| 2001年5月29日 迫ってくる問題 母は76歳なんですよ。若く見えます。どう見ても60代って感じですね。母が脳梗塞で病院に入ったのは12年前、63歳でした。毎年1ヶ月ほどの入院をするという状態だったのが、3年前からクロレラを飲み始めて、続いて僕がバリ島から対葉豆をもってきて、毎日飲んだのです。どっちがよく効いたのかはよく知りませんが、今はすっかり元気なんです。一時、コンロの火を止めるのを忘れたり、ウツっぽくなったりしましたが、今はそんなこともなくなり、脳梗塞ってこういうもんかって思いますね。「りっぱな脳をしていますね。」なんてお医者さんに言われる。 母が病気になって、物忘れもひどかった頃、幾分なじるように、母を小馬鹿にしていた父は、肺炎が契機で身体の悪いところがドバッーと出た感じで、頭と心臓がガタガタでした。あっちまで行きかかって、半死の状態で戻ってきたのですが、現在はなんとか歩けるようになりました。この2年間のことです。母と立場が逆転してしまったのです。 今回、初めて母をバリ島に連れてきたのは、父がなんとか歩けるようになり、一週間くらいだったら、僕の妻や姉が時々必要と思われることを用意したり、状態の確認くらいすればいいわけで、四六時中介護が必要でない状態になったわけでした。この機をとらえて、母をバリ島に連れていこうと、父を説得したのです。 父も一週間くらいなら自信があるのか、「おう、行ってこいれ」とあわてるような、恐ったような素振りは見せませんでした。 現在の平均寿命は女性で84.5歳くらいだったと思いますが、癌の克服で、90歳になり、100歳になる人の数が増えつづけていることから、そろそろ僕の母などもあと20年くらいは生きていくかも知れない、そういう可能性は十分ある時代に突入しています。 なんとなく70歳くらいだろうな、と思っていた人生が100年も、となってくると相当人生設計も変ってくると思いますね。 日本は完全に村であっても村社会は崩壊していますから、「死」という問題は「個人の死」の問題、「孤独な死」という問題になっています。「死ぬ」ということは実際は死ぬ本人が経験できるわけでなく、本当は他人の問題とも言えるわけですね。わけがわからなくなってしまったら、それはもう他人にすべてを委ねているわけで、あとは知ったこっちゃないと考えてもいいし、だからこそ、他人様に迷惑がかからないよう、生きているうちに他人様に気を使っておこう、と考えてもいいわけです。しかし、どちらにしろ自分の死については徹底して考えざるを得なくなりました。 バリ島の人々に興味を持って接しているのだけれど、個人という意識が相当希薄なんです。強い自我って感じられないし、お金もうけなんかにも、それほど積極的ではありません。「死」のレベルで言えば、「死」は共同体に初めっから預けてしまっているという感じですか。 日本はこの時代をこの50年で通り過ぎてしまったのですね。経済成長で目まぐるしく変化しました。死について考える暇などないような勢いでした。村社会では個人を縛ることがいっぱいあって、本当はたいへんなんだと思いますよ。しかし、こういう村社会が崩壊し、人間はどうなっていくのか、みたいな先進的な例が同じアジアの島国、日本にありますから、バリ島は近代化しながらも別の将来像を新しく作っていくこともできると思うんです。バリ島の葬式はイヤですけどね。死んだあとの葬儀なんて、みんないっしょでいいじゃないかと思いますが、見栄としか思えないような、古代的な遺制が残っているんです。アホらしいと思うんですが、お金をコツコツ貯えさせて、死んだらパッと使ってしまう。それの方がよいと考えているのでしょうかね。 それとバリのカーストも全く良いこととは思えませんね。どうして必要なのか、そういう意識は、古代、中世ですね。形式的などと言うけれど、違いますね。かなり、実質的、意識的ですね。こういうことは、これからのバリ人たちが考えていくことです。 そして我々日本人は、どういう超高齢時代を過ごし、どういう死に方、どういう死に方というより、どのように死を認識するか、をテーマをしてかなりの人が持ち始めたと思いますね。経済の問題というより心身の問題にテーマが移っている。 ところで母は、バリ島で、目に付くものをスケッチしたり、好奇心いっぱいにして、陳列されている品を見たり、衝動買いしたり、日常、いわば、夫の介護をほんの数日離れて、元気よく楽しんでいます。食欲もあって、ロブスターや蟹、魚、スープにワインとガバガバ食べてるって感じですね。 2001年5月30日 バリのカースト バリ島にはカースト制度が厳然とあるんですね。僧侶階級のブラーフマナ、貴族階級のサトリア、商工階級のウエシア、そして90%を占めるスードラ。安倍晴明ではないけれど言葉は「呪」だと思っています。変に言葉を覚えると、聞きたくないことまで聞こえてきますよね。それが「呪」となりますから。 つまり気分を害したり、あの娘はこんな物言いしてるんだ、と思ったり。民俗学みたいなことで村に入り込んで研究となったら、やらざるを得ないと思いますが、英語ひとつ満足に聞き取れたり、話したりできないのに、なんで今更別の外国語をと思ってしまうのです。もう時間はないわい、とも思いますね。 しかし、言葉は文化ですから、たとえ聞いたり、話したりできないとしても、僕は興味本位で、日本語、英語、インドネシア語、バリ語2種類(丁寧な表現とくだけた表現)を見て、結構楽しく言語の背景にあるものを分析しているわけです。 それやってると、カーストというのは現実の中にしっかり根付いているんだなって思いますね。で、実際、今回バリに来て、早速アキさんに聞いてみたのです。 「たとえばね、アキちゃん、ワヤンはどの階級?」 「スードラですよ。」 「あっ、そう、で、ワヤンとブラーフマナのグスと話をする時どうするの。」 「ワヤンはブラーフマナに使う言葉なんて知らないから話はできませんよ。」 「え、できない?」 「ええ、だって知らない、使ったことなく育ってますもん。」 「うーん、そうすると、会話はどうするの。」 「インドネシア語ですよ。」 「あっそうか。インドネシア語か。インドネシア語は尊敬語も謙譲語もなかったよね。ごく、平等、単純・・・」 「そうですね。」 「そうすると、どういうことかな。かなり距離感をもって話しているわけ。どんな風に考えればいいんだろう。尾鷲弁と標準語という関係みたいなものかな、それとも日本語と英語という感じ?」 「標準語を話すという感じでしょうね。」 「尾鷲弁では『愛してるよ』なんて絶対言えないけどね。東京へ行ったら、言えてしまうみたいな、そういう感じかなあ」 「ブックツリーはイダ・バグスとかイダ・アユが多いから、グランブルーやマッサの連中は恐くって話かけられないと言ってますよ。」 「話かけづらいのかな。僕は意識して、ブラーフマナの人たちを採用したわけじゃないよ。たまたま後で知ることになった。」 メルマガで「バリ語探検」をやり始めて、そういう言葉の問題に驚いたのです。丁寧語とくだけた言い方はまるで別言語なのです。 「そうするとね、スードラの女性が、ブラーフマナの男性と結婚するとするよね。そうしたら、男性側の両親と日常生活を共にするわけだろう。それはどうするの?」 「それができないんですよ。黙ってる。かなり賢明で、知恵があって芯が強くないとビビってしまうでしょうね。」 僕はこれまた衝撃的事実を聞いてびっくりというところです。 バリのカースト制度は、カーストによる分業もなければカースト間の経済的相互依存関係はないといいますね。不可触民という考え方もないそうです。貴族層の女性が平民層(スードラ)の男性と結婚するのは禁じられているが、その逆はOKなのだそうです。言葉の問題が大きくあるのでしょう。スードラの女性がブラーフマナの男性と結婚した場合、頑張って努力すればブラーフマナの夫の両親に使う言葉を獲得できる、と考えられますが、逆に貴族の女性が嫁いだ先のスードラの家族の言葉に合わせていくのは相当困難な気がします。 そういう習慣を認めて生きている、ということは何かいいところがあるからなのか、今度その辺をスタッフたちに聞いてみます。が、 僕はご都合主義の古くさい過去が残っているだけで、ちっとも良いことなんかではないと思っています。 2001年5月31日 福耳のこと シェラトン・ヌサ・インダーはこじんまりとした中規模のホテルである。中規模といっても、グランドハイアットなどの超大型ホテルと比べての話である。 このホテルの誰か、例えばホテル敷地内のデザインを担当する人か、コンサルタントの人かはわからないが、誰かがブーゲンビリアと蘭に相当こだわっているように思える。 例えばヤシの木に、ブーゲンビリアを巻きつかせて巨大なブーゲンビリアがプール周辺にある、と思えばフランジパニ(プルメニア)の木に、蘭を寄生させるように工夫をしている。ひたすらアンティークなものを置いて、心を落ち着かせようとするホテルが多くなっているが、シェラトンはあらゆるものに工夫を加えることで、ホテルを演出しているようだ。 久しぶりにリゾート気分である。年老いた、だが若い母といっしょであり、同じ部屋に寝泊りするのも28年ぶりのことである。僕が大人になってからの母の習慣的なことや、食事の好みのことや、何に好奇心をだすのか、知らなかったからこの旅行で観察し、育てられていた時には見えなかったことも経験している。 昨晩、ホテル内のビーチ脇にあるシーフードレストランで、「父さんの耳は福耳なのに、どうして大金持ちにならにのか、と占い師に聞いたことがあるんさ。そしたら、その福耳の福はあなたのことですよ、って言われたがな」 と笑いながら言った。 「あの人は、私がおって得したと思うよ。」 そう言いながら、これまでの人生を肯定し、今バリにいることを喜んでいる。70歳になる前、「もうこれ以上一緒に暮らせん、離婚する」と騒いだのは何だったのか。まあこんなものだろう。 「この人といっしょにやってきて本当によかったのだろうか、悔いはないか。」 誰もが事ある度に思うだろう。そこで自分にもう一度深呼吸して問いかけてみる。「なぜ、そんな問いかけを自分にするのか」と。 実は、そういう問いかけを何度も自分自身にすることの先に、「決心」さえすれば、別にどうのこうのと言われる時代でなくなっている。世の中全体が離婚に対して大らかになっている。 母たちの世代、さらに10年下がり、20年下った世代には「決心」の前に様々な妄想があったに違いない。「世間体を気にする」などと言うのは妄想である。離婚によって世間の人がなぐりかかってくるのものではない。せいぜい「別れたんだって」と事実を言われるくらいである。 母や父はどういう思いを経て今いるのか僕は知らない。そして聞くこともしないだろう。夕食の席で、それっきり「福耳」についての話も深まらなかった つまりそんな思いもあったという思いが流れたのである。 2001年6月1日 ケチャ ケチャダンスを演じるグループが一体バリ島に幾つあるのか知らないが、見るたびにちょっとずつ違うのは、グループのせいなのか、同じグループのものでも少しずつ変化してきているからなのか、これまたわからない。毎回グループ名など記録しておけばよかったのである。 トランス状態にまでなるケチャダンスというのを見たことがないが、トランス状態のケチャダンスを想像すると、相当迫力があるだろうな、と思う。 よそ見しているダンサーや、ヘラヘラ笑っているダンサーが一人でもいると興ざめてしまう。こういう興ざめのないケチャダンスは、これまでオベロイホテルで見るグループのみであった。 声のそろえ方、息の吐き方、摩擦音の出し方などが、見事に一致していた。よそ見する半端な野郎もいなかった。ケチャダンスを観賞する際いつも期待するのは、途中で現れる女性の歌である。この声は年輪を重ねた女性の声でないと、調和しない。しかも声が地の底から夜空に響き渡る声でなければならない。 こういう声を持った女性は、今まで僕の知る限りただ一人である。これも残念なことだけど、どのグループに所属している人なのかわからない。写真にだけは撮ってある。 今度偶然出会ったらぜひとも報告したいと思う。実は3年ほど前「バリの音」というCDを作った時、この女性の声が素晴らしくて、CDに収録したのである。取材のテーマが違ったため、グループ名、女性の名前をCDのインレイに書かなかったのだった。そして以後資料を紛失してしまった。 ケチャダンスを飽かさずにやり抜くには、手振り、身振りを変えたり手拍子を加えたりするだけではあまりにも小手先の技というだけで、このコーラス舞踊劇の真髄は緊張感の調和が忘我感の調和に達するところにある。 この間に、男性と女性の独唱が入り、合いの手のように入る気合の入った掛け声、基調のリズムを刻む男性の声が盛り上げていくのである。 すごいグループのケチャダンスは、始まったとたん、感動を呼び起こすものである。なぜなのだろうか、と考える。太古の時代の脳のある部分が呼び起こされるのかも知れない。人間は一人ではなく、二人以上の調和を希求してやまないのかも知れない。 2001年6月2日 化身の劇 ティルタ・サリの「レゴンダンス」にはいつも唸らされる。特に「レゴン・ラッサム」を踊る主人公は少女ダンスとしてはギリギリの年齢になろうとしているように見えるが、円熟味がでている。3年前もすごい踊り手だと感心しきってしまったが、今回見ると、速さやきれに、演技力に磨きがかかり、微妙な微笑も、緊迫した表情も、鳥になった時の鳥のような目も、ゆとりさえ感じられる。上半身、下半身、手の指先、足の指先、目の動き、華麗さ、拍手パチパチものだ。 この3年の間、何度も見ている。以前はプリアタンの寺院のような屋外の舞台で見た。これは雰囲気があった。松明がある。おおきな割れ門がある。やがて月が昇ってくる。まさにレゴンダンスというような舞台だった。雨が降り始めると、少し離れたところにある屋内に観客が移動した。 今回は、初めから屋内だった。照明装置もつけられ、トイレも備わり劇場となったのである。雨の日もできること、トイレも備わったこと、椅子になったことで便利になったのだが、やっぱり屋外の方が良かった。 ティルタ・サリは金曜日の7時30分から見ることができる。レゴンダンスが終わると、バロンとランダの戦いの劇がある。僕はランダファンなので、ランダの登場が待ち遠しい。最初、猿が出てきて、次にバロンが出てきて、悪戯をする猿をやっつける。ついで、ランダの子分チュルルックが登場する。実はこのチュルルックはドゥルガという女神から使わされたものらしい。そしてどうどう最後に女神の化身、魔女ランダが現れる。ティルタ・サリの舞踊団ではこの演目も見ることができる。 化身の劇である。定かではないのだが、猿もチュルルックも、バロンやランダも我々人間が深いところに持つ何ものかの化身なのである。 僕の中にチュルルックの顔がある。猿のような顔もある。もちろんランダもいる。バロンもいる。この化身劇に人間が二人登場する。親分っぽい男と狡賢そうな男。二人は化身ではなく現実の人間の姿である。それは突如、僕らの内面から出てくるバロンやランダではなく、身につけてしまった世間での自分、自分はどう見えるかという外観を表わしているように見える。おどけた奴がいる、威張った奴がいる、誠実そうな人がいる、無口の人がいるという風に。 二時間があっという間に過ぎて、きらびやかな黄金色で染まった空間は闇となるのである。 ぜひバリにきたらティルタ・サリのレゴンダンスをお奨めする。 2001年6月3日 再びバリのカースト バリのカーストについて、もう一度別の角度から書きたい。バリ語そのものがカーストを認める言語体系となっていることは前にも述べた。 このことを僕の住む尾鷲の方言を例に出すと、代名詞と助詞で力関係を表すようになっている。 男同士の関係で 1.AがBよりも喧嘩が強い場合 A:いなことのねえちゃん、かいらしんにゃあ。 B:そうかな。 *訳すと、A:君の姉さんは可愛いね。 B:そうです? 2.AとBが対等、親しい関係の場合 A:いなとこのねえちゃん、かいらしんにゃあ。 B:そうかれ。 *「そうかな」が「そうかれ」となる 3.AがBよりも喧嘩が弱い場合、またはAがBにへりくだる場合 A:あんたとこのねえさん、かいらしんな。 B:そうかれ。 4.AとBが対等でそれほど親しくない場合 A:あんたとこのねえさん、かいらしんな。 B:そうかな。 となる。だいたい人間関係として、上と下、下と上、親しい同等、距離のある同等の四つに分類される。 10年ほど前、スナックでこんなことがあった。僕とNTTの支店長とスナックにいったら、そこにNTTの社員がいた。その人は僕の先輩で尾鷲の人である。 NTTの支店長と僕は親しく、丁寧は言葉でやりとりをしている。僕の先輩は、僕に上から下への言葉使いをする。支店長はあわてて、これまた上から下への標準語で「そんな言葉使いやめなさいよ」と言う。僕の先輩は支店長にはへりくだった喋り方をする。 こういうことはバリでは日常茶飯事だろうし、言葉の使い分けは尾鷲弁など比較にならない。上下、カースト関係は厳しいのである。日本においても尾鷲のような山と海の町では、会社をやっていく場合でも、言葉のうえで、職階が難しい。結局年功序列が波風を立てない、となる。 若い上司に、その先輩の部下というのは、言葉を克服するだけでたいへんなことである。 おのずから言葉は他所の方言の標準語っぽいものとなり、距離をおいた話し方になると、関係は「水くさい」ものとなる。 バリ島はより難しい。おそらくバリ島はもっと言葉の制約がきついのである。 我々スタッフのイダは学校ではインドネシア語ですべてを学ぶ、というので、自分の子にはバリ語を忘れさせず、家の中ではできるだけバリ語を話させるようにしている、という。僕もバリ語ってどんなものかしらなかったので、「あっ、そう。」としか返事しなかったのであるが、今思えばとんでもない話である。人間の関係を狭いところにとどめておくことになる。言葉によって自由がきかなくなる。 僕の場合、今でも幼い頃の同級生と会うと言葉に困ってしまう。呼び捨てにしていたのを急に「〇〇さん」とか「〇〇君」とか言うのにもなんだか妙で、ぎこちなくなってしまう。 インドネシア語はその点では対等であり、雰囲気は英語に近い。おそらく、よそから輸入してきた言葉に違いない。人々の中でインドネシア語が自由に飛び交うようになれば、バリのカーストも実質的に消滅してゆくのだろう。 2001年6月5日 ひっかかること 珍しく朝方激しく雨が降った。まどろんでいたがなんだか雨が懐かしく、今日一日中降ればいいのにと思いまた眠ってしまった。 ロンドンの会社から、僕あてに採用しようとしている人物について、どういう人物でどういう能力があるのかという問い合わせのファクスが入った。3年半前に会社を辞め、ロンドンに行った女性のことである。 どういうわけか、最近グランブルーを辞めた人二人から、同様のレターが欲しいという依頼があった。 新しく雇い入れる会社は、インタビューや試験だけでは判断がつかないと思っているのか、それとも大きくなってしまった会社の形式的な事務手続きなのかわからないが、僕ならそういうことはしないな、と思い、そう言えばしたことないな、と思った。 能力など、わかるものではない。見方によって変るものであり、その人間の置かれる立場、状況、境遇によっても違ってくるものであることは知っている。放っておくか、と思ったり、悪いかな、と思ったりして、結局今日は書かなかった。参考程度にするのだろうが、健康面のことまでたずねている。 これからは遺伝子検査表まで出すことになるのだろうか。この前テレビで、遺伝子検査を受けた男性が肺ガンになる可能性が高いと診断されて、その後、定期的に検診を受け、そしてやがて早期の肺ガンを見つけ治療した、というルポを見た。遺伝子治療のおかげです、という感想をその男性は言っていた。 ひとつの新しく登場する技術。必ずその意味に相反するものがあると考えておかなければならない。遺伝子診断がすべて善であるというわけにはいかない。 話を元に戻す。 どうも回答しにくい。元気で、好奇心にあふれ、編集の仕事もほぼ一人前に出来る人です、とでも書けばそれで済むし、それで間違いがあるわけではないのだ。 能力について語る資格当方になし。 健康について喋る権利なし。 御社の職種なんだかわからず。 プライベートな事項書く意志なし。 ご自身の判断でリスクを背負られよ。 とでも書こうか。 つまり、そう、僕はひっかかっているのだ。他人の就職に僕を巻き込んでくれるな、と。 それにしても涼しい一日だった。今回のバリは6割くらいのエネルギー量でやっている。まだバテていない。 2001年6月7日 夢をつかむか 今日は村の祭りがあるらしく、近くからガメランの音楽が聞こえてくる。虫が鳴いている。時々ゲッコーがキリキリッと鳴く。 インドネシアでビジネスをする場合、インドネシアの銀行は日本の企業にはお金を貸してくれない。預金は誰でもできるのである。 定期預金は今、14.5%の年利である。その利息は普通口座に振り替えられ、普通口座では、10%ほどの利息がつく。利息に対して20%の税金が差し引かれる。 収入の道が日本にもある人だと、インドネシアで払った税金分は控除され、残ったお金と日本での収入を合算して申告することになる。 このようなことがやりやすいように、インドネシアの銀行はその体制をとっているかと言うと、「利息計算書」もくれない有様なのである。利息は3ヵ月ごとくらいに変動するから、一年経って申告しようとなるとたいへんな計算で自分でしなければならなくなる。1,000万円の元金に対して145万円ー20%の手取りは魅力である。日本を2−3度往復してもなおバリで余裕で生活していける。 これに目をつけたインドネシア政府は「退職者ビザ」などというものを作って誘い込みをかける。まだ、僕自身、お金を貯えてとか、老後のためになんらかの準備をするとか考えたことがない。妻の方はどう思っているか知らないが、そういうことにあまり表立って言わない。 これまで大貧乏を一時期、大大貧乏を一時期経験した。貧乏に関してなら自信がある。貧乏しても豊かにのほほんと暮らしていく術とか、もうすぐ大貧乏になってしまう、という人は、相談してくれればいつでも相談に乗る。自信を持って教える。 悠悠自適の生活なんてあるもんか。縁や運命は向こう側からやってくる。やってきたものに自分が乗ってしまうかどうかは問題だろうが、我々はなんとなくやってきたものに乗ってしまうのだ。 「夢をつかむ男」などというものもあるが、自分から夢をつかみに行こうとしてできる人などというのは、いるのかも知れないが、ほんの少数でしかない。 天才は夢をつかもうなどと思わず、やっている行為が自分でもわからない程の無我夢中で、そのまま死んでゆくように思うから、夢などと言っている人に夢の実体はやって来ないように思う。つまり、人間はそんな風になっている。 さて、自分はこれからどうありたいか。こう考えると様々な思いが浮かんでは消える。そして、自分はどうありたかったのかと問うてみる。どうありたかったか。演出家をやってみたかった。寿司を握ってみたかった。バンドをやってみたかった。一遍の小説を書いてみたかった。しかし自分の能力はそんなものに適していないのかも知れない。今、生きることが最大限自分を発揮できているのではないか、自分はこんな風にしかあり得ないのではないか、そういう心境にまで来ている。今「ピカレスク」を読んでいる。太宰治と井伏鱒二の話である。太宰よりはずっと健康で、心のキズと言えば、「ゴキブリが恐い」ことくらいかな、と思えるほどのもので、よかったな、と思う。 銀行利息の話がこんな風になってしまった。今日はそういう仕事をしたのである。 2001年6月11日 境界 自分の部屋で、フリチンでいても何も言われることはない。部屋を一歩でると、そうはいかなくなり、パンツ一枚くらいははかなくてはとなる。さらに居間にいけば、リラックスできる上下の、まぁパジャマくらいのものを着なくてはとなる。玄関、トイレ同様である。 家の中というのは、人間の関係性により、そういう風にできている。つまり、家の中には「まるっきり個人の自由」なところ、家族が集まるところ、他人が入ってくるかも知れないところに分けられている。これがだいたいの日本の家の空間的な構造である。 居間も、玄関もトイレも、他から視線を無視して、家全体を自分の部屋のようにしてしまうことを許していると、おそらく他人の視線がわからない人間になってしまう。家の中での延長上で学校という社会にいく。家の中でふるまってきたことが学校のクラス内では通じないということが起きる。 フリチンで町を歩いていれば、おまわりさんに注意されることは誰でも知っている。しかし、家の中で自由気ままにふるまっていたことを学校のクラスに持ち込んだ場合はわかりにくい。このわかりにくさが現代の精神の問題のひとつのような気がする。 もうひとつ、家の中では妄想にふけることも自由であり、もっとも妄想が湧きやすい。しかし、一歩外に出れば妄想は湧きにくい。社会という場所では、周囲の視線があり、動きがあるから妄想が湧く暇がないのだ。家の自分の部屋でカエルを殺し、解剖する。すると快感であった。また、もう少し大きいカエルをつかまえて殺し、解剖しようと妄想する。妄想だけにとどまっていればいいのだが、やらないと気がすまなくなる。妄想が膨らみ、感情が抑えられなくなる。妄想どおりの行動に出る。好きな人ができた場合のことを考えてみるとよい。我々は妄想する方に進んでしまう。 ここで普通、生まれた時から家の中で他人との関係性の基本ルールを学んでいたら、つまり玄関とはどういう場所で、自ら玄関は玄関として扱う約束事があるのだ、と学んでいれば、妄想することもブレーキがかかったり、別のもとをすり換えたりするだろう。 戦後日本の社会は、核家族化し、個人の自由の方へと経済発展とともに進んできたが、足元での、つまり家庭の中でのルールを存外考えることなく、今日までやってきてしまったのだと思う。 一方バリ島。個人の自由など、妄想にふける時間などどこにもない。家族の者、親戚の者、禁書の人、友人、入れ替わり立ち代り現れる。トイレの中と食事の時だけが一人になる時である。 だからいつも庭や、人が腰掛ける場所などはきれいに掃除されている。 他人の眼を煩わしいと思う。思うがここが問題なのである。煩わしいからと言って、極力他人から逃れる、自分の都合、自分の勝手だけに合わせる。あるいは生まれつきそのようでしかあり方を知らない、とまでなってきたら、この社会は病気の社会である。 今のところ、バリ島とアメリカあたりの国の半々くらい互いの集合が交わった斜線の部分あたりがよいのかな、と思う。 もちろん、人間の関係性の問題が誰にでもわかりやすい言葉で流布され、認知されてきた社会はもっと良い社会だと思うが、さしずめ、都市と田舎の境界線あたりのところと言っておくとわかりやすい。 2001年6月12日 恋愛 夜半から今日も雨が降り出した。しばらく同じような天気具合が続いている。 今日もいろいろあった。そのひとつ。 ブックツリーのスタッフが同じグループ内の他店に派遣している男性フタッフを連れ戻したい、と言う。どうしてか、とたずねると店の女性とのことで噂がでているのと、仕入の値段が下がってこないのは妙だと言う。 バリ人たちの間では、同じ会社で夫婦が働くことは、家の儀式を行ううえでも、会社が二人同時に休まれたのでは立ち行かなくなるという、バリヒンズーに根ざした考え方がある。 社内での恋愛もかなり用心深いように思える。店の女性はこれで二度目である。男性はやがて会社に居づらくなったのか去っていった。またか、と笑ってしまう。 まさか、別れろ、と言うわけにもいかない。どこでもよくある話である。自由に恋愛をやればいいわけだが、どうしても漏らす者が出てきて知れることになる。知れると、誰が喋ったんだ、と言うことになり、嫌気がさすスタッフも出てくる。 ああ、困ったものだ。こういうことを「恥」とする気分がバリ人には共通して強いような気がする。バレたことがわかれば、男性は会社をやめていくかも知れない。黙って見ているよりしようがない。いや待て、ここはきちんと言っておいた方がいいか、判断にあぐねた。 そして、かくかくしかじかで言うけれど、あれこれあれこれと説明し、その男性スタッフにこういうことで会社を辞めることがないよう、そして配置換えをすることを申し渡した。女性の方はこのまま仲が続き、結婚するようなことになったら、会社を辞めると、自ら言った。 ふーん。会社を辞めるかあ。恋愛はオープンであってもいいけれど、周囲の状況によって秘め事にならざるを得ない場合もある。1対1の関係、特に男と女の関係は特別な幻想の領域である。理性以前の本能というか感情であり、こればっかりはしかたがない。これはたとえ相手方に夫や妻がいたとしても、起ってしまったことはいたしかたがないというものだ。 ただ、どんな恋愛にしろだいたいが周囲のものを巻き込むものだ。そこがこの嵐の本質的なところである。僕は会社およびそこで働く人々との関係で無関係であってもいいものが、巻き込まれ、うーん、困った、と言っている。 2001年6月13日 ボティボードのことなど 連れがいたため、今回のバリ滞在は、気ままに過ごせなかった。日曜日にどこかに出かけたり、夜ひとりになって、テレビを見たりあれこれ思ったりできなかった。 今回の目的は会社の規程づくりの完成であった。だから、もっと時間があると思ったが、やはり連れが一人あると一人の時間はずっと少なくなってしまう。 毎日が講師みたいな仕事である。経営計画書とは何か、なぜ必要なのか、バリの人たちにもわかってもらわなくてはならない。中核になるスタッフが必要である。 良い天気が続いている。クタも毎日夕陽が見える。サーフィンについてはあまりよく知らないが、尾鷲の近くの浜にもサーファーが来ているから、そこの波と比較するとクタの波は断然高い。だが、映画 「カルフォルニア ドリーミング」で見たほどの高さではない。映画では高い波の上に乗るというより、押し寄せる波の山の内側にうまく乗っていたような気がする。クタの波はそれほどでもない。よくわからないが、初級・中級者には面白い場所かも知れない。もしかしたらボディボードには最も適した波なのではないか。 恐らく僕が十代でクタの辺りに住んでいたらやりまくっていただろうと思う。昼間テニスをするには暑すぎる。ゴルフも汗かきかきだろう。 レストランには様々な国の人が来る。サーファーグループがどっと来る時もある。オーストラリアの若者たちは本当に几帳面に割り勘で飲み食いする。イギリス人はカップルが多い。このレストランが珍しいのかほとんどの人が写真を撮る。みんな遥か遠くから来た旅行客で、リラックスしてバリの時間を過ごしている。 バリ人はと言えば、サーフィンをして遊ぶことを羨ましいとも思わねば、カップルでひそやかに夕食をすることをねたましいなどとは思っていない風に見える。仕事の役目が終われば、バイクで村に帰る。クタでもレギャンでも大通りを脇に入れば、もう、バリの村である。バリ人たちだけの生活がそこにある。途中、盛り場で一杯やっていくということもなければ、仕事帰りにみんなで居酒屋に、ということもない。淡々とし、旅行客と自分たちを区別している、 ジゴロであっても、夜も更ければ、村に帰るだろう。ホテル住まいのジゴロも多くいると聞くが、数にしてみればごくわずかであろう。 いずれの時代、バリ人たちも夜の喧騒の中に多く現れるかも知れない。観光客を楽しませるのではなく、自分たちが楽しむために。 いつも思うことだが、レストランで見る日本人の印象がとても良い。男性も女性もなにか大らかで、クタクタという感じがしない。「都会での仕事はストレスが溜まるんですよ。」とよく聞くが、ストレスのありそうな人なんかいないように見える。バリに来て顔つきまでゆるやかになり、和むのだろうか。僕はいつもそう思うのである。 日本の若者は、おじさん、おばさん観光客グループなんかよりずっとたくましく、礼儀正しいように見える。 2001年6月14日 空港にて 夕方6時半頃に人が来て、10時半頃まで食事をしながら話をした。引き上げて、パッキングをしようと思っていたら「地球の歩き方」の編集人が来ているという。もう時間がない。さっさとパッキングをして、応対しようと、汗をかきかき荷物をまとめ、急いで戻ると、その編集人は明日、取材に来ると言って帰ったそうである。大きなプロモーションだから、頑張ってやるようにと幾つかのアドバイスを与え、グッドラックと言って、タクシーに乗った。 空港は僕がバリの中で一番嫌いなところである。何度来ても慣れない。ビジネスビザへの税金、空港使用税、これは文句がない。イミグレーションで、何か金目のことはないか、嗅ぎまわっている男たちが嫌いなのである。何も悪い事はしていないのになんだか嫌な気分である。これは何だろう。もう帰るという時に、またひとつ緊張しなければならないことが嫌なのだ。過去、出国カードがないとか言ってストップになったことがある。空港の外にある入国管理事務所でマルチビザを更新した際、故意にか、ミスでか僕のパスポートにはさんである出国カードを抜き取ったか、もう不要なので抜き取ったかわからないが、とにかく僕は一応ストップをくらったのである。こういうことが最後のところであるのである。 さて、イミグレを無事通り過ぎたら、ガルーダ888便は、40分遅れである。 空港から店を出さないかという話があった。それでブラブラ店をまわってみようと思った。空港は年々整備され、店も多くなった。まだ店を増やそうとしているのか。 パンなどを売っているコーナー。30分でパンを買う人3人、コーヒー4人、ミネラルウォーター1人、コーラ2人、ビール3人。一人あたり約15,000ルピア程。15,000×13で165,000ルピア。この調子で18時間あったとして165,000×36で5,940,000ルピア。約日本円で7万円、などとこれを書きながら勘定している。 このコーナーの店員が、僕に一万円札を千円札に両替してくれないかと来た。日本人がルピアを持ってないらしい。あいにく千円札や五千円札で一万円を持っていなかった。ルピアがあるのでその日本人にどうぞ使ってください、と渡した。 すっかり、これまでの二週間のことが現在完了形ではなくなっている。気持ちは過去である。 人間の気持ちというのはかくも変化するものかと思う。アナウンスがあり、ガルーダ名古屋行き888便は再度遅れるという。これで完全に尾鷲に到着するのは午後3時を過ぎる。 「明日のことなんて、誰がわかる?」とオカが言ったのを思い出した。この言葉を聞いたような気がする。確かバリ人かインドネシア人を理解するための本でだったような気がする。この言葉が生きるためのキーワードになっているのではないか。近視眼的なワイロ、ちょっとのごまかし、ふんだくり、ふっかけ、も共通のキーワードからあふれ出ているものかも知れない。 つらつらそんなことを思い、空港の片隅にいる。係員が来たので、「パンは一日いくつ売れるん代」と聞くと約100個と答える。「コーヒーは」と聞くと「100杯」と言う。だいたいあたってるな、と思っていたら、搭乗の案内があった。 「明日のことなんて誰がわかる?」か。 |