダにパスポートとKITAS等を渡してしまったのだった。私服を着、ぞうりをはき、タバコを吸い、これが政府の係員かと思う。 「身分証明書をみせてくれる」 と言うと、身分証明書やら、なにやら勲章みたいなバッジの大きいのを見せてくれた。 「イダに今日ビザ切り替えのために渡してしまったから、イダが持っているよ」 と言うと、電話をかけろ、と言う。 「こんな真夜中にかい。ちょっと無神経じゃないの」 「いやオレたちは24時間仕事さ」 で、イダとその男たち(三人いたのだが)が話をし、明日の朝、見せるということになったらしい。 金にならなかったことを照れ隠すかのように急に握手を求めてきて、こういうところはやっぱり不気味である。 もうひとつ大きな話があったけど、ここには書ききれない。日本人の女性とバリ人の男性の悲哀の話だけに書けば長くなる。 一日はこのようにして終わった。明日からほどほどの調子でやらないとバテる。それだけは用心してかかろう。 2001年10月2日 神 僕は神と向かい合ったことがない。何かにひれ伏すという経験もない。 自意識を捨てることも出来ねば、自意識を神にする寄せることも出来ない。 今日、万が一、バリ島の会社を一時閉鎖しなければならない時の対応のしかたを話し合っていた時、四歳とまだ一歳未満の子の母親であるダユはポツリと初めてその話し合いの場で言った。 「お祈りができて、食べていける生活、それだけあればいいのよ」 バリ人たちの大半の気持ちかもしれない。またそれは、イスラム教の人々であっても、キリスト教の人々であってもおそらく同じような気持ちであるに違いない。 自分というものを神にあずけてしまう。ぼくにはそれができないから、自分と向き合うしかない。自分で自分のことをいくら考えてもわからないから、そして〈わからなさ〉というのは〈不安〉を生むから、僕のような人間は自分を自分にあずけるしかない心の状態で日々送っていくことになる。 バリ人たちには自分を預ける神、自分をあずける共同体があるから、それ以外の何かに身を委ねたいとあれこれ思う必要がないのかも知れない。 あれこれ思う必要のある僕のような種類の人間は、ややもすればあれこれ思う気持ちが次第に一つの方向に向かい、ようやくめぐり逢えた場所で自分を燃焼させるか、あれこれ思いながら次第に年老いていくか、どちらかなのだろうが、僕は今のところ後者側に属する。 神を持たない人間は、どちらかを歩むしかないところがある。 「バリ人はお金イコール幸福だと思っている人が多い」という人がいる。 「バリ人は好奇心がない」という人がいる。 「バリ人は明日のことなんか考えない」という人がいる。 これらの言葉は当たっているように感じる時があるが、本質的ではなく、核心でもない。経済的な事情によるものだと考えられる。 彼らは、まさに神がいつでもそばにいると感じて生きている。お供えをする時の敬虔な顔つきも、聖水をかける手の仕草も、ただ単に習慣でやっているものではない。その姿は美しくさえある。 僕の方は、その時の彼らの心のあり様がわからない。宗教教団はどうなれば、個々人の求める宗教に解体されるのだろうか。 僕は宗教団体は、個々人の宗教に解体されていったほうがよいと考えている。 個々人のレベルでは「お祈りをして、食べていける生活ができたらいいの」という信のあり方は、ごく普通のような気がする。しかし教団となり組織になってくると、それらはだんだんと内側に閉じこもり、頑なに他の考えを拒否するようになってくる。世界で起こる民族紛争は、宗教戦争とも言えるものばかりであるのも事実だ。 個人の内部でおさまっている宗教というのはあり得ないのだろうか。 ダユのような願いの質で日々生活は送れないものだろうか。 巻き添えをくらうのは、ただただ生活の視線で黙々と生きている人間である。 口の立つ人間などというのは、組織のリーダーなどという人は、実はえらくも賢くもないんだ、ともう我々は知りつつあるというのに。 2001年10月3日 したいことをすれば 古屋敷さん(コヤシキと読む)たちがビデオ撮影に23日からバリ島に来ていたのだが、僕が到着した日は、最後の撮影日だということで、僕ものぞいてみようと楽しみにしていた。 そしたら、古屋敷さんが急に腹痛に襲われて、SOSという病院に行ったらしい。病院ではなんとかという日本にはないバリ特有の大腸菌にやられたらしい。車の中でダウンしている古屋敷さんに会った時、 「働きすぎるとバリでは7日目くらいでガクンと体力が落ちる、とバリ日記に書いてたでしょうが」 と言ったらニガ笑いをしていた。僕も到着するや、フルスピードで片づけなければならないものをやっているので、この分だと必ずバタンがくるだろう、とおもっている。原因は「生野菜」らしい。この辺のホテルかレストランは浄水器がなく井戸水をそのまま使っているから、日本人には要注意である。僕が知っているだけでも、身近に古屋敷さん同様になった人は4人いる。抗生物質を飲み、その日半日は休むことになった。 次の日、薬が効いたのか、またビデオ撮影を始めた。体調は決してよくはないだろうが、あっちの角度、こっちの角度、やり直し、等々をくり返し納得のいくものを撮っていく。流石、プロだと感心した。体調が悪くても、もういいや、とならない。 いつかバリに住みたい、と言っていたから、自分の感性でとらえた映像を作るのだろう。こういう仕事を楽しい仕事と言うのだ。さらにこのビデオを全国の人々が目にし、バリファンのひとり一人でも一人ひとりでも、ちょっとバリの気分になれば古屋敷さんの喜びもひとしおだろう。 流石、プロだと思ったのはもうひとつある。モデルとの接し方である。仕事と割り切っているからか遠慮はしない。ベタベタもしない。さっさと片づけていく。僕だったら、遅くなってしまって申し訳ないですが、とかなんとか言っては、気にしたり、気を使ったりするだろう。古屋敷さんたちは無視したりはもちろんしていないのだが、そこは手慣れてモデルを映像の一部として見なければならない時はそうし、と言ってビデオができたら送るからとメモ帳を差し出し、住所などを書かせている。この間もあっさりしたものである。 これはいいなあ、一期一会みたいな粘っこさもなく、いいなあ、と感心してしまった。妙に人間にベタベタして、腹の中では何言ってるかわからないようなのも多くいるが、このマイペースさは、大いに勉強になった。それは好きなものを撮っているから、そうなるのだろう。 今日の夜中古屋敷さんたちは日本に戻る。理恵子奥様も絶対にバタンするはずだ。古屋敷さんたちにとってバリ島の魅力とは何か、それはビデオを見ればわかるのだが、僕が耳で聞いたことは記しておこう。 「何ていうのかな、郷愁というのかな、懐かしさみたいなのがあるでしょ。実際、バリで見かける農夫の人、子供の頃にも見たことはないんだけど、記憶の中にあるような感じがするんだよなあ。それにコントラストがはっきりしていますよね。」これ古屋敷だんなさん。そして奥さんの理恵子さん、 「バリのお店って、センスがいいですよね。それに物が安い!」 バリの時間はゴム時間、とビデオの脚本で表現していた彼女は簡潔に言った。そう言えばそうだったと。ここは何もかも安いのだった。 2001年10月4日 Jamjam Jamjam。中味がいっぱいつまった、という言葉がjamでインドネシアの言葉では「時間」を表すのだそうな。これをさらにバリっぽく(インドネシアっぽくと言ってもいいのだが)言葉を重ねて、Jamjamと店名にした。株式会社モノリスの代表取締役である山下由見子さんと出会った。 ベトナム、フィリピン、バリの雑貨を横浜の元町で約1年前にオープンした。 こう書くと、やっぱり横浜とか東京って、地の利がよいな、とりあえずはガムシャラにやったって、いずれ大消費市場へ広がる可能性は大だろうな、と思う。 一方、紀州の尾鷲。人口二万五千人。前は海、後ろは大台山系が連なる、いわば猫のひたいのような平地に、貝のように身を寄せ合って生きている土地。そこに住んでいる僕は、瞬時、美しさを感じる。 「中心と周縁の理論」というのがある。さしずめ東京は中心である。横浜はその周縁である。 周縁である横浜の中心、元町である。東京をやっつけるには絶好の場所ではないか。 紀州だって、結構たいした発明をして世の中に貢献している。醤油がそうだ。 この醤油を広めようと思っても、紀伊山地の中では広めるには余りにも消費人口が少ない。距離がある。そこでだ、そこで大きな決断がいるのである。黒潮に乗って、千葉の銚子や野田に行ってしまえ、一家まるごと、工場まるごと行ってしまえ、という決断である。もちろんその前に黒潮のルートをたどったかも知れない。知多半島が第一のステップだったかも知れない。 建て替えや改装の時期に入っているマンションが多いらしい。そこに、ふと心休まるようなアジアの家具、インテリアを入れていく、と考えるらしい。 僕の方も、現在の会社の流れに同じような考えがあるので、興味を持って話をしたのだった。 そこで思う。短い時間は、その人のほんの一部しか知り得ないということなのだ。もっと知りたいと思っても、それは失礼に値するもの、であるかも知れない遠慮というものが起るのだ。 一通りの仕事の話の段階がすんだ頃、30才の、頭にバティックを巻いてかぶったKさんがやってきて、アイスコーヒーなどを注文している。三日前一度話しをした。Kさんに声をかけ、山下さんを紹介し、一緒のテーブルで話しましょうと誘った。 男が入り、それに僕の知らないジャンルの音楽、トランスのDJをしているらしくタイやベトナムを、いわゆる漂流し、インドネシアに渡って、もう何十年も東南アジア周辺にいるのである。トランスって何やねんと聞きながら、山下さんはああちょっと知ってる、などと応じながら、僕は若い男の言うことは、なんと直截すぎるのだろうと思っている。知識がそれほど豊富でもなく、あるいは閉じてしまった脳の知識の範囲と経験で妙な人生観をしゃべくる人より、やっぱり言葉不足の方がええ感じなやな、と思いつつすっかり酔っ払ってしまったのである。 やっぱり、人が一番楽しい。わからん人ほどわかりたくなる。昨日、古屋敷さんたちと会話と好奇心を楽しんだのだったが、今夜は今のところ好奇心を楽しんだのだった。今度、Jamjamに行こうと思う。Kさんにはどこに漂流していっても、アドレスだけはね、と言っておいた。 僕は出会いというものの偶然さのシーンを描きたかったのだが、ここまでである。 2001年10月5日 アラック酒 10月に入ったというのに雨が降らない。ひと雨ザァーときてほしい。暑くてたまらない。特に汗かきなので、不快である。すぐにねっとり汗ばんでくる。 バリの人々は暑いとは言っているが、たいしたこともないらしく、気候と地球の回転速度にあわせて、ゆっくり歩き、ゆっくり働き、ゆっくり話をし、汗もかかず、夜中になれば気温が下がることは気にしながら、気候というものの呼吸をよく知っている。 こんな暑い日は、カイピロチカという、アラックカクテル(まあチューハイみないなものだが)を飲むと口の中にバリのレモンとココナツからできたアラック酒が清冽に広がる。暑気が払われる。カイピロチにソーダをいれてほしいと頼む。ソーダを入れた方がさらに爽やかな感じがする。 一番美味しいアラックは、自然にできたものである。ココナツの花に切り口をつけ、そこに液を溜める竹の筒を取り付ける。これを毎日取り替えるのだ。竹筒に溜まったものをトゥア(Tuak)と言い、これは甘い。一週間もするとさらに発酵し、甘さがとれてくる。飲み頃があるそうだ。飲み頃を過ぎると酸っぱくなってしまうから、それも2時間や3時間で酸っぱくなってしまうから、いわばたいへん貴重なお酒である。 市販されているアラックは、人工アルコールを混ぜ、大量に生産している。 概して、バリ人は宗教のせいか村落共同体を守ってゆくせいか、あまりお酒を飲まない。 味はどうかというと、焼酎とウオッカとテキーラを混ぜたような、スキッとしたものである。米やさつまいもからできた焼酎はやや甘さを感じるが、透明感があり涼感がある。 バリに長く住んでいるアキちゃんなどは、アラック中毒みたいなものである。 やはり酒をいうものはその風土に合っていて、バリに料理を食べる時はこのアラックがよく合う。 今日は散髪をした。アルフリーダという女性にバリカンとはさみでやってもらった。暑いので汗がにじみでる。切った髪の毛が首から入ってチキチキするが、なんだか散髪することで仕事の区切りができたような気になった。 観光客がガクンと減った。バリ島はヒンズーの島で、現在は全く何のトラブルもないのに、心理的な影響でか、旅行をキャンセルする人がでているらしい。 インターナショナルなリゾート地は、今回のようなテロ事件が最も困りものである。テレビで毎日のように報じれば報じるほど、浮かれ気分になれないだろうし、ますます消費は冷えるだろうと思われる。 明日はクニンガン。祖先の霊が今の時期天から降りてきている。明日彼らは天に戻るのである。この日が過ぎるとバリ人たちは気持ちも普通の生活に戻り、雨季が始まるのである。 2001年10月6日 バレ クタ、レギャンのビーチは素晴らしい波が立っている。サーファーたちは刺戟的な毎日を送っているだろう。 日常を忘れるためにバリ島に来る。これが大概の外国人である。活動的にバリでのリゾートを過ごす人たちがいる。一方でこんな日々があってもいいのではないかという風景に出会う時がある。 例えば、アマンキラのプールサイドにあるバレ。アマヌサのプライベートビーチにあるバレ。茅葺きの屋根、床は木板だが、マットが敷いてある。そこにクッションなども置いてある。 恋人と日がなバレで過ごす。本を読みふける。時に風が吹き、ちょっと倦むとプールに入る。一日がゆったりと過ぎるように見えるけれど、夢のような典雅な気分の時間は案外早く過ぎるものだ。 このバレが東南アジアのリゾート地では特徴的である。ガゼボとも言う。 バレには二種類あって、高床式で二階部分を米の倉庫にしていたもの。もうひとつは、村の入り口の割れ門を過ぎたところに村人がたむろしたり、昼寝したりする見張り小屋みたいなものである。 日本の縁側というスペースは、バレと似たもので柱があり、涼やかな時には暖かな空間である。これは海の民族が運んできたものだろうと思う。 古代、日本は中国と朝鮮半島、日本の三角の関係で、朝鮮半島がとちらと仲良くするか腐心してきた。かなりの文化は、半島を渡って日本に入ってきたのだったが、一方でフィリピンやインドネシアの方からも海を渡り、黒潮に乗りひそやかに入ってきたのだろう。 話は逸れたが、バリ島で全く日常として使われているバレがさらに木彫などを施されてリゾートの一助になっている。 それは特別な場所のように見える。プライベートヴィラのバレにいるのなら別だが、アマンキラのプールサイドにあるようなバレでは人の目もあるので、またアマンキラの風景の中に自分がいて、それバレで本を読んでいる、その雰囲気にはいくらかの憧れもあるが、気恥ずかしさもある。 西洋人はよく似合う。それは若者であれ、じいさんであれよく似合っている。日本人を見ると、僕はいつも違和感を感じてしまう。似合う人たちもいる。似合わない人たちもいる。それはなぜだろうと考える。姿勢の悪さ。弱々しい神経質な臆病さ。休暇を楽しむことへの自信のなさ。そんな風に思ってしまう。 僕の自意識が強すぎるのだろうか。 2001年10月7日 バリ人 バリ人は何を教えても上達しない。 バリ人は人に情報を教えることをしない。 バリ人はワイロが当たり前だと思っている。 バリ人は忠告、助言をしかられていると理解する。 バリ人は明日のことよりも今日が大切だと思っている。 バリ人は法律が守れない。 バリ人は約束が守れない。 バリ人は見て見ぬふりをする。 バリ人はジャワ人を見下している。 バリ人は怠け者で、働きたがらない。 バリ人は嫉妬心、ねたみが強い。 こういう風に思っている日本人がいる。これは全く当たっていない。すぐにわかる。上の文を「日本人は」に入れ替えてみたらよい。自分のアホさ加減がわかるはずだ。 こういう人は自分を何様だと思っているのだろう。 バリ島に住んでいるのなら、決めつけてしまわないで、コミュニケーションで何が不足しているのか、どう言い足りないのか考えてみる必要がある。 ブックツリーは企画をし、物を作り、販売している会社なので、ちいさなワイロ(バックマージン)が発生しやすい。仮に、ブックツリーのスタッフが商品の仕入れや製作の注文にいくと、業者からちょっとした謝礼をもらうだろう。それがバックマージンで日常的になる。相場は相手が儲けた金額の30%らしい。会社は通例これを禁じている。 これを禁じないと、価格競争で負けてしまう場合があるからだ。 バックマージンが毎月一定の金額の入ってくるようになると、そのお金を日々の生活費に組み入れるようになる。すると、常時、高くなった生活レベルを維持しなければならなくなるし、仮にローンで車でも買ったら、どうしてもバックマージンが切れてしまうと、たいへんなことになる。人間は誰でもそうなりがちである。バリ人でも日本人でもアメリカ人でも。 日本はこの点ボーナスという形で会社への貢献度に応じて支払われることになる。 会社は利益を追求し、全スタッフの生活の安定を図る必要から、仕入費、製作費が安いところに移動もするし、配置換えも必要になる。すると、バックマージンが切れることになりかねない。 2001年10月8日 バリの裏の裏の話 【A】バリの裏の裏みたいな、笑顔の裏みたいなコーナーなんか設けたらおもしらいんじゃないかしら。 【B】そりゃあマニアック過ぎるよ。 【A】いえいえ、真実の姿ってやつですよ。 【B】よくTVドキュメンタリーなどで、潜行、香港の裏社会みないなものかい 【A】そうそうそんなの、バリ版。 【B】ふーん。我々はリゾートが売りだからねえ。 【A】逆に興味津々じゃないですか。 【B】コミカルに?真っ暗闇の田んぼの中でセックスしてるとか、そんなの。 【A】いえいえ、やっぱあの笑顔の裏に潜むバリの村での彼らの本音とバリのものすごくイヤな部分を。 【B】 文で? 【A】いいえ、映像で。 【B】で、本当にそんな驚くような裏の世界ってあるのかい。 【A】ありますとも。ありますとも。アタシはシラーとみているだけですけどね。ジゴロなんかおもしろいですよね。彼女と空港で別れたあとをひそかに追尾してね、顔は出さないからと本音を語ってくれと頼むんですよ。音声も変えちゃってね。 B) それは以前どこかの番組でみたことがあるな。おどろおどろした闇のような世界が見えてくるかい。単なる貧しさだけが見えてくるのではないの、それじゃね。 【A】敬虔な祈りの姿と夜に跳躍するランダのような鬼の顔、なんてありますよ。 【B】日本人に服プレゼントしてもらって、家に帰って、今日はドジったぜ、金じゃないと意味ないんだよ、と言ってるガイドの男とか、そんなのあるのかい。 【A】うーんわかりません。それはコミカルですよ。 【B】ブラックマジックに行くある男の行動とか?違うのね。バリは光と闇がはっきりしているけれど、それは人間もそうなのかもね。バリの男性を見て、笑顔がとってもステキという日本人女性が多いだろ。その奥にとっても根くらなバリ人がいる。それは女性も同じだよね。一般に女性の方がむずかしそうな顔をしているね。 【A】ひがみあい、ねたみ、不平を言い、陰口をたたく。そりゃあ、あの暗い中でひそひそやっていたら、気持ち悪いですよ。これ想像ですけどね。日本でもありますしね。 【B】たいした話じゃないね。麻薬はあるでしょ。 【A】娼婦のいるサヌールは、明るい娼婦だったしな。 【B】バリ社会は観光客の社会と全くかけ離れていますね。 【A】その辺は徹底してるよね。ガイドなんか絶対いっしょに飲もうとしないもんね。遠慮もあるだろうけどさ。食べる好奇心がわいてこないこともあるだろうし、だいたいバリ人って厚かましくないもんね。 【B】そう言えばそうですよね。厚かましくないですね。売り子のおねえさんも厚かましくはないな。ちょっと指摘すると一歩引きますよね。ムスっとした顔ぐらいは商売上しますけどね。 【A】厚かましいのが恥という気持ちは持ってるでしょう。恥じらいがあるのはバリ人の特徴だよね。 たいしたことはなかったですね。裏の裏の話は。 【A】情報がないのかな。どこに行ってもあやしげなよからぬ世界ってあるものね。ところでジゴロってジゴロになるためのトレーニングをするんだってね。 【B】そうですよ。デビューはロンボク、経験がついてきたらクタって聞きましたけど。 【A】ほんとかねえ。ところで人をおとしこめてやろう、というのはあるのかねえ。 【B】そんなの日本だってあるだろ。 【A】ビジネスパートナーだった日本の男が、相手と不仲になって、身の危険を感じビザやら脱税のことで自分で出頭して留置場に入れてもらったという話は聞きました。そしたら留置場まで人を送り込んできて、やられたらしいですけど。 【B】ほお、それは怖い話だね。バリにはバンジャール(自治会みたいなもの)があるから、全くのワルなんて育ちようがないと思うがね。 【A】ところで、そういう世界を探ってみます? 【B】うーん。やめとこ。そんな裏社会なんてテロやサリンに比べたらごくどこにでもある当たり前のことに感じるね。 2001年10月9日 夢の枝 バリでビジネスを起こしてから3年になろうとしている。 バリのスタッフたちですべてのことがやれるようにならない限り、僕のバリでの仕事は終わらない。 一番よい体制は日本の事務所の持分とバリのグループ会社があ・うんの呼吸でできることだ。 そうなった時、僕は次の段階へ行くことができる。「楽しいと思える仕事をする」というのが3年前の出発点の気持ちだった。 CDを作り、木彫のマグネットを作り、対葉豆を作り、対葉豆ルルール、香水、それらをホテルのドラッグストアで売り、それをベースにアンテナショップを作り、エステサロン、レストラン、雑貨市場、ヴィラと手がけてきた。 英語の指導法開発に明け暮れていた僕は、今全く別の世界で仕事をしている。 13年前英語の教材やら指導法のことばかりの生活からちょっと抜け出るため、別の会社を興したことがある。「紀州ひのき屋」というその会社は、「木炭」を普及させようとしたものだった。 尾鷲には桧林がたくさんある。間伐しないと桧林は荒れてしまう。その間伐材を「木炭」にすれば、火持ちも適当で、始末も簡単で、安い木炭が提供できる。木炭を作る移動可能式の炉。これを普及させ全国各地で炭作りをしてもらおう、というわけである。 当時、木炭業者の平均年齢はすでに75歳は過ぎていて全く斜陽、どうにもならない状況であった。人々もほとんど木炭は使わなかった。備長炭がうなぎのかば焼きか焼き鳥で使われるくらいのものだった。 僕らの発想は違った。とりあえずは「バーベーキュー用の炭」として活動したが、炭の持つ特性として微生物が住みやすい、無機質である、電磁波を遮断する、であった。しかしこれらの特性で何かを作るには資金的にも無理があり、専門的な研究者パートナーが必要だった。炭を作る時、木酸液という液が製炭炉から出てくる。いわば、煙が液になったものだ。話の途中を省くが、これでムカデを追っ払う商品を作った。かなり売れたのだが、季節商品であった。年中売れるものではないといけない。そこで庭先にフンをする猫、車のボンネットの上で寝そべる猫、砂場にフンをする猫、つまり猫が近寄らなくする「ネコシャット」を開発した。 流石この時の開発はおもしろかった。猫についての本を読んだ。本の中には参考になるものはなかった。猫の行動をビデオに撮った。そうこうして木酸液の匂いを利用した「ネコシャット」が完成した。新聞社、TV局とニュースで流れるとドッと注文が来た。臨時電話を10台並べても電話が鳴りっぱなしだった。その後、幾つかの商品を開発し、会社はりっぱに収益のあがる優良会社となったのである。 その次がいけなかった。 この勢いで「木炭漁礁」しかも6基の海中浮き漁礁を作ったのである。特許の申請をした。 魚を集める。成功すれば必ず注文が来る。 勢い込んで作ったのだった。漁業協同組合、海上保安庁、土建業者の方々の協力も得て、いよいよ、投入する日がやってきた。NHKも30分番組にする予定である。 見事、海中に計算通り浮いたのだった。 さあ、あとはどうなるか待つばかりと、毎日の点検を行い、そうして半年が過ぎた。 この年の10月、超大型台風が尾鷲を直撃した。浮き漁礁は見事に流れてしまっていた。 楽しんですることのしっぺ返しがきた。周囲の人たちから批難めいた言葉は聞こえてこなかったが、本業の方がおろそかになっていた。その間、本業の会社は僕が木炭にうつつを抜かしている間に今思えば危機的状況に陥ってたと思う。「ひのき屋」を一緒にやってきた友人に譲り、僕は本業に戻ったのだった。 この間3年。それから語るに尽くせないほどいろいろあったが、たいへん辛い思いもさせてもらったが総じて楽しい思いを結構思う存分したということだ。 恐らく周囲の人々から見れば「困った人」だったに違いない。「困った人」にならず「好き勝手やりたい放題」ができるようにするにはどうしたらよいものか。 漠とした夢は捨てることができない。身体の中から、夢の枝のようなものがニョコニョコと出てくる。 こればっかりはどうしようもない。 どうすればよいかこの点に関して教えを乞いたいと思う。 2001年10月10日 不安 どの国も同じだろうが、外国人がその国の中で働く場合、しかもその期間が3ヶ月以上に渡ったり、何度も他の国を往復せざるを得ないような環境の場合、「在留許可証」というものをまず取得しなければならない。 これまでインドネシアでは、一週間も待てば発行してくれたのに、メガワティ政権になってから、規程どおり二週間はかかるようになった。それでも早い方で日本なら2ヶ月はかかる。 これはインドネシアがコネによらず、法の手続きで進めていおうとする政府の意志の表れに違いない。おかげでと言おうか、僕は日本に帰れなくなった。しばらく滞在せざるを得ない。いや在留許可証の更新がなされるかまだはっきりわからない。しかし、この国の不気味さがひとつなくなるような感じでありがたいと思っている。 公表された法や手続きとは違うところで事が処理されていくのは薄気味悪い。僕は毎回、空港の入管で薄気味悪さを味わっているのだが、今回入るときも入管の係官がにんまり笑って小声で「カネカネ」と言う。カネを払う必要もないので、無視していたら、笑って通してくれた。その事と関係があるのかわからないが、到着の夜、三人の入国管理局の男たちが真夜中に、ホテルの部屋にやって来たのだった。 こういうところに不気味さがあるのである。 外国人に対して、こうしてください、こんな風ですよ、という紙一枚もない。公的に出された文書で、明らかにされていれば、それを読み、それを守っていればよいのだが、何が本当なのかわからないというのは常に不安である。 商売あるところに利権は発生し、その利権によるどうしようもないリスクだけはいつも背負っていなければならない。 アメリカやヨーロッパなどの先進国では、こういう点については安心感がある。 アメリカで妻が車を運転し、僕は助手席、子供たちは後部座席に座っていた。すると、警察官が後ろから走ってきて、止まれと言う。僕は何があったんだと、ドアを開けようとすると、警察官はドアを開けるな、そこでじっとしていろ、と言う。妻は免許証を提示させられた。後部座席の子供たちがシートベルトをしていないと言う。後日、妻は裁判所に出頭し、罰金かボランティアのどちらか選ぶかと言われ、ボランティアを選んだのだった。ボランティアというと聞こえはいいが、労働刑、強制労働である。ボランティア団体みたいなところへ行って10日ほど働いたと思う。家から通え、厳しいスケジュールであるわけでもなく、妻は初めての経験で今は楽しい思い出かも知れない。 こういう時も不安感は一切なかった。法に則してやっているからである。 これがバリだったらどうなるかである。 警察官がニヤけた笑いで、心の中では「金くれたら見逃してやるぞ」と言ってるような気がする。もしも金をくれてやったら、その事から弱みを握られたような気がする。仮に、カネを払わなかったら腹いせに何をされるかわからないような気もする。 そうすると、一見穏やかそうに見えるバリの人々の心はどんなものなのだろう、と疑いを持ち始める。 こういう〈わからなさ〉は実に不安なものだ。だからインドネシアの多くの人が支持したメガワティ大統領が清潔な政権であってほしいという人々の願いから発しているのなら、この国に未来がありそうな気がする。こういう〈不安感〉がある限り、先進国からの投資はスイスイとはいかないだろう。 来る度に何かがはっきりしてくる。税務署、警察署、裏金のシステム。敵に回せば怖い存在である。まさにリゾート地とはかけ離れた現実のどす黒さである。 正と濁。濁を知っているからといってえらいのでもなんでもない。この国を悪くするだけである。長いものに巻かれていくのを自ら断ち切ろうとすれば、たいへんな労力と精神力が要るのである。しかしだんだんとスハルト時代に社会の隅々まで浸透していた利権のシステムが壊れようとしているのも確かのようだ。 2001年10月11日 堕ちていきたいのよ、なんて 「堕ちていきたいのよ。」と女優は言った。 「全部捨てるのね、仕事も親も親類も知人も家も名誉も、捨てるの、男だけね、その男だけよ、知らない町に行くの、ケンタッキー・フライド・チキンとかマクドナルドとか丸井とか絶対にないような町よ、死ぬわけじゃないのよ、二人でどうしようもない暮らしをするの。誰にも嘘をつかなくていいし、誰にも祝福してもらわなくてもいいでしょ?あkらめきった、ダラダラと二人きりで暮らすのよ。」と村上龍は銀座のバーで会った某女優との「道行き」についての会話を『すべての男は消耗品である』で紹介している。紹介後、 「よくわかる。オレだって憧れる。そんな二人は地獄へは行かない。そんな二人が罰せられるのは、制度の側の教訓だ。」と書いている。 僕は村上龍の「よくわかる。オレだって憧れる。」がわからない。女の気持ちならよくわかる。しかし「オレだって憧れる。」と僕の場合ならない。まあ、これは某女優の酒の上の話だけど。 数年前だったら、ふんふん、よくわかる、などと言っていたかもしれない。今はなんだかんだあることも、親が死にかかったり、知人や友人、そこにある家も、名誉も、逆に未練となって僕の中にある。この未練がある限り、死なないぞと思うし、二人して「道行の旅」や見知らぬ町であきらめきってダラダラともならない。 なんでみんな生きているのかと言ったら、この煩雑な世にもかかわらず、未練があるからだ。 某女優はロマンを語りたかっただけなのである。自分の現実の裏返しを酒の席で言葉に出して、村上龍は相槌を打ったのである。そして最後に「徹底的に制度と戦った者は、必ず天国へと迎えられるのである。」と書いて〆ている。「徹底的に」がどれほど徹底的なのかわからないが、本当かよ、こんなの制度と戦っていると言えんだろう、と思う。 僕に言わせれば制度と戦うというのは、ひらりひらりかわして、かわしながらも、パンチのひとつもくれてやり、制度の側がくたびれ、無に近くなる状態までやってしまうことだ。堕ちていったって制度の中だ。電気代も、水道代も、家賃だって払うのだ。また人の眼があり、関係が生じ、まあ2年くらいは村や町で「貴種流離譚」にはなるだろうけど、そこまでのものだ。 ぐんぐんと締め付けてくる制度なんかかわしていかなくては、死ぬしかないだろう。債権者に催促されて死ぬ?債権者に対して誠実になれなくて死ぬ? 某女優の言葉は今が絶頂期の人が言う言葉だ。相槌を打つ村上龍も今が絶頂期だから、よくわかったり、憧れるのだ。今が絶不調で今がどん底の、堕ちていった果ての人なら、言葉は変ってくる。 オレたちゃみんなまな板の魚だぜ、煮てなり、焼いて食うなりなんなりしな、と開き直りながら、ペロリと舌を出して、ちょっと逃げ、ひらりと交わし、転身してゆけばよいのだ。 2001年10月12日 イラワティのこと イラワティはスラウェシで捕れたケラプー(ハタの一種)をバリ島に運び、そこから香港、シンガポールへと空路で輸送している中国系インドネシア人である。このホームページの「この人にあった」シリーズで紹介されている。 バリ島に行くたびに、顔を見せに行く。取引があるわけではない。彼女のビジネスの進展を見たいのだ。海の上に浮かぶレストランはもうそろそろできるのではないか。どこかで仕事がつながっていくのではないが、と思う気持ちもある。 また訪ねた。養殖を始めたという。見せたいから行こう、と言う。ヌサドゥアの海辺にある彼女の家からクタ方面へ、そして新しくできようとしているでこぼこの石灰岩のような道を走って、スランガンという海へ行く。 漁村というのでもないが、防波堤には幾艘のジュクンがあり、目の前はマングローブの島がある。そのマングローブと防波堤の間に養殖イカダが浮かんでいる。ボートに乗り込もうとするとアキちゃんが「ヤバい。酔いそうだわ。」とつぶやいた。波のない海なのに、ボートはチャプチャプと横揺れするのだが、走ると揺れは全くない。イラワティはこのモーターボードを買ったのだろう。 5mほどの正方形の網の中に5cmほどのケラプーがいる。一時間に一度、餌をやらないと共食いするんだそうだ。ハタ科の魚は美味である。薄つくりにしても、煮つけにしてもどんな料理にも合う。香港やシンガポールで高級魚なのだ。 目玉と口が美味しいという魚とはこのケラプーのことか、と聞いたら、イラワティは「それはナポレオンフィッシュだわ」と言った。いくつも連なるイカダの上に大きな小屋がある。床と柱はヤシの木、屋根は茅葺きである。そこに鼻の上を真っ赤にした若い男がいた。イラワティの息子、ジョナサン。おっとりしたやや小太りだが、この養殖の仕事を始めたのだと言う。指導者なし。一人で試行錯誤して、ケラプーを育てている。仲買人からメーカーであり輸出業者になろうとしている。バリ島で初めての魚の養殖で、政府から、海を使う権利を50年で借りた。観光用の船も行き交うところなので、交渉に時間がかかったらしい。 成功したら真似がでてくる。新しい産業にしようと、政府はまた別の業者に海を貸す。だんだんと海が汚れ、海の底も汚れ、やがて赤潮が発生したり、病気が発生する。餌をペレットにしたりの工夫が進む。日本がそうだった。バリの海はまだまだ日本に比べて汚っていない。イカダのフロートや網にカニがいたり、キビナゴのような魚が群れている。マングローブも海に良い影響を与えているのだろう。 アキちゃんは小屋の中で、「もうダメです。」と気分が悪そうだ。言っておくが、全く波のない静かな入江である。アキちゃんの身体の方が変なのだ。「私、右耳の(なんとかかんとかが)小さい時から悪くて・・・揺れるとダメなんです。」 モーターボートで岸に戻って、少し歩くと、なにやら干していたものを手入れしている女性にイラワティが話しかけている。アキちゃんに何と言っているのかと聞くと、「この貝の殻はロブスターの好物だから、捨ててしまわないで、私に売って。」と言っているらしい。よく見るとチャンポコだった。チャンポコの身を干しているのである。バリにもチャンポコがいるのかと、感動してしまった。「これチャンポコって言うんですか。」「いや尾鷲弁や。隣りの町ではボラと言う。シリタカ、ツブと言うところもあるだろ。」 イラワティはこれまでのものを基礎にして着々と進んでいる。 「ところでレストランは?」と聞くと、「政府の許可が降りなくって。船はスラウェシに置いてあるけど、この前ドイツ人が来て、これで世界をまわりたいから売ってくれって。売ろうと思っているのよ。」と答えてくれた。 やっぱり得手のいいところを伸ばしてゆく、それがビジネスの正当的な感覚なのだろう。 2004年10月13日 ミークワと夕陽 ミークワというのは、いわば、バリのラーメンである。普通バリではロンボンという屋台で食べることになる。地元の人に人気なのである。 日本のラーメンのように試行錯誤の、より美味しいミークワ作りが行われているとも思えないが、実は多くのミークワがある。透き通った色のスープのもの、茶系がかったもの、赤味がかったもの。味も酸っぱい味のものから強烈なアミエビの匂いのするテラシーを入れたもの。日本のラーメンに近いもの。作る人によって味も具もいろいろだ。麺でさえ、生麺、インスタントの麺のように干したもの、春雨を使っているのもある。 昔、台湾の屋台で夜中酒を飲んで帰る道すがら、小さなお椀に入ったラーメンを食べたことがあった。美味しかった。酒を飲んでいるために美味しかったのか、異国の地で夜の屋台で食べるということが美味しく感じさせたのかはわからないが、その後日本で食べる台湾ラーメンにはことごとく落胆した。 ミークワも基本スープは鶏である。豚骨を混ぜる人もいるらしいが、だいたいは鶏である。野菜は人参、たまねぎ、ニンニク、キャベツ、ポクチョイ、チリを細かく切って使う。ごま油、ラジャラサ(バリのしょうゆ)、オイスターソース、塩、こしょうで味付けをする。どうしても日本の風味にならないのは、ポクチョイ(コリアンダー)と使うのと、ラジャラサというバリのしょうゆ、それにオイスターソースを使うからである。そこにテラシーを少し入れるとバリバリのバリ風となる。 ミークワの専門店が、日本にも登場してくるような気がする。バリでも専門店化するかも知れない。人々の食への好奇心が許される経済的状況が来たら、あちこちにミークワ店ができているかも知れない。 今回は、ウブドそしてクンバックサリとか言うところまで行ったのだった。一時間車で走っている間。何台のミークワ屋台を見たことか。彼らの中からいずれミークワ専門店をやろうとする者がきっと出てくるに違いない。 これでミークワについては終わりである。 ウブドから途中海を見ながら東海岸の道に入るところにクトゥウェルというビーチがあり、その目の前にペニダ島が浮かんでいた。コカコーラの売店があり、ピーチでは地元の人たちだけが遊んでいた。右手にはサヌールのグランドバリビーチが遥か遠くにみえる。写真を数枚とるとフィルムが終わってしまった。また車に乗り海岸沿いを走っていると、突然前方にかつてこれまで見たこともない大きさの夕陽が現れた。あまりもの大きさに思わず感動した。確かな音をキャッチできていないかも知れないが、運転手が言ったのは左手のビーチはバーダンガラビーチと言うらしい。そのビーチの一分程手前のところである。6時4分だった。その太陽は見るに値する。なんでこうでかいのだろうと知識のない僕は不思議に思うばかりである。フィルムがもうなかった。網膜には写ったのだからと、納得したのだった。空は深いオレンジ色と紫色が混じり、風景がだんだんと闇に近づいていく。 この風景を妻にも見せたいと思ったが、オレはやっぱりバリには住めないな、とまた思う。身体もクタクタでほぼ限界にきている。魚辞典などを夜読んでいるものだから日本の魚のことを思う。夕陽がどう美しかろうと魚にはもたんわい、などなど思いながらレギャンに着いた。 2001年10月14日 トランス 一つの島を25年借りて、そこでトランスミュージックパーティーができたらいいなあ、と思ったのだろう。 わざわざ地図を知らせないで、どうしても来たい人だけがなんとか探し出して、トランスに参加する。それでいかにトランスが好きなのかわかる。日本だったら、山奥。一回のパーティーで一万人集まるほどになっている。 僕は二人の若者とももう言えない30代前半のトランスDJと40代近くのトランス・デコレーション担当の男たちと話をしている。「ほう、ほう」の連発で、そういう音楽のジャンルがあり、DJは音楽を構成するナビであり、ここにDJの腕があるのだそうな。デコレーションは音楽に合わせて周囲をそれ風に飾ってますますトランスを高めているのだそうな。「ほう、ほう」と言い通しである。 それで二人は25年契約でロンボク島の前の周囲1kmの島を借りることに成功したので、一度バリに帰って、バリで宣伝できる場所を見つけて、再度島に渡るのだと言って、三日程の滞在後島へ行ってしまった。無人島である。 ロンボクからは外国人たちがバリ島に避難し始めたという噂を聞いた。三日後、アキちゃんが「あのKさんたち、もうヨロヨロ、クタクタでヘナヘナでとりあえず500円くらいで泊まるところないか、と言うもんですから、隣りのホテル紹介しました。本木さんにぜひとも会いたいそうです。どうやらダマされたみたいですよ。」と聞いた。 その夜はグランブルーに来なかったから、相当くたびれて眠り込んだのだろう。 翌日、夕方頃、僕が仕事から帰ると二人は静かにコーヒーとバナナジュースを飲んでいた。どうだったか、と聞くとKさんが「何が何だか、本当のところがわからないんですよ。25年の契約だったはずでお金を渡してのですが、あれはデポジット3年分だと言うんです。話が違うじゃないか、になってそれで今後どうしようかと・・・」 Nさんは「オレはね、お互いに信頼し合ってね、特に仲介をしてくれたアンとは2年もつきあってきてね、信頼できる男だと思っていたんですよ。オレたちの方も信用してくれって」 彼らの心情面の話を抜きにして、簡潔にまとめれば、 「25年の契約を公証人を立ててやること。その25年分のお金を用意すること、いくらだい?」 「70万円。」 「一万人も集めようって計画なら、安いもんじゃないか。それだけの話だよ。」 「オレたち、金もうけしたいんじゃないんですよね。口から口へと広まって、自然な形で人が集まってくれればいいなあって。」 70万円がないのである。 「なんならスポンサー紹介してあげようか。たとえば僕ならどうだい?」 「スポンサーに縛られると、トランスが楽しめなくなっちゃうんですよね。」 「その島に人が来たら、貸しテント、船の便、いろいろ要るだろう。それの権利を売れば70万円くらい入るだろ。そこはどう考えてんだい?」 Nさんは「オレたちそんな才もないし、したくないんですよ。」 相当純粋にトランスをしたいのである。 「トランスをやっていると満ち足りるんですよ。」 「ふーん。トランス音楽というのは、明日への希望を翌日に湧かせるようなものなのかい?ほら麻薬は気持ちいいけど、明日につながっていかないものでしょ」 Kさんは「うーん、明日につながる人もいるとは思いますよ。」 Nさんは「トランスやってて、喧嘩することはないんですよね。」 「うーん、喧嘩なんて派手にやってもいいんじゃないの?」 2001年10月15日 テロの影響 イラクとの湾岸戦争の時は直接的に僕に被害が及びとか知り合いに深刻なダメージを与えるという経験がなかったので、フセインも相当な悪だが、アメリカも50年前と何もやり方は変ってないな、と思うくらいだった。 今回のアメリカにおけるテロ事件では呑気な気分が緊張に変った。イスラム国家であるインドネシアはどうなるのだろうか、ということだった。当然、その影響としてバリ島はどうなるだろう、会社をどうすればよいだろう、という思いになる。 9月30日にバリ島に着いて、今日で16日。滞在中の前半、バリ島は全くのリゾート地で、バリ人たちもこの事件の成り行きを結構、遠いものとして見ていたようだが、だんだんと僕の知る限りの人は口にするようになってきた。 アラブ首長国連邦のヒルトンホテルとの契約が決まって旅立つはずだった若いコックのマデは、この事件で話がお流れになった。 インドネシアからの荷物の検査が厳しくなった。 噂では、どこそこのホテルが70%キャンセルになったとか、飛行機もキャンセルが相次いでいるという噂が流れている。しかしバリの町は観光客の数も昨年と変りはないような気がする さて、この愚かな戦争の事である。 日本は戦争を永久に放棄した国である。世界で唯一未来にわたって誇ることのできる「戦争放棄」を憲法九条で謳っている。なのにアメリカにのこのこ追従していく。 なぜ戦争はやめようと呼びかけがないのだろうか。世界中の新聞1ページでも買って、我々は戦争を放棄した国であり、戦争がいかに愚かなことであるかを訴えないのだろうか。どうして毅然とできないのだろうか。 国と国との関係性はある。その中でギクシャクすることを避けたいのもわかる。識者は国々との関係、日本の世界的な位置、経済の動向もよく知っている。知りすぎているからできないのか知らないが、僕には簡単なことのように思えるのだ。 どっちの仲間にもならず、孤立無援でも、言い続けたらいいし、世界に出かけて、説得を呼びかければよいのだ。裏工作なんてのはダメだ。堂々と言いつづけ、宣伝しつづけたらよいのだ。 日本人が誇れるのは「戦争放棄」という理念ではないか。56年前に徹底して敗北したではないか。この56年で得たものはカスみたいな文言だけを言い換える術だけだったのか。アメリカにペコペコすることだけだったのか。 未来に架ける橋を僕らは持っているのにテレビに出てくる人たちは、誰もこれが人類が今までにかちえた財産であることを言わない。誰が言うのか。僕にマスコミがインタビューでもしてくれればちゃんと答えるのだがなあ。 2001年10月16日 ビザがまだ降りない テロの影響で、在留許可証、労働許可証の切り替えをさっさとやっておいた方が万が一のためと思うのだろう。たいへんな混み様らしい。もう二週間以上過ぎているのだが、まだ労働許可証の更新ができず、ビザが降りない。念のためというわけではないが、早く手続きをはじめておいてよかったと思う。 案の定、バテてしまって、気力が出てこない。頭の中に浮かぶものはなんとかしてゆこうとするのだが、何かを発見しに行ったり、好奇心をもって人に話しかけたりすることが億劫である。 西向きのベッドの部屋だったが、昨夜頭を北向きにして寝た。ぐっすり眠れた。わかっていたことなのに、どうして始めからそうしなかったのか後悔した。 薬局に行って元気になる薬はないか聞いたら、バイアグラを持ってきた。そっちじゃない、身体がだるいんだ、と言うと、今度は「コブラ」というこれもバイアグラではないけれど、そっち用の物を持ってきた。結局12種類のビタミンと8種類のミネラルが入ったドロップのようなものとロイヤルゼリーを買った。あわせて5万ルピア。ロイヤルゼリーは10本入り。 ハッピーバリのために送った荷物が18日に到着する予定だったのに、21日到着という。何度も確認しているのにこのようによく予定が変ってくる。よく聞くとその船はスラバヤから出て、香港、東京、それから大阪と来るのであって、日本への到着は18日であった。 あらゆることがそうなってしまいます。 例えば、昨年と同じ制服を今年また頼んだら仕上がりが全然違ったものがでてくる。やり直しである。あれほどサイズを徹底して言ったのに、サイズの違うものが来る。これまでオーダーをして一回で完璧というものはない。互いに確認し合い、さらにできあがり、それをまたやり直す、という手間をふむ。 知る限りの人に、まあなんとかやっていくさ、という雇われ人の気楽さがある。 というわけでハッピーバリのオープンは遅れに遅れ、費用がかさみ、早くても来月15日か20日、1ヶ月遅れることになる。 まあ宇宙的視野に立てば、人の失敗や時間の遅れなど微々の微々なのだが、と開き直るのも得意の境地まで来ているので、それでも事は進んでいくだろうと疲れた身体と頭でぼんやり思っている。 テロの影響で仕事のシフトを日本に移行しなければならないだろう、とか観光客が著しく減った場合、店は休業せざるを得なくなるから、日本に物を輸出することに重点を置き、80名の全スタッフをその事に専念させようか。けれど80人は多すぎるよ、とあれこれ考えている。 都合が悪くなったからと言って、レイオフをするのはなんともやりきれない。自分の能力は仕事を作ることだったじゃないか。バリで国内向きの仕事を作ればよい。こんなことができなければ男本木周一もたいしたもんじゃない。 話はコロリと違うが、それにしても戦後56年は何だったのかなあ。人類の未来への一番の架け橋・理念「戦争の永久放棄」を日本は持っているのだがな。そこだけをとりでにすればいいのに。全世界のテレビ、新聞、ラジオの時間枠を買い、日本は戦争を放棄してるんだ、戦争なんて愚かなことだと叫びつづければいいのに。 2001年10月17日 突き上げてくるもの 寿司が握れたら、寿司屋をやりたいのだがなあ、でも客が自分の作った寿司を食べるなんてのはドキドキものだなあ、ドキドキしすぎて、気が狂いそうになるだろうなあ。最高のネタを仕入れて、少し加工する。やってみたいなあと思うが、それをするには年をとりすぎたよな。 漁師もいいよな。魚釣って暮らすわけだけど、父がそうだった。案外、釣り日和って少ないのだ。それで生きていけないから多くの漁師は廃業するのだろう。これももう無理かな。膵臓を悪くして低血圧気味だし、酔うかもしれないなあ。 ショーロクラブみたいな、アコースティックなギターやマンドリンの4−5人の編成グループ。つまり音楽活動だ。職業にはならないかも知れないが、いくつかのホテルなどと交渉して、そこで演奏させてもらう。これはもう夢中になってしまって楽しいだろうが、ソロなんかにすると指が動かなくなってしまうのだろうかと心配する。 先生。これは得意の分野だ。中学生や高校生の話を聞いていても、飽き飽きしてくることはないと思う。僕だったらビシバシ要領よく、おもしろおかしく教えてあげる。 彼らとつきあうにはバイタリティーが要るからね。だいたい先生って根気が40歳まで持たないと思う。持たないから教頭とかになるのだろう。とすればもう失格だ。 何だか飛び込めない世界が多いなあ。今から僕は何ができるのだろう。医者は時間がなさすぎてやってられないし、弁護士だって今から勉強する記憶力がない。すぐに忘れる。小説だって二回も三回も読んでいるのだから。 政治家にもなれないなあ。あれだけ口で勝負するとなれば神経の一本、二本抜いておかないとできないよなあ。 店を開くなんてとてもできない。バリで店を開いているのはいつも一回きりのお客様が相手で、僕はでなくてもいいし、仕入れシステムも僕がいなくたって客の好みでスタッフが選んでくるようになるものだ。 コンピュータの前に一日いたくはない。 こう考えると、できるものってないことに気づく。でも何かをやりたいといつも思っている。そしていつだって何かをやっている。突き上げてくるものがあるから、それに突き動かされてやっている。責任感みたいなものとか、おっこれはおもしろい、やっちゃうぞ、てな感じだ。 でよくよく考えてみれば寿司は握れなくても寿司屋は開くことが出来る。漁師はできなくても漁師と仲よくすることはできる。弁護士はあくまで代理人だから、要は自分で自分を弁護すればよい。法律を作れるのは政治家であるが、この手の人とお付き合いしたいと思わない。 会社を起こしたり、ある企画に挑んだり、商品を開発したり、そんなことはできる。 人はなんとか食っていくものだから、会社は残してしたい人がして、僕なんかはさっさと引退して、全く個たる自分に転身したいなあと思う。そんな職業ってあるだろうか。 財産がどかっと入ってきて、そのお金で小説を書く。これだったらできそうだけど、小説は上手でないとね。何かありそうだと自分自身は思っているのに、いつになっても何かがわかってそれを突破することができない。 休みの日になるとそんなことばかり考えていて、もうこの30年そんな調子で、どうしようもないのだ。 バリ島で帰る予定が延びている。 するとこんな風な妄想ばかりになるのだ。 バリ島で空港で売るための菓子を作るぞ。作るぞ、というより作らせてデザインして、売り方考えて、売り先と交渉して、人員を揃えて、ああまた企画ものだ。 バリ島の特産物に挑戦だ。 2001年10月18日 幕は降ろせない バリでの仕事を始める前に5年間ほど毎年一回か二回、バリにリゾートしに来ていた。四泊と五泊の旅だったから、バリでの時間がとても貴重に思えた。プールサイドで本を読んでいる時間も欲しかったし、プラプラと町や村を歩いたり、レゴンダンスを見る時間も欲しかった。 バリでの時間はゆっくりと過ぎてゆく雰囲気なのだが、旅行者としての時間はあっという間に終わる。食べるものも珍しかったし、店に置いてあるどんなものも珍しく新鮮に見えた。 縁あって、イダとオカを雇うことになった。ようしひとつCDでも作ってホテルで売ろうじゃないか、ということがバリでの仕事の最初だった。ちょっとバリに色気を示したのが、今こうやってビザ更新を待っている身となっている。 18日間、ウブド方面へ一回行っただけで、あとは半径30mくらいのところを行ったり来たりしている。散髪はエステでしてもらえるし、食事はグランブルーでいただく。ホテル内だからいつでも昼寝もできるし、どこに出なくても全部揃うのである。いわば王様のようだ。 だんだんと仕事が拡大するにつれて、起ってくることが煩雑になってきた。伝達におけるミスアンダスタンティングが多くなってきたことと、どうしても常時、日本人が必要だということでここバリ島でアキさんを見つけ、日本からは林さんを送った。二人ともよくやってくれて、頼もしいのが有難い。 林さんは林さん自身と娘がアトピーで、冬の乾燥期になると痒さで参っていたのだが、対葉豆で好転し、さらにバリに来てすっかり治ってしまった。黒ずんでいた腕や足もすっかり元に戻り、彼女の気分は上々だ。アトピーの方々にアクエリアスホテルに泊まってもらって、毎日対葉豆を500ml飲み、エステで対葉豆ルルールをし、潮風に吹かれて、グランブルーで特別メニューなんてどうですか、と言い出している。二人の子供を連れてはりきってやっている。 日本人は気づくのが早い。約束の期限に遅れたその影響がどう出るのかもわかっている。気づくのが早い、いろいろなことがわかるということから、林さんの仕事の量はだいたい10倍以上になる。バリの物価でだいたい日本の10分の1くらいだから、ちょうどよいのかも知れない。はっきり言えば、まだこの経済社会的な基盤で日本人のように気を利かして働け、というのは無理な話だ。 こういうことも実感的にわかるまで3年ほどかかった。バリの経済の最低の状況下で、ビジネスを始めたと思っていた。そうしたら、より大きい打撃に今バリは襲われようとしている。当然僕らも巻き込まれてしまう。 3年が経とうとしている。これまで何度となく目にし、その時聞く人がいないのだそのままに放っておいた幾つかの物、そういったものを今回はなるべく把握しようとした。 例えば、「ブリンギン」という巨大な木で、枝からはつるがぶらさがっている。この木の名前を知りたかった。ついつい聞き忘れていたのだが、今回知ることができた。葉は寺院でのお供えに使うし、巨木信仰や巨岩信仰に見られるものがヒンズー教と融合しているのがこの木である。この木には必ずと言っていいほど小さな寺院がある。 イダが言うには人々のオーラを吸い込み、この木は巨木で何千年も生きるのだそうだ。木に人々の心のようなものが集まっているのである。人間として生きてゆく限り、それは同じような祈りのようなものだろう。人間に共通した思いをふと考えてみる。 僕らはだいたいが同じだ。歩く幅も、手が届く範囲も、排泄することも、喜び騒ぐことも、悲しみで嘆くことも、怒りも、わからなさという不安も。 じっと考えればわかる。バリ人も日本人も共通した体の範囲と共通した感情の中で生きていることを。 さて、ようやくビザが明日出そうである。帰らなければならない日が来た。事業成功の喜びをバリの人たちとも分かち合う寸前のところでテロ事件だった。テロ事件の影響で観光客が減少しており、臨時に80人の職を作り出してでも、この幕はおろせない。ある心の臨界点がくるまでは。 |