| 2001年4月14日 離れてみれば イダの奥さんがこの頃頻繁に意識がなくなり、そのたびにイダが仕事を休むという事態が続いている。イダとイダの義理の両親(つまり奥さんの両親)は病院に連れて行き、バリアン(呪術師)に行き、ついにはロンボク島まで薬を買いに行った。 僕がその症状から察するに、過呼吸症候群であろうと思われる。突然息が苦しくなり昏倒する。 イダと結婚する前から奥さんにはそれがあり、その後二人の子供を産みその子供たちが一才、三才となってきたところで頻発して起こるようになった。 僕が僕の知っている知識で組み立てる限り、解釈はこのようになる。 イダの奥さんは一人っ子だった。しかも女性である。当然このバリ社会では、まず男の子を親は望む。しかし生まれたのは彼女だった。男の子が欲しかったに違いない。男の子が欲しいと次の子作りをするのだが、結局その後子供はできず世間体を気にしつつ彼女は大学まで行かせてもらい、可愛がられて育ったのである。 もちろんこの間、親の思いもすべて彼女にプリントされている。男の子が欲しかった思いも、今度こそ男の子だという思いも、養子を迎えなくてはという思いもすべてである。 イダは学力優秀。イダバグスという第一のカーストの地位も誇りにしている。だが、学校で二番だったので大学に行けず、どうしていいやらわからず、客が来ない旅行代理店で運転手をしていた。事務所の一隅に二畳ほどのスペースのある物置きに住まわせてもらっていた。イダはシガラジャから出てきたのである。 やがて彼女と知り合い彼女の突然起こる昏倒にも同情し、(ここは僕の想像である)いつしか愛し合うようになり(または結婚してもよいという風になりーこれもぼくの想像である)、イダは長男にもかかわらず結婚をし彼女の両親の家に彼女と共に住み始めたのである。 イダは僕と知り合うことによって生活の水準が上昇してきた。子供も大きくなるに従って、義理の父母の無責任な可愛がり方にも妻に異を唱えるようになってきた。養子のように彼女の家に住んだイダだが、本当の養子ではない。イダ・バグス・スパルサの家は自分が継いでゆくのだと思っているだろう。(これもぼくの想像である。) 今日、僕らは5時30分にバリの空港に着いた。イダが来ていた。今日は国民の祝日で休みのはずなのに、である。僕はその前にこれまで書いてきたことを伝えたおいた。 仕事を休むことが頻繁なので、きっと彼も気に病んでいるかも知れない。 「イダ、奥さんはどう?」と尋ねると、笑いながら 「今は大丈夫。」 「僕が知る限りでは過呼吸症候群だ。ストレス。緊張。これが原因だ。肺をとりまく副交感神経がやられていて、緊張を吸収できない。それでその緊張を解こうとするのだが、一時的に心停止に陥る。詳しくはわからないがきっと〈関係性の問題〉だと思う。この際、彼女の両親とは別に、イダの奥さん、子供たちだけで暮らしてみては?」とつい言ってしまった。 イダは 「病院でもバリアンでもよく似たことを言われたんです。この際別々に暮らそうと思っているんです。手紙も読みました。僕もなんとなくそう思っていたのですが、とにかく両親とは別々に暮らします。」 僕はこれで彼女の病気は治ると思っている。 離れたら、気持が遠のくということがある。離れることによって、互いの感情のよせ方が違ってくることがある。 人生のひとつの大きな選択である。彼女の親は辛いだろうが。イダが仕事を続けられなくなったら、すくなくともイダは困る。みんなも困るに違いない。 とここまで思ってなおも疑問が残る。むこう側の親にしてみれば、イダには仕事で頑張ってもらわずともよく、娘と一緒に住んで娘が男の子を産み、貧しくともそれでやってゆけばよいではないか、と思っているかも知れないということだ。 ここから先は、このバリ社会の行方と同じである。 2001年4月15日 ベッドを北向きに いつも泊まるアクエリアスホテルの25Aは庭付きで台所もあり、花の壁で包まれており快適なスウィートルームである。部屋は当然広くベランダも広い。それで20ドル。これを交渉して18ドル。 以前部屋はヨーロッパのホテルのように暗いので、マタハリで球形の蛍光灯を二つ買って取り付けた。電気ポットも常備しなるべく快適になるよう工夫した。 今回は真っ先にベッドの位置を変えるつもりだった。これまで熟睡ができず夜中に必ず目を何度か覚まし、この点だけが落ち着かなかったのである。 ある日、サヌールで日本人のおじいさんと出会い、その人は物知りな方で「そりゃあダメだよ。西側に頭を向けて寝ると、血液が頭の方に昇ってしまうよ。」磁気の関係だそうだ。たぶんきちんとした科学的裏付けがなくても(その方は科学的に言っていたのだが)、こういうことはバリ人の習慣を聞けばわかることだろうと思い、オカたちスタッフに聞いたのだった。すると、バリでは西の方角に頭を向けて寝てはならない、と言われているそうだ。ははん、なるほど。このせいだっと思い、今度バリに行ったらベッドの位置を変えようと思ったのである。 そして、早速ホテルのスタッフといっしょになってベッドの位置を南側に変えたのである。北か東だとみんな言うので北にした。このことをホテルのオーナーに言った。 「どうしてこのホテルはみんなベッドは西向きなんだい。」 「外国人はそんなこと気にしないと思って。」とニョマンが答える。ニョマンも寝る位置などはバリ人はこだわるけれど外国人にとってみれば迷信みたいなものかも知れないと思っていたようだ。 人間が長い年月をかけて知ってきたことはそれほど間違いがあるとは思えない。きっとそれらのことは科学の力によってやがて証明されるに違いない。 それで一泊目。なんと熟睡だった。夜中に一度も目を覚ますことなくトイレに行くこともなく朝8時までぐっすり眠った。 次に、一日に使う僕の身体のエネルギー量を日本にいる時の60%程にしておこうと決意をしてきたのだったが、これは無理だった。立っているだけでも暑い。そしてやっぱりあれこれと気づき、指示することが多い。明日があるさ。 2001年4月16日 ようこそバリへ 濃密な昼の陽射しと夜の闇。神々もまるでバトゥワンスタイルの細密画のようにごちゃまぜになって、人々、家々、村々の中で熱い息をしているかのようである。 このように書き出せば、バリというものの流布されたイメージだけで、想像をたくましく思い込み、さらにイメージ化されバリ島が浮遊してゆく。 このイメージは何に起因するのか。二万もあるといわれる寺院、地下の霊、天界の霊に捧げる供物や聖なるアグン山を象徴した竹の幟、ペンジョールや布の幟、ンブルンブル。 家々の入り口や辻に置いてある石彫や建築物に彫られるバリ独特の木彫。金属の楽器オーケストラ、ガメラン。金色で飾る踊りの衣装。バリ独特の絵画、それに織物や染物。まだある。香り高い花々や果物。レゴンダンスやバロンダンス、仮面劇などの演じ物。わずかな面積のこの小さな島でなぜこのような文化が育ったのか。 このイメージに海のスポーツをからめる人も多いのかも知れない。サーフィン、ダイビングなど。あるいは田園と渓谷のイメージを重ねる人もいるかも知れない。 ようこそバリへ。バリに来ましたらあなたのそばにいつも善霊も悪霊もいると思ってください。あなたが清らかになりたいと思ったら北のアグン山の方を向き、お祈りをし、あなたが自分の底意地の悪さをちょっとでも思ったら、地に向って「すみませんでした」と祈ってください。バリのあらゆる物が、例えば音楽や絵画、舞踊や手織物すべて祈りだと思ってください。バリ島では花を見るということは神となった証です。果物を食すということは神と交わるということなのです。おわかりになっていただければ、あなたはこの島で我執から解放され人々と共に一応元気に暮らすことができるはずです。 2001年4月17日 バリのオーストラリア人 昨日二十年来、年に二度、二週間から三週間程に渡ってバリに来ているオーストラリアの女性と夜中の一時まで酒を飲みながら話していた。同じホテルの滞在客である。バリが変わった、ということが話題になった。彼女は路上の物売り、これこそがバリで、彼らがいなくなったことをとても残念に思っていた。 2年前アメリカ人の男性が地元の新聞、バリアドバタイザーに「観光客よ、クタに行くな。」という投稿を寄せていた。「路上物売りがひどい。」ということで相当悪印象らしかった。その投稿が功を奏したのか知らないが、クタの地元商店の人たちと軍がバックにいる路上物売りたちとトラブルが発生し、一人の路上物売りの男性が殺されるという事件が起きた。その事件以後、おりしもスハルト体制の崩壊と共に路上物売りもクタの町から消え、ある者たちは共同で店舗をもって定着したのだった。僕も相当に煩わしいと思っていたから、路上物売りの少年や若者がいなくなったことに清々していたのだが、残念がる人もいることに驚いたのだった。 彼女にしてみれば、ケアンズは物価が高くとても二週間や三週間の休暇は楽しめない。バリは宿泊もなにもかも安く楽しめる。話を聞いているうちに、路上物売りの若者たちがしつこく追いかけてるのを時に相手したり、拒否したり買うそぶりをして買わなかったりと楽しんでいるのである。 彼女の方が僕なんかよりも一枚も二枚も上手なのかも知れない。旅のすべてを楽しんでしまえ、という意気込みがある。昨年の6月、シルバーの店で突然「これはいくらだ、10万ルピアくらいのもんだな。おい、10万ルピア払うからもらっていくぞ。」と、とんでもないことを言い出すお客がいた。この店は絶対に値引きをしないのである。店員は「30万ルピアだから、10万ではダメなんです。」と応じている。オーストラリア男は意に介さず「何言ってるんだ、これは10万ルピアのもんだ。」と言ってポイと10万ルピアを投げて出て行ってしまった。英語でまくしたてられ、勢いにおされ、憮然とするだけで、そのあっという間のオーストラリア男の行動についていけなかったのである。ひどい男もいたもんだ。店員はくやしそうな顔をして、そして、僕にオーストラリアンはああいうのが多いんだ、と言った。馬鹿にしているのである。 インドネシアとオーストラリアの関係の悪さは存外こんなところが発生源なのかも知れない。理解しようとか、遠慮しようという態度がなく手前勝手に振舞うオーストラリア人が多いのではないか。 先の女性は陽気で明るく、バリ大好き女性だったが、路上物売りを逆に楽しむほど〈手前勝手〉な発想法を持っているのではないか、と僕は疑ったのだった。 2001年4月22日 女たちの抵抗 静かな反乱がバリで起っている。若い世代の女性たちである。バリのほとんどの20代以下の女性たちは、夫方の家に義理の父母と共に住みたくないのである。核家族を希望している。 他所から仕事を求めてきた若い二人はとりあえず一部屋のアパートを借りる。この人たちは核家族を形成する。子供ができて成長してくれば、二部屋あるアパートに移る。 実家がサヌールのような便利なところでは、若い夫婦は二人だけで住むというわけにはいかず、悶々として夫婦生活を続けるのである。 だから、家つき、ババつきみたいな家に嫁ぎたいと思う若い女性が圧倒的に少なくなっている。 赤ちゃんが生まれる。それが男の子か女の子かは大問題である。男の子であるか女の子であるかはしかたのないことではないか。隣近所、親、親戚からしてみれば、代を継ぐものとして男の子が欲しいのだろうが、産んで育てる子は男の子も女の子も我が子である。何を言われる必要があるか。 経済が逼迫しはじめると、女性も働かざるを得なくなる。二人共働きをすれば収入も増える。それだけ女性の主張も通り始める。 バリは今こういう時代である。 ところがここに大きな問題がある。バリ人たちは新築の家を買うことができないのだ。この経済危機以降、またたく間に建築費が値上がり、例えば5部屋のバリ式住宅を建てようと思えば、1100万円要るのである。こんなお金、日々一万円もない給料から払えるはずもないのである。マイホームなどは夢のまた夢。こんな状態が続けば、不満は蓄積されやがてどこかで爆発するに違いない。 ルピアが安すぎる。輸入ができない。生活資材が高くなる。経済活動をもっと活発にしたい。道路事情が悪く、渋滞続きでどうにもならない。それでも都市に人が集中する。バリ島も今はすっかり悪循環の中に入り、どうにも出口の見えない閉塞した状況になっている。 僕の目からそう見える。しかしどっこい、バリ人はそれがどうした、と言いそうな感じである。出て行きたいものは出て行き、外国人も出て行き、オレたちはヤシの木とバナナと米で食べていくさ、とどこかの村の長老は言いそうである。 基本は豊かなのだから。その時女性たちは従うのだろうか。なんだか、従うように見える。 2001年4月23日 夫婦 僕らのホームページを見て、アクエリアスを知り、そして宿泊している安倍夫婦と会った。ご主人が昨年定年退職をし、かねてからやろうと思っていた旅行を夫婦でやっているのだそうだ。バリ、ヨーロッパ、ハワイなど高級ホテルなどには泊まらなくいい、安いツアーを見つけたらパッとそれに参加して旅行する。話をしていると気持ちよく感想や情報の交換ができるので嬉しい。 なぜ、バリ人は急に老けるのか、という話題になって、それは都市生活と農山漁村生活の違いではないか、という意見を奥さんが言われた。彼女の実体験的なところで、のんびりはしているが刺戟の少ない農村の生活を彼女の親を例に出してくれたので、実感的になるほどと思ったのだった。 都市生活は人をいつまでも若く見えるようにするのだろうか。電車に乗る、ショッピングをする、多くの人を見る。様々なデザイン、飾り、ファッションetc. こういったものが自分にも伝染されてそれが若く見えるという風になってゆく。そこを彼女は言いたいのだ。かなり説得力がある。 僕は別の意見を持っていた。こうである。熱帯の動植物、温帯の動植物が違うように、人種によって細胞の時間の流れが違うのではないか。ゆっくり長い歳月をかけて成長して、急に老ける人種(バリ人のように)。早く成長して急に老ける人種(アメリカ人のように)。それはいろいろなのではないか。僕はそのことを昨夜考えていたところだったのである。 時代の段階的な違い、経済背景の違いも当然考えたのだったが、経済、時代段階的な背景に基づく都市というものの像を思い浮かべてなかったので、奥さんの言うことは説得力があった。これは加味すべきだと思った。 ご主人は、今一番楽しいと言っていた。それにしても、元気のよい、好奇心にあふれ、クタの町を歩きまわる、そして仲の良い夫婦を見るのは気持ちがよい。一人では生きられない、ということをよく知っておられる。こういう深さもきもちが良い。 愚痴、だまし合い、しらけきった夫婦をよく目にするのだが、粘りっこくもなく、適当な距離感というか性格の関係というか、そういう夫婦を見た記憶が僕にはないのである。旅はこういう出会いがあるからよい。 2001年4月25日 不気味さ 仕事面での当初の目的はほぼ終わりつつある。決算、税制、会社規則、組織、保険制度、建築物の修理、改装。バリ島内ツアーのオリジナル企画、提携、マーケティング方法の体制の確立、アキさんの事故処理における警察での事情聴取。 制度の面から、インドネシアのわからなさが相当クリアーになった。法による島民生活のしくみがわかってきたのである。個人的な課題としては、バリ島の人々の無意識の中にあるものをもっと手探りしたいということだった。かなりわかってきたような感じもするが、わかりかけてくる分だけ不気味さが忍び寄ってくるという感じである。その不気味さはわかる不気味さである。 例に出せばすぐにわかる。僕の生まれて育った町は三重県の尾鷲市である。三方が険しい山、一方が海に囲まれた町である。山を越えて隣りの町まで行くのに昔なら歩いても半日。同じ尾鷲市内でも旧町内なら山を越えた海沿いの村までは約1日かかる。 このような場所で育つ限り、尾鷲への帰属意識は強く、故郷意識も強い。仮にこの尾鷲にかなりの他所者が入ってきて、住み始める。初めのうちは珍しくて、桃太郎やかぐや姫のように大事にするのだが、他所者の数が段々と多くなってきて、ちょうどイスラエルでロシア人が多くなってきて発言権を増してくる、そんな雰囲気になれば尾鷲人はどうするのか、わかるような気がする。 バリ島は徳島県ほどの小さな島である。そこで人々は外国人観光客を受け入れ、生活の糧とする方向に歩み始めた。観光客は出たり入ったりだからバリ島の人々の生活にまで踏み込んで来ない。こういう気楽さはあったかも知れない。しかし、ビジネスで外国人が滞在しはじめる。クタのような村が都市化を始める。他の島からも観光業を目当てにして人が入り込んでくる。クタはもうすぐ、ジャワや他の島から来た人たちが形成しつつあるスラムを取り払い、追い払うそうだ。 バリ島は就職難である。失業者が多い。ここ数年車の数は増え続け、クタ、レギャン、デンパサールなどは毎日が交通渋滞で経済的マヒが起るのではないかと心配する程だ。これにルピア安が加わり、生活物資が値上がり、ほとんどのものを輸入に頼るバリでは輸入業者も立ち行かなくなる。普通の人々もそれのあおりを受けて、ますます生活が苦しくなる。女性たちは核家族化への思いが強いが、住宅事情がそれを許さない。 すると、ある日高札がでて、 島民に告ぐ 1.他島出身の流民は追い出せ。 2.ホテルの数は外国人観光客用 100、 国内滞在者用 100とする。 3.観光客数は年に50万人とする。 4.外国人事業所は100とし、国内人事務所は1000とする。 5.車の台数を5000台とする。中型バスは1000台とする。 以後、我が島の文化、伝統を重んずる者はこれに従え。 こんな風になるかも知れない。もちろんこれを実行するためには産児制限を設けなければらない。日本にも「外国人打ち払い令」はあったし、「焼き打ち事件」などもあったのである。 こんなことまで考えてしまうバリの今日この頃である。 2001年4月26日 遠い、遠い昔 うっかり帰国日を一日思い違いしていて、結局滞在を延長することになった。26日がレストランの改装仕上がり日であり、それを見届けておかないと悔いを残すことになるかも知れないから25日の夜中(26日1:45出発)の飛行機をキャンセルした。気がついたのが25日だったから、完全に思い違いである。 26日の仕事のこともあったのだが、30日の国民議会の行方も気になっていて29日、30日はやはりバリ島にいた方がよいとも考えた。 2年半前の経済危機の時以上にルピアが下がっている。一円98ルピアとは異常を通り越している。全くの危機である。このような危機状態で、これはジャカルタのことだ、とよそ事のように思っているバリ島の人々は緊迫感がなく、一人一人を見ればどうにもできやしないいというような無力感が伝わってくる。しかし、何かの契機で火がつけば暴動が起ってしまう。暴動は最大の主張である。 * * * 新潟県の湯沢でホテルを経営している玉田さん母娘が、来シーズンに向けてホテル内装を変えるということで、バリ島に買い付けに来られた。お二人は仕事上のことで来たのであるからプールに入ってのんびりと、ともできず、真剣に物を探し、交渉し、この4日間の仕事が来シーズンからのホテル運営にかかわっているのである。 テーブルの上に置くメニュー立て、ルームキー、部屋番号、テーバッグボックスなどはデザインから注文する。その話し合いもバリ人とするわけだから、実際のバリ人とはどんなものかほんの少しの人数だけれど察したに違いない。アジア雑貨を用いることで、玉田さんのホテルがますます賑やかになってくれたら、バリ島と玉田さんの関係は続いてゆく。 その玉田さんたちがブランブルーに見えた時、出前両替屋さんのミコさんが来た。四人で夜中の12時まで「ミコあれこれバリ島」みたいな話になった。何しろバリ島在住5年だから、しかも、阪神大震災3日後のポートアイランド脱出劇だからミコさんの体験はすさまじい。5年の間バリ島で感じたこと、経験したこと、今思うことを彼女は久しぶりの日本語会話のせいかよく語った。 話は時にバリと日本の比較に入ってしまうが、彼女は地べたからバリ人とつきあい、バリを見てしまえ、としているところがある。この点、バリ人を小馬鹿にしたり、軽蔑したりするところがないのでよい。AとBの比較論はややもすると、それだけに終始し最後はどちらかが小馬鹿にしたり、愚痴ったり、嘆いたりするだけである。 アメリカにいる若い日本人で日本および日本人を小馬鹿にする人がいる。バリにいる日本人で、バリを小馬鹿にする人がいる。先日会った安倍夫妻や玉田さんなどは旅人の眼でバリ人を見、なんと言うか普遍的な眼差しでバリ人を見る。人間の共通した原型のようなことろを見、差異を認めて帰ってゆく。ところが人間というものは、長く滞在し始めたら、差異が目につき鼻につくようになってきて、二地点の比較に入ってしまう。比較論から何か普遍性を見い出してゆく態度があればいいのだが、生活の視線だけではそういうところに収斂されていかない。 宇宙あたりからの視線とか、またミコさんのような地べたからバリ人になりきってしまおうと思っているような視線とかが混じると会話も楽しくなる。 不思議に思う。僕らは超消費資本主義の社会で、より科学を発展させ、DNAの世界まで解こうとしている。一方で、僕らは人間の原型的なものを求めている。アフリカやアジアには、何か人間のプリミティブなものが感じられて、何かしら人は出向くのだろうか。僕らの遺伝子の中に、遠い遠い昔の記憶が眠っているはずなのだから。 2001年4月27日 トペントゥアと能 4月の桜が咲く頃、京都へ「能」を見に行った。南禅寺から銀閣寺に渡る「哲学の道」の桜が美しかった。しかし、「能」はそれ以上だった。 僕は「能」をどう見るのかその作法は知らないが、ついつい居眠りをしてしまうのである。つまり退屈なのである。こっくり、として思わず目が覚めて舞台を見る。またこっくり、としてというくり返しである。他にもそんな人がいた。 けれど、一瞬一瞬カメラのように舞台が記憶され、イメージとして残るのである。これを様式美と呼ぶのか。持続する緊張感は見る者に、否が応でも、逆に言えば開放感を与えてします。居眠りがそれだ。 しかし「能」を演ずる人たちは持続する緊張感で演じているのだが、鼓の音や謡などもそうなのだが、観客に居眠りを許すところがあるのだ。しかし残像は素晴らしく、僕はまた行きたいと思い、5月3日にはぜひともと思っていたのだったが、どうもお流れになりそうである。 テレビでバリのチャンネルをかけていたら、所作がちょっとずつ動き、脇の者が身動きしないで待つ、まるで「能」のような仮面劇(トペントゥア)をやっていた。日本の「能」と比べると、様式的な美の要素は少なく、音楽も演じ手も雑多なものをまとわりつけている。レゴンダンスは踊りとして相当高水準で、美的感覚も洗練されたものを持っているが、このテレビで見た仮面劇はやや粗雑であった。 「能」の場合は、音や掛け声、謡、舞台装置、演じ手の動きなど削れるだけ削りそぎ落としているように見える。さらに仮面は一つである、その一つの仮面に悲しみや喜び、恨みや遠慮や狂おしさも凝縮されているのである。(という風な残像感があるのである。)衣裳が特に美の要素ではないかとも思う。ここまで極めて高度化された「美」を日本人は作ってきている。バリ島のものは残念ながら、ここまで高まっていない。しかし「能」の発生に近い原型のようなものを残しているように思える。 「能」は元々何を起源とするか、不勉強で知らないが、ここまで美的に昇華させた日本人にも驚くのである。 2001年4月28日 良いマネージメント よくレストランの者たち「どうしてあのレストランはやめたの?」と聞くと、「バットマネージメント。」と答える。バッドマネージメントには二つある。裏返して言えばグットマネージメントのことでもある。 一つは、オーナーが店のお金を持ち出して、経理をチャランポランにしていまい、従業員がついていかなくなることでやめざるを得なくなる場合。 もう一つは、マネージメントが緩く、おおらかなことをバッドマネージメントという。どんな小さなこともいちいちチェックし、管理体制を厳しくし徹底的にうるさく言うこと。これをグッドマネージメントと言う。一人一人の判断や裁量にまかせること、信用することはバッドマネージメントなのである。 僕は一人一人がいちいち言わなくても、その責任を果たしてくれたらよいと思っているので、さしずめバッドマネージメントなのだが、この頃、きつくしめて、しめてあげて監視の目を光らせ、言い忘れることもないよう神経を使って、完全に管理体制をひく方が、イキイキし始めることを知った。ははあーん、中学生の管理教育と似ている。 マネージャーをやりたがる人は少なく、嫌われる、ブラックマジックをかけられることを恐れるバリ人たちが、会社という近代的な組織を運営していくことはたいへんなことだと思う。 今日は嬉しいことに、グランブルーがやっと最終的に完成した。思っていた80%くらいの完成度になった。オーストラリア人たちがハニムーンパーティーということでグループでやってきて、べたべたにほめてくれた。料理はおいしく、とにかくこんなにきいなレストランを見たことがない、と。階段部分がやっと出来上がり、室内側はクーラーが入った。オープンエア側には白いテントが中心から折りたためるように取り付けられた。 壁のガラスには女性の胸のような、海の底に浮かぶような女性の乳房の形が静かに波打つように並んでいる。世界のどこにもない、ここバリにしかないバリ・ガラスのレストランである。明日から本格的にマーケティングが始まる。帰ることを延期して良かったと思っている。客が来始めた。二階であるハンディはようやく克服されるかも知れない。 それにしてもこれからである。彼らの言う、良いマネージメントの意識を変えなければならない。全部上司のせいにし自分に対しては問いかけをしようとしない傾向がある。これまであまり知らなかった難問である。 2001年4月29日 すごい剣幕 「この前の契約の時、指導者としてきちんとやるからと約束したのが守られていないじゃないか。別のところに仕事を探した方がいいんじゃないか。」とバリ人女性Aに言った。マネージャー、他の二人のサブマネージャーからの報告だと、Aは私用電話を使い、客がいるのに大声で電話で大喧嘩し、とても扱えないという訴えだった。会社規則がようやくできてくる頃で、その前のできごとである。マネージャー側も記録を取っておらず、警告書も出していない。こちらにたいへん分が悪いのである。それで警告書を一枚だすことで済まそうかと思っていたら、彼女はマネージャー、サブマネージャーのいるところで思いのたけを語ったのである。それがすごかった。マネージャーたち三人にして 「私だけが私用の長電話をしているのではない。B、Cもやっていた。DなんかE(マネージャー)の眼をとってしまい、足ももぎっていまわなくちゃ、と言っていた。Eはマネージャーとして何も言うこともできず黙っているだけ。バリ人はこうしろ、ああしろ、これはいけないことだから、こうしなさいと、言われないとどうしたらよいのかわからないのよ。やっていることの何が悪いのか良いのかちゃんと言ってくれなきゃあね。」 必死の反撃である。 Aのマッサージの腕はよく、10年選手で腕には相当な自信があり、その腕を伝授する立場として雇用された。研修期間中はいっしょうけんめいやっていたが、オープンと同時にやらなくなった。それで6月の給料改定の時、僕はインストラクターとして、トレーニングプログラムを組み、指導するよう忠告し念を押したのだった。 「みんな私の言うことを聞いてくれやしない。みんな私をおとしめようとしている。」 「でも、みんなの上に立って、指導してゆくのが君の職務じゃないか。」 「私はしょちゅうやった。」 「しょちゅうっていうのは毎日ってことかい。」 「毎日やった。聞いてもらったらわかるわ。」 「それは誰だい。すぐ呼んでくるから。」と僕は言う。やがて指名の5人が来た。聞くと給料改定以後、一度も教えてくれたことはない、と全員言う。 「どうして嘘をつくんだい。」 「嘘なんかついていない。人間って忘れることがあるから。」 ぼくの約束を守っていないことには神妙だが、マネージャーたちの言うことには断固反対し謝る気はない。裁判所に行くと言う。僕は「どうぞどうぞ」と言うのだが、内心、マネージャーたちも新米で、記録もしていないし、警告書をどのタイミングで出すのか、恨まれることも怖いし、勇気もいることから何も言えなかったようだ。どちらも落ち度があるのである。警告書一枚で済ませようと思っていたのだが、そして今も思っているのだが、Aの剣幕はすごく、断固として私だけが悪いのではない、という主張だった。マネージャーが悪いとボロクソである。契約の時、僕との約束は破っている。ようやく会社規則も完成した。これまでのことは目をつぶろうか、これからは会社ルールにのっとってやっていくのだから。 2001年4月30日 ムングル ヌサドゥアの少し手前で、左に折れるとムングルという村がある。突き当たりが海で、海岸には二、三艘の舟がある。ここから対岸のブノアが見える。 浅い海で、入江になっているためほとんど波がない。バリがこんなに暑くなかったら、そして釣れる魚が美味しかったら僕にとっては最高の場所である。 ここに、イラワティという女性が一人住んでいる。香港、シンガポールとバリ間で商売をしている。詳しくはのちほど「バリでこの人に会った」で紹介するが、彼女はスラウェシ島の漂海民から魚を買い付け、活き魚のままバリに運び、バリから香港、シンガポールに空輸している。 昔、門田さんの「漂海民」のルポを読み、たいへん感動したことがあったので、何か、漂海民にちょっと触れた気がした。 舟が二艘、光と波の中の中で漁をしている。育ちのせいかいつも心ときめく光景だ。イラワティさんはここを死ぬまで離れないと言っていた。外に応接セットが置いてあり、ちいさなバーもある。海がいつも見える。彼女がこのように育ち、どのような考えのもとで仕事をしてきたのか、いろいろ聞かせてもらった。 帰ったら、スーパーバイザーの長がいない。マネージャーが電話をすると頭が痛かったのだと言い、だったら薬をあげるから出てきて、と言うと、今度は子供の面倒を見なければならないと言って断ったそうだ。シェフも含めてその場にいた者はあきれてものが言えず、さあ、どうしたものか。マネージャーはどうするのだろう、と僕は様子を見ている。 イラワティさんはこれまで些細なことはいっぱいあった、と言ったが、それを具体的には語らなかった。些細なことを大事のように言う人がいる。細事を愚痴らず、それを克服したことを自慢せず、たいした女性だと帰り道思ったのだったが、こんなあきれたこともきっとあったのだろう。 二日前にそのスーパーバイザーにも、みんなにも、今後は会社規程に従ってやっていくことを宣言したばかりだった。仕事を引き継ぐことも頭痛が起った場合は会社の薬を使うことも言ったのだった。どう理解したのか、不思議な思いがする。 イラワティさんが笑っているような気がする。 2001年5月1日 帰国 ひとまずバリを離れる日が来た。昨日から暑さも和らぎ、朝晩涼しい。 今回の滞在は三ヶ月ぶりだったことから、僕のいない間のバリのスタッフたちの様子がよくわかった。育ち方がアメリカとも日本とも違うのはわかっているつもりでいたけれど生々しく体験した。 指示する側は一つ一つ細部にわたって指示しなければならない。でないと必ず破れた網のようにこちらの意図とは違うことが起きる。会社の中で働く、法の下で働くという経験が少ないだけの話だが、「会社の中で働くなんて、法の下で働くなんて、いやなこった。」と思っている僕が、会社の中、法の下でこうしなくちゃいかん、ああしなくちゃいかんと言っているのだから自己矛盾である。 グランブルーはようやく仕上がった。ブックツリー、ヤーマ、エステ・デ・マッサも決算が終わった。明日はグループ会社のスタッフを集めて会議を行う。僕から出される宿題の確認のようなものだ。ホームルームの時間とでも言えばよいだろうか。 29日に内戦が起るかも知れないという噂があったが、ひとまず平穏に29日が過ぎた。明日30日がインドネシアの政治状況の大きな山場だが、今のところ、ワヒド大統領の呼びかけで過激な騒乱もなさそうである。それを見届けて帰国する予定である。 バリ島にくる前、日本の歴史を原始から現代までざっと読んだ。昔、イギリスにいた若い頃、日本の歴史を知らないことを痛感して、かなり真剣にその頃勉強したのだったが、忘れてしまっている。忘れてしまったことを痛感して、また読み直し、今回はバリでも何度も何度も読み直し、暗記することに努めた。もうだらしない頭になっていて、次から次へと忘れてしまう。古代、律令体制が整うまで約50年以上かかっている。荘園制度が崩れるまで800年かかっている。主権在民となるまで日本の歴史は、長い長い時間がかかった。 インドネシアの社会は今激動期にあり、前進し、後退し、また前進という風にして、スハルト体制を克服してゆくのだろうと思う。人々の意識の流れは今そうなっている。フランスも入れ替わり立ち替わりで、市民革命だ、王政復古だ、ナポレオンだと主権在民までは難産だったのである。 確かにスハルト体制は確実に崩壊しつつある。多少の反動はあるかも知れないが、僕はバリ島で耳にし、感じる限り、インドネシアは変わらなければいけないし、ミニスハルト体制(権益の体制)はよいものではないと意識し、口に出すようになっている。 願わくは経済の再興だが、資源が豊かで本来的に豊かなこの国がシンガポールとまではいかなくてもマレーシアやタイに追いつくためにはNIES諸国がとってきた外国資本と技術導入が必要なのだろう。 なんだかニュースキャスターのようになってきた。これでは話がおもしろくない、と内心思っている。つまり第三の、まだこの世界が知らない発展のさせ方の創造ができるはずだと思うのだ。追いつくように真似をしてゆく。その真似の果ては今の日本みたいなものなら、つまらない。 |