No.6(2000/11/12〜12/26)

2000年11月12日
蚊と日焼け

まだ一度も蚊にさされていない。蚊こそ最もイラ立たしい。ようやく眠りかけた頃、耳のそばで「プィーン」という音が聞こえてくるほど腹立たしいことはない。電灯をつけると蚊の姿はなく、こちらはいつでも臨戦態勢でいるのに何分待っても現れてこない。
今回は今のところの「プィーン」もない。
蚊にもいろいろな種類があるのだろう。バリでは海辺の蚊が一番イヤである。スキンガードでしか防ぎようがない。クタの蚊は小さく細かく茶系の色をしている。ふわふわ飛んでいるものだから、手でたたくと風圧でするりと逃げられてします。前回、すばやく手でつかむコツを獲得したのだったが、つい忘れていて、部屋の一匹の蚊をたたいて追い回してのだった。結局仕留めて、さされずに済んだのだが。
バリに来る人で、蚊がイヤな人は日本の蚊取り線香をすすめる。バリの蚊取り線香は効きが悪い。もしもバリでスプレイを買うのなら、緑と赤の「Baygon」ではなく、赤いデザインの「Raid」をすすめる。「Baygon」は粒子が粗く、液がすみずみまで行き渡らず、落ちてします。
と、ここまで書いていたら、一匹蚊が目の前を飛んでいった。気にかかる。中断して、偵察にいく。
─── 見当たらない。
話は変わるが、バリに来る日本人はほとんどの人が色白である。日本人はいつの間にか肌が白くなったのだろうか。タモリが日焼けはよくないと昼の「笑っていいとも」で言っているせいだろうか。ほんの一昔前などはプールサイドや海辺でガンガン焼いていた女性をよく見たが、今はほとんど見ない。ヨーロッパの人たちだけだ。
僕自身も経験があるのだが、7年前、2度目のバリの時、日がなプールで泳いでいた。皮膚がヤケドのようになり、日本に帰ってから湿疹が起こり、参ったことがある。あの時の皮膚の後遺症が未だにあって、それがシミになっている。日焼けは皮膚にはよくないことを実感したのだった。その時、もう若くはないのだということも実感したのだった。若いからこそだいたいのことにおいて無頓着でいられる。思えば、その頃から〈死〉という最終地点から〈生〉を眺め始めたのだった。今は必ず往きと還りから、いつもすることを考えているように思う。だんだんと寂しくもなってきた。


2000年11月13日

「日本から各種薬を持ってきたので、胃が痛いとか頭が痛いという場合は遠慮なく申し出てください。」とミーティングの席で言った。
それから一時間後、グスがやってきて、10分ほど話していいか、と言う。ちょっと深刻な顔をしている。
18歳の妹が、昨年胃癌になって切除手術をしたのだが、この一週間程前からまたお腹が張り、痛みだしたのだと言う。僕が薬の話をしたので、癌に良い薬も持っているのではないかと思ったらしい。
「癌の薬は持ってないよ。」
「バリアンにも行ったけど、また病院ですか。」と聞く。
頭の中に健康雑誌の記事、広告が浮かぶ。「癌が治った!驚異のアガリクス茸」とか。
そういったものを飲めば不思議と治ったりして、とチラッと思ったが、それはいかにも口に出さなかった。
「18歳なのに胃癌か、本当なのかい。」
「癌って、あちこちに転移するやつでしょ。」
どうも癌らしい。
バリでは、もしもお金持ちならシンガポールや日本で治療することができるが、普通の家庭ではとても無理な話である。他の国にいたら助かるのに、この島でだと助かるものも助からないということがある。
医師の技術や知識のほどはわからないが、庶民にとって病院は高すぎるし、保険制度も徹底していない。国の貧しさもあるのだろうが、生死のとらえ方も違うのだという気もする。
僕は医学というのは、その処方をすることによって51%以上の副作用がでたら医学ではないと思っている。
もちろん医学のおかげで、我々は人生を70年とか80年という風に計算する。痴呆症とかアルツハイマー症というのは長生きしすぎたから起こる病気という気がしてしかたがない。それであれば、それは副作用ではないかと思ったりする。そこにある命を救おうとするのが人間である。そこにある命をなんとしても救うのか、しかたがないとあきらめるのか、ぼくはいざの時、どちらをとるだろう。
僕は「死」というのは、「生」と言ってもいいのだが、子宮まで戻ることを言うのではないかと思っている。生まれた時のことを憶えている人はいない。誕生後一年経った時のことでも憶えていない。同様に死の瞬間も経験できねば、死の手前のことも経験できないように思う。
そう考えると、今、死んでいきそうな人を長引かせるだけのことをしても、その人の側からすれば、わけのわからない状態が続いているだけのことかもしれない。
それにしても18歳で癌とは。言語によるミスコミュニケーションではないだろうか。腫瘍でも良性と悪性があるから、腫瘍のことを「cancer」と呼んでいるのではないかと、いそいそとグスに確かめに行く。


2000年11月14日
ギルド風

バリに50日ほどいることになったので、ゆっくり勉強できると思い「世界史」の本関係を持ってきた。日本史は自分でもかなり勉強したと思っているが、世界史となると頭が混乱してくる。将来、世界を歩くこともあろうかと、そんな時は見る物の物語を知っておれば、楽しいだろうと始めたのだった。
やっぱりカタカナ文字は憶えるのが難しく、この年だからかパッパと記憶から消えてゆく。
中世までの世界の歴史を簡単に言えばこうなる。
より民主的な国は発展するが、やがては衰退する。がさらにより寛容で、より開かれた国が繁栄し、また衰退し、合間に独裁者とか専制的な君主とかが現れ、また衰退しさらにより自由で、より外に開かれた国が登場する。まあこんなところだろうか。
日本の戦国時代や幕末の頃でも歴史に登場する者ひとりひとりの物語があるように、世界のいろいろな国でも同様の物語があるのだろうが、世界的に有名な人しか知らない。モーツァルトとかベートーベン、エジソンやダーウィン、マルクスやサルトル...。
さて、ヨーロッパの中世の時代、ギルドという職人の組合のようなものがあったが、ギルド内の規約は相当厳しかったようだ。一人はひとつの物を作る。他の物を作って、他の人の職分を侵してはならない。
このことと関係する。
バリにテガナンというバリ先住民の村(バリ・アガ)がある。だいたい40世帯くらいの村である。テガナンはグリンセンというダブルイカット(縦糸、横糸とも染めた糸を使い、それを織り込んで模様を作っていく)と、アッタという植物の編みカゴで有名である。この村の職人たちは決してデザインを変えない。同じ物を作り続けるのである。
シャレたデザインのものはロンボクや他の所からやってきて、テガナンの近くの村の人たちが作る。新参だから受入やすいのだ。編みカゴは先進国に輸出されているから、生産量も相当なものだと思うが、新しいものはほとんど、テガナン製ではなくテガナン近くの村で作られ、店に並べられる。これらは全部「テガナンの○○」と呼ばれる。
テガナンの人は、自分の作るものはこれだ、と決めているから、他の領分は侵さない。村で仲良くやっていくためのそれが方法なのだろう。まるでギルドのようだ。それがあっちこっちから侵犯されて、今ではテガナンのものなのかわからない。
テガナンの村に入ったとき、決してグリンセンやアッタの編みカゴで富裕になった村とは思えなかった。静かな村だった。5年、10年かけてグリンセンを織る。アッタを集め、それを干し、それを編み、ココナツなどで燻し、それから乾燥させる。堅牢な編みカゴがそうやってできあがる。日本では約10倍の値で売られている。なのに物質的な豊かさが感じられなかった。
例えばギルドであれば、商標登録や意匠登録のようなものを考えて、他の村には名前を使わせないとか、テガナンのものである証明書を作るとかしたのかも知れないが、、テガナンは頑固さと大らかさが一緒になって今日に至っているのである。
テガナン村の静けさは、商人の村ではなく、ひとつひとつを微細に織り込んだり、編み込んだりする職人の村なのである。商人性を意識的に排除してきたのかも知れない。


2000年11月16日
スリアシ

スリアシは20才。いつも機嫌よく、何事も嫌がらず自分のできる範囲のことをやっている。見ていて何とも可愛い。
「スリアシ、家に帰ると何をしてるんだい。」と聞くと、
「読書。」と答える。あんまり英語ができないし、僕にインドネシア語を学ぶ気持がないものだから、いつまで経ってもそれ以上の会話ができない。
「読書以外には何をするの。」ともっと聞いてみると、
「洗濯。毎日夜ユニフォームを洗濯、朝アイロン、そして仕事にくる。」と言う。
仕事用のユニフォームを渡すのがバリ島での慣習なので、3着スリアシに渡してある。毎日洗濯しているらしく、考えれば夜中に乾かない時もあるだろうから、念のためにもう一日を余裕の日としてみているのだろう。
「他には?」と聞くと、
「日本語と英語。」と言う。
「えっ、日本語と英語?二つ勉強してるのかい?テレビで?」
「テレビでも時々、本でも」
「それじゃあ、スリアシ、夜学校に行くかい?お金は出してあげるから。」
言語感覚の良いインドネシア人のことだから、ある程度までのことならマスターも速いと思う。
現在どうしても日本語が必要なスタッフが二人いて、これから根気よく教えていこうか、学校にいかせようかと思っていたところである。
内心、フムフムやはり影響大なのだな、日本人の経営する会社で、日本とのやりとりをしながらも、社内は英語なのだから、やっぱりそう思うのだなあ、と思う。
私なんか、ダメって思わないところが良い。若いというのは縛られることも少なく、やろうと思えばやれるから良い。子供でも育てなければならない環境なら、ほとんどの人が無理な話だ。言語を学ぶということは、その言語のもつ文化の本質を学ぶことだ。そこに共通点と相違点を見出すに違いない。
A:どこへ行くの。
B:ちょっとそこまで。
A:暑いわねえ。
B:そうねえ。
という日本語の会話の中にも、文化の本質的なところが見える。英語だったら、まずこういう会話は成り立たないだろうし、「誰が」「何が」暑いのか、はっきりさせないと言葉として成立しないところがある。ものの考え方が違うところである。スリアシもこういう別の世界のことを知ろうとしている。
ほとんどが村と会社という限られた場所にいる。会社を通して別の世界をのぞこうとしている。針の穴からでも結構世界は見える。
好奇心こそが生き生きと生きることだと思う事が多くて、スリアシの微笑みと目を見ていると、怒ることも、嘆息をつくことも不思議を消えてしまう。スリアシは人を穏やかにする性格を持っている。外国語力などよりも実は素晴らしい能力だと常日頃思う。


2000年11月17日
誰もやらない

「だんなの商売はどうだい?」とヤーマのスタッフのアリアンスミニに聞く。
「まあまあ」と照れくさそうに答える。
「グッドアイデアがあるんだけど、言おうか。」
と言うが、言葉がわからないからなのか、感が鈍いのかそれとも好奇心がないのか、商売気がないのか、食いついてこない。おそらくアメリカ人やヨーロッパ人も日本人に対してこのような印象を持ったのではないかと思う。
ただ話しかけられると照れくさそうに笑っているだけ、という風景。
かまわず続ける。
「だんなは果物を売り歩いているのだから、一度ヤーマやどこかレギャン通りででも売ってみたら。最小単位はマンゴスチンなら一個。タンブータンなら四個。一kgがどこも最小単位なので、マンゴスチンなら10個や15個になってしまうから多すぎる。
それに果物を観光客に売っている店はスーパーかデパートしかないだろ、そこがすき間だよ。『マンゴスチンは果物の女王』と書いてポップを作る。バッグに入れられるように、色がつかないようセロファン紙で一個一個包む。絶対バカ当たり。」
実は、この話は他の連中にもしている。しかし誰もしない。仕事はないかという問い合わせが多いのにである。アリアンスミニも笑いながら「だんなに言っておく。」と言うだけで目の色が変わってこないのである。だんなはキンタマーニの農園をやっている友達からいくらかを買い、レストランなどをまわって売っている。観光客相手なら、もっと高く売れるに違いないと思う。
マンゴスチンを仮に50個仕入れて、ランブータンを4個入りを50セット仕入れる。マンゴスチンは一個500Rp〜700Rpくらいだから、一個2000Rpくらいで売ればよい。客にしてみれば、一kg買って腐らせるよりは五個買って10000Rpの方がよい。10000Rpで120円ほどだ。
毎日売り尽くすまで頑張れば50×2000Rp=100,000Rp。ランブータンも同じ価格として50×2000Rp=100,000Rp。一日な、なんと200,000Rpの売上である。
一日の仕入れは最高でも50,000Rpであり、150,000Rpのもうけである。これを10日続けたら1,500,000Rp、20日で3,000,000Rpになる。25日で375,000,000Rp。これは銀行員やホテルマンなどよりも良い収入である。
バリでは1,000,000Rpの給料というのは良いほうである。
もうひとつある。現在、ブックツリーのグループだけで約80人ほどのスタッフがいる。誰か弁当屋をすればよいのだ。一つ3000Rpくらいで、毎日50人が買ったとしても、150,000rpになる。もっとやるのなら他のレストランやオフィスにも行けばよい。原価は一食500Rpはかからないだろうと想像する。
誰かやらないかなあ、と思っている。誰もやらないのだったら、果物屋と弁当屋を同時にやってしまおうかとチラチラ思ったりもするが、そこまでやれば身が持たないので、するつもりはないが、とにかく歯がゆいのである。


2000年11月18日
貞操

バリの女性の貞操は堅そうである。結婚の平均年齢は24歳。結婚まではバイクに乗せてくれるボーイフレンドを作ったりするが、普通せいぜい手を握るくらいで、キスをするとか、胸を触るとかはいけないのだそうだ。が、もっと聞くと「キスはちょっとはいい。」と知る限りのほとんどの女性が答える。
「ちょっとはいいって、どういうこと。」と聞くと、
「ニュピとかカルンガンとかの特別の日、一年に4回くらい。」と言う。
「セックスは?」と言うと過剰な反応をして、
「オーダメダメ」と嬉しそうに答える。
一度肉体関係に入ると、結婚が待ちかまえている。結婚抜きで男女が付合うというのはかんがえられないことのようだ。一昔前の日本女性とよく似ている。
バリの男性と日本の男性が結婚する例はよくあるが、その逆を今のところ僕は知らない。
女性側のガードが堅いとは思わない。女性をとりまく男性、村、この島のガードが堅いように思われる。
白人女性を黒人からガードしようとする白人男性社会、日本人女性を白人からガードしようとする日本男性社会と同じである。同じ雰囲気であり、根にある男性の強い嫉妬心、独占したいと思う感情に支配されているように思える。
2日前、JTBの「旅ワールド」の編集スタッフの方が突然ヤーマに来られた。でっかいカメラ道具一式を持ち(もうひとつ念のために予備も持っているそうだ)、交渉し、写真もプロ並みに自分で撮り、判断・決定も行う。車の手配、現地コーディネーターの手配、すべて一人でやり、アシスタントの人はジャカルタの大学に通う大学生である。
できぱき、さっさと仕事を済まし、つぎの地に向かう。
バリのスタッフたちは目を丸くして、この女性の一挙手一投足を見ている。どう思って見ているのだろうか。
バリの男性は日本女性を好む。色が白いのが第一かも知れないが、日本人女性の近代性というか現代性、バリの女性よりははっきり物を言い、行動的であり、お金も持っているからなのだろうか。
一方のバリの女性は、日本人男性とお付合いしたいと多くが思っている。が、せいぜい手を握ることくらいの条件で、主に話をしたい、どんな考え方をするのか直に経験してみたいという気持ちを持っている。男性のように積極的にナンパしていたら、村でなんと言われるのか、わかっているから、そうはしないし、できないのである。
バリ島は同胞の目がとてもとても気にせざるをえない島なのだ。


2000年11月19日

「今晩これから雨が降ると思うかい。」と聞くと、ルーは「降らない、大丈夫!」と答えてくれた。安心できる言葉だ。キッチンのマデは慎重にか本当にそう思うなか「わからない。」と、実はルーが答える前に答えたのだった。
これから先、雨が降ろうが降るまいが、実はあまりたいしたことではない。せっかくだったらオープンスペースの方で夕方知り合ったばかりの日本人のカップルと食事をしたかったからで、雨が降ってくれば、移動したらよいだけのことである。
ルーは頼もしく、はっきりと「降らない。」と言った。その言葉に乗って僕らはオープンスペースの方に移動し、そこでいろいろな話をしたのである。結局雨は11時になっても降らなかった。なぜルーは「雨は降らない。」と断言したのか。それは性格なのだろう。つまり物の考え方なのだろう。オープンスペースの方に行きたがる僕を感じ取って、「雨は降らない。」と思ったのだろう。
おかげで三人ゆっくりと話すことが出来た。バリに来始めて、旅行者の人と話をするというのは初めてのことである。
たまたまホームページを見てくれていて、たまたまエステ・デ・マッサの前で会ったのである。僕は「どうかしましたか。」と聞くと、「本木さんですか。」という出会いであった。両替をしたいのだが、どこでしたらよいのか、という風なことで、マッサのスタッフの二人が案内しようとしていたところである。その後再び、ヤーマで出会って、食事をいっしょにすることになった。
人と出会うというのは楽しいものだ。しかも有り難いことに相手のMさんは「僕のバリ日記」を読んでくれている。
話はそこからもっと奥とか裏の方へも侵入できる。僕の知らない情報、たとえば今流行っている東京のエスニックの店の戦略、経営者の考え方、世田谷に住む彼女は谷中を知らないという驚きの話。
話は下ネタから上ネタ(?)までめぐり、あっという間に3時間が過ぎてしまった。
人との縁はこうやって生まれ、より縁があれば何かでつながってゆく。旅のひとコマであり続けてゆくのも良いし、連続してつながっていくのも良い。
そして世の中が大きく昔と違うのは、H.P.のように一方的に、僕だったら僕のメッセージをいつも掲示しておけることである。そうやって縁を続けることができる、ということだ。


2000年11月21日
スカワティ

 人間の肉体を抽象化した木彫を作っているところがあって、スタッフがそこまで行き、スカワティの市場で仕入をし、デンパサールの市場に寄り、その日のスケジュールを終える、ということだったので一緒についていった。どのように交渉し、どのように新しいものを探しているかそのスタッフの現在の有様を知りたかったのである。
スカワティの近くの村に入ると、ロイがダユの家はもうすぐだという。おっ、そうそう、赤ちゃんが生まれたかも知れない。ダユは15日から3ヶ月の休みをとっている。もう生まれる頃だ。それにもしかしたら、ダユのお義父さんに会えるかもしれない。80歳で、イダ・バグス(女性はアユ)の頭領みたいなひとである。儀式を司る。その風格を何と表現すればいいのだろう。にせものくささはない。インテリくささもない。スケベエジジイのようではない。妻は四人いる。みんな先に死んでいった。
ダユは家にいて、子供はまだなのだと言う。ダユの家の敷地は広く、何世態も住めそうである。中心にバリ風建築の縁台、そのむこうに金色のドアがあり居室がある。そこがお義父さんの居る所だと言う。
ダユが呼んでくれて、会いたい人と会ったという気がした。縁台に大きな絵がキャンパスに描かれている。
お義父さんが出てきた。僕の顔を憶えていてらしく、たいへんな笑顔で迎えてくれ、お茶とビスケットをごちそうになった。バリ島では有名らしく、いろいろな美術館に彼の絵が展示されているようだ。ニューヨークのある美術館でも展示されているらしい。つまり彼は絵描き、画家なのだ。1988年、今から12年前、68歳の時に、彼は祭祀などを司る僧侶になる儀式を行い、以後、その村で唯一の司祭として彼の家の寺院で、村人と共に祈りを捧げ、リラックスするのに絵を描いているのである。プダンダ(司祭)となる儀式の時の写真も見せてもらったのだが、筋肉は引き締まり、目はきりっとしてこれはもてただろうな、と思う。中上健次の「千年の愉楽」で出てくる荒くれの若者の美しさみたいなものと似ている。悪い意味で言っているのではない。人間の知性や理性、狡猾な計算力やテクニックなどを超えた顔、雰囲気をしているのである。知っている限りの小説の登場人物でいえば、「剣客商売」の秋山小兵衛像に近い。厳しさを穏やかさが同居している。
しばらく話をした後、スカワティからベンジョール(竹ののぼり)が立ち並ぶ村を通り過ぎ、車を走らせていると、渋滞に出会った。葬式の列である。人々は興奮してお輿を担ぎ、歩道にいる者が、輿に向って水をかける。水をかけるとますます輿を担ぐ人たちが、興奮し、それに合わせて音楽も派手になり、葬式の暗さなどどこにもない。
火葬によって天界に駆け昇った魂は、祖霊神となったのち、暦で定められた日に再び地上に降りてくると信じられているのだ。また還って来るのである。
デンパサールではだらけきった市場の店員にげんなりし、排気ガスでいっぱいの車の中でハンカチをあてて、帰路についたのだった。


2000年11月24日
クワガタ虫

スマトラ島やジャワ島、スンバ島やスラウェシ島などから行商人が店で売ってくれないかと、いきなり入ってくる。僕はいきなり入ってくるのを歓迎する方針をとっているので、アポがないからダメとは絶対言わない。
今日、スマトラから来たという若者が「クワガタ虫」、それもでっかいのを持ってきた。生きているのである。クワガタに関する知識がないので、何とも言えないのだが、1000円で買ってくれという。測ってみると7.5cmの大きさだ。中には、クワガタ虫とカブト虫が混ざったようなのもいる。カブト虫はツノが頭部から上方へ伸びているが、このクワガタ虫は、クワガタの2つのツノ(?)を持ちながら、頭の下(口側)の方から上方にツノのようなものが伸びている。なんというものかわからないがなんだか風格がある。
さっそく、クワガタ虫の飼い方をホームページで調べ、日本に虫カゴ、マット、昆虫ゼリーを送ってほしいと電話した。飼ってみようという気になった。趣味ではない。やがてアジア雑貨市場を開くつもりであるからだ。
またこの若者と接触していたら、「ヤシガニ」を持ってきてくれるかもしれない。「ヤシガニ」の供給ルートが見つかればこれはすごい。世界一美味しいと言われるヤドカリである。
これも今日の話だが、魚を香港やシンガポールに活魚で卸している中国系の女性から昨日電話がかかったので、今日行くと約束してあった。彼女の家はヌサドゥアの海の入り江にあって、対岸のタンジュンブノアが見える見晴らしの良いところにある。海を見ているとやはり気持が落ち着く。彼女はスンバから織物を持ってきて、売ってくれるところはないかと頼まれたのだそうだ。それで僕の顔が浮かんだらしい。僕は商売人の顔をしているのだろうか、と思ったが、ちょうど昨日デンパサール近くの問屋街で、スンバの織物(イカット)の見分け方を習ったところだったので役立った。仕上げ方に完璧さはないが、まぎれもないスンバのイカットである。しかも僕が探していた小さ目のものである。バリ島ではサルンなどにも使われるためやたら大きいのが多い。彼女の家で、来年彼女が作ることになっている海に浮かぶレストランの進捗状況などについて話をした。
そろそろおいとましようとしたところ、片隅にテーブルがある。美しい模様になっていて、どうやらテラゾーを磨いたものと貝が組み合わさっているようである。これは一級品だな、と思い、頭の中でグランブルーのテーブルと置き換えてみた。もしかしたらいいかも知れない。こういう一日は楽しい。なにか繋がっていくようで。
未来が一瞬キラキラと光る。


2000年11月28日
カスバの女

カラオケに行けば「カスバの女」というふた昔も前の歌を聞くことがある。石原裕次郎の「錆びたナイフ」を歌う50代、60代の人もいる。
「カスバの女」や「錆びたナイフ」の作詞者は大高ひさをという人である。年齢は今83歳。「さすらう」という感じの詞を作る。
今日、昼間レストランに行ったら、バリ語をウェイターとやりとりしている老人を見た。一人だった。僕はバリに在住する中国系の人なのかと思った。バーのスタッフが日本人だと言う。それで仕事の手を止めて話しかけてた。やはり日本人だった。これまでバリ島に80回以上は来ているらしい。海軍で潜水艦技術を学び、その後NECで働いたそうだが、定年退職後、バリに来始めたのだそうだ。20年以上も前、58歳の時と言っていたから、その頃のバリ島を知っている数少ない人だ。僕はここ6年か7年くらいのバリ島しか知らない。
今年大病をなされて、手術後また一人でやってきた。いろいろ話をしているうちに、「カスバの女」が出てきたのである。よく知っている歌だから当然僕はびっくりする。
「チェニスとかカスバには行ったのですか。」
「いや、あれはねえ、ジャンギャバンの『望郷』という映画を見てね、よかったものだから。流れてきてまた去ってゆく女を最後のシーンで男は追いかけてね、そこで撃たれてしまう。いやよかったなあ。それで、その映画を見て作ったんですよ。」
「へえ〜!!」
全部歌詞を思い出せないが、こんなフレーズがある。
   ここは地の果てアルジェリア
   どうせカスバの夜に咲く
   外人部隊の・・・・
「裕次郎は案外背が低くてね、大きく見せるのに神経使ってたよね。」などと言う言葉が出てくる。
そしてなぜ彼はバリにいるのか。
「だって物価が安いでしょ。」という返事だが、物価が安いだけではわからない。「安全でしょ。」それでもわからない。大病の後女房もおいて一人でバリに来るというのは、バリに気の合う女性でもいるのか、それともそれと同じレベルの理由がなければならない。
大高さんは、僕の泊まっているホテルの斜め前のホテルにいることはわかっている。訪ねることにした。縦2列に部屋がテラスつきで並んでいるその9号室に大高さんはいた。ここのオーナーとは20年来の知り合いである。サヌールに借りていた家を解約し、必要なものだけ持ってここに来たのである。
「ウブドじゃ淋しいし、サヌールは知っている人が多すぎて。この辺が賑やかでよいと思ってねえ。」僕が来たことをひどく喜んでくれた。「夜は一番淋しいね。今すぐにも日本に帰りたいよ。でもね、日本の11月から3月は恐いから。」
「恐いって、何が恐いんですか。」
「もう抵抗力がないから。肺炎になったらお終いだもの。」
この人はやがて誰にでも訪れる「死」を恐れているのだろうか。
「女房は痴呆症になっちゃって。毎年半年はバリにいるものだから、こっちで暖かくいることに慣れちゃって、日本の冬が恐いんですよ。」
「ところで、『カスバの女』の歌詞が全部思い出せないんですけど、憶えていますか。」
「忘れちゃいましたよ。初めオオクニスミコとかいう歌手が歌って、二度目はほら、ドスのきいた声の・・・」「内藤やすこ?」「そうそう内藤やすこ、彼女と食事をしましてね、『先生』なんて呼ばれてね。それはヒットしましたね。印税も入ってきた。」
「・・・長く生きちゃうとこうなるんですよね。胃を切っちゃったら身体の脂肪分が抜けちゃって、痒くなるんですよ。背中まで手が届かないので、不便でねえ・・・」
冬を越すためには、バリに来る。バリは物価も安い。ハワイならこんなことはできない。預金の利息で、お手伝いさんを雇っても年に2回から3回の飛行機代と自分が泊まって食べる分ぐらいはバリなら出せる。そして、見知らぬ土地ではない。知り合いもいる。」
「年賀状は2〜3年前に止めました。葬式などへの出席ももう止めました。でね、こんな本をみつけたんですよ。バリ語の本。バリ語の会話本もなくて、この前、ひょんなところで見つけましてね。」めこん出版の「クタ・アルダナのバリ語会話」という。ちょっと見せてもらったが、会話や言語の裏には文化、ものの考え方などが背景にあるので、おもしろそうだった。今度買おうと思い、貴重な情報を知ったと思った。彼はこれからビザが切れるまでバリにいて、そしてシンガポールか日本に来てまた戻るという。


2000年11月30日
ちょっとくたびれた

ちょっとくたびれてしまってこの2、3日午後に長い休憩をとって部屋でゴロゴロすることにしている。
長距離を走ってくたびれた、とか徹夜してくたびれた、テニスをし過ぎてくたびれた、という一時的で、眠ってしまえばとれる疲れではない。なんだか身体が衰弱したように根っこのほうからくたびれたと思うのは初めてのことである。
思えばこの3週間、頭の方が忙しすぎたかも知れない。頭に気合いを入れないと、英語の世界が崩れるので気合いの入れっぱなしだったかもしれない。
ホルモンで言えば、猛毒のノルアドレナリンが脳に出っ放しだったのかもしれない。ワッハッハ笑うことがほとんどなかった。グランブルーが今、苦戦を強いられているせいなのか、ゆったりと構える余裕がなくなっている。イライラする。スタッフを励ます。一つ一つ教え込む。無理もない事かも知れないが、例えば、「この割引券を店に来たお客さんに渡してください。」と指示を出すとすると、当然「ハイ。」と言うから、これで終わった、と思っていると、カウンターのテーブルの上に置いてあるだけ。ということがわかる。それで、「ここに置くのではなく、お客さん一人一人に手から手に渡してください。」と言うと、「ハイ。」と答える。また覗いてみると、また割引券が置かれたままになっている。つぎの引継ぎの者に話していないのである。「重要なこと、みんなに共通のことは必ず連絡するように。」と言う。それでこのことがうまくいくかと言うと、うまくはいかない。割引券がなくなれば、「なくなった。」と言わない。それで終わったと思っている。
こういう商法には慣れきっている僕からすればあきれてしかたがない、ということになる。彼らからしてみれば、こういうやり方は初めての経験だから、あらゆる手順がわからない、ということかも知れない。
あるいはこうかも知れない。新しいやり方を知っている日本人のすることに、そしてそれを手伝うことに、不安がある。下手に手が出せない、という気持ちが働くのかも知れない。次のステップがわかるよう一つ一つコマ切れにして綿密に順序良く伝えたら恐らくそれでできてゆくのだろう。ところがついつい、細かい手順を飛び越えて言ってしまう。ここで停滞が起る。それのくり返しが続く。
ここで怒るか、自分を反省するか、気持ちをどう持つかで状況は変化する。外国でのビジネスはお客様をどう捕まえるかと同時に、いかに二つの文化的なことを融合、または折り合いをつけるかという判断を瞬時にしてゆく必要があるのである。


2000年12月6日
ラーメン紀行したい

10月中旬から11月下旬までは、バリ島は最も悪い気候になる。雨が毎日のように降る。つまりは低気圧におおわれる。
僕は11月8日にバリに入ってから、ずっと低気圧に支配されどうしだった。五木寛之は低気圧が来ると頭痛がし、調子も狂うので、上海に低気圧が出てきたら約一日で日本にやってくるので、それを避けるため旅に出たり移動したりする、とある本で言ったいた。そんなことを思い出して、ああ、オレも低気圧で身体の調子がわかる年、またはそんな身体になったか、と今嘆いている。
日本にいれば天気予報も目に入るし、長年の勘で、空や大気の湿り具合、晴れた日の続き具合などでそろそろ雨が来るだろう、とわかるのだが、ここバリ島ではまだ未熟なため天気の予想はできない。
この一週間、疲れが出たせいか半日ゴロゴロしていた。12月1日にスミニャックにあるインペリアルホテルにドラッグストアをオープンした。続いて、「アジア雑貨市場」をバイパス沿いにこの15日にオープンする。アジア雑貨を仕入れるバイヤーのための市場で、新作の発表の場所も兼ね、普通だったら買い付けに10日もかかるところを一日か二日で用が済むようにしたいのだ。
11月8日にバリに入ってからこの二つのことを同時進行させて進めてきた。朝から夜中までよく働いた。そしてダウンである。この一ヶ月間を10字以内にまとめよ、と言われたら「いろいろあった。」である。
このうだうだとした一週間、シンガポールでアキさん(ただいま東京で復帰準備中)のお母さんにもらった東海林さだおの本を三冊読んだ。
恐らく、自分で本屋に行けば絶対に買わない本である。東海林さだおはマンガ家であって、こんなに多くエッセイを書いているとは知らなかった。そして驚いた。たいへんな文章家である。「ラーメン大好き」という一冊があり、ラーメンについて様々な角度からの作文を寄せ集め、東海林さだおが編集している。こういう本に出会うと嬉しい。アキさんのお母さんに感謝。スープ、具、歴史、ラーメン店主の話、各界著名人のラーメン考察。北は北海道から南は鹿児島、沖縄まで全国のラーメンの紹介もある。
「ラーメン食べたい!」と思ったら、なんとしても食べたいのがラーメンである。僕もついつい日本に帰りたくなりラーメンの食べ歩きでもしたいものだ、と思い、今も今度帰ったらラーメン紀行だ、と一日に3,4度思う。
それほどおもしろかった。別にラーメンを通して誰かの人生が見えるわけではない。僕らが普通接するラーメンへのこだわり方、対応の仕方、奥深い知識などで、あたかも新しいものを発見したかのように、ラーメンとは何か、を知るのである。当然共感あり、違和感ありでその本にラーメン愛好家として参加してゆくのである。何かについてウンチクがつくとそのウンチクに縛られる。自分に注意しよう。
久しぶりに今日は空も晴れた。風は強いが気分も爽快になった。さああと21日。折り返し点でダウンした一週間を取り返すか、一週間延ばしていくか、明日の体調による。


2000年12月7日
互いに反対の方に

豊かになったからこそ、つまり豊かな下地があってこそできる生活というものがある。僕がその典型的な例である。バリ島で以前は3ヶ月、そして今回は1ヶ月半も生活できるというのは、日本の薬のおかげである。僕は、たんぱく質を分解してアミノ酸に変え、体内に栄養を送り込むための薬を、病院で処方してもらい、バリ島に来ている。
別の例でいえば、自給自足のような田舎生活をする人がいる。現在の文明を否定し、自然に戻る、自然の生活はいいみたいなことを言い、テレビで紹介されたりする。
僕は、アホらしく、そういうのが出てくるとチャンネルを変えてしまうのだが、これは現在の豊かさの恩恵の最たるものである。応々にして、それが現在人々が働き、支えている高度な消費資本主義の恩恵であることを忘れていたり、知らなかったりする自然派が多い。
そのような人たちの生活の邪魔をする気はないし、反対する気はないのだが、「人間は自然のサイクルの中で生きてゆかねばなりません。」とか「自然っていいなあ」などとテレビ画面から言われると、ゾッとするのだ。内心は「それじゃあ、お前、電気も使うなよ、ろうそくも油も自分で作れよ、大根の種はスーパーで買うなよ」とイチャモンをつけたくなってくる。
今の日本が完全とは言わないが、人々の生活が選択できる消費生活社会に移行したのは確かなことだ。生活必需品の割合が下がり、自分の都合で自由に消費を調節できる社会のことである。日本は勢いよくここまで来て、1980年頃からゆるやかに成長し、そして停滞している。次の社会のイメージをつかみかねて、もがいている。この頃は自然派も勢いがない。もちろんだ。この産業社会のシステムの中で働いている人々の基盤があってこそ「自然派」はあり得たのだから。
で、素直に白状するが、僕は日本から持ってくる薬のおかげで救われている。漢方だ、ジャムーだ、といっても適当なものがないのである。科学なんてやめろよ、と言ってもダメなのである。
問題は「利便性」なのである。利便性を断ち切る勇気、または排除できる身心力をどう設定できるかである。
僕らは、ますます利便性の良い方向に進み、同時になんだか自然のふところに戻りたいと言う気持をどこかに持つ。つまり同時にこの矛盾を持っているのである。矛盾のようであって矛盾でないのが僕らが歩んでいく歴史である。たぶん、逆方向の2つの道を同時に僕らは歩いてゆくのである。その道が環をなしていれば行き着く先は同じである。
さて、どういえばいいのだろう。
ひたすら宇宙物理学や分子生物学を推し進めていくとする。もしかしたら人間はとっくの昔にそれら科学の結論を知っていたかもしれない。しかし、進まない限りわからないことなのだ。つまり、実証できない、ということなのだ、という風に言えるかもしれない。
「自然派こそ人間だよ」と言ってもダメだし、「科学することが人間なんだよ」と言ってもダメなのだと思う。


2000年12月8日
テレビを見ていると

この頃、意識してテレビを見ている。いろいろと面白いことに気がつく。幾つか紹介してみる。
日本のウルトラマンのシリーズがインドネシア語の吹き替えで放送をされている。名前は忘れたが「シブがき隊」のモッくん、ヤッくんではなくもう一人の○○くん、「ホテル」に出ていた石森章太郎の息子である○○くんなどの登場人物は、みんなインドネシア人に見える。やはりどこかで同民族系なのかもしれない。
政治家、宗教家の演説は、みな田中角栄風である。ジロッと聴衆をにらみ、十分な間をおき、強く言うところ、弱めるところ、ひとりひとりなめまわすように見てはじっと黙り、えらそうに、時に自信たっぷりに笑い、と言う風である。
インドネシアは、多民族国家であり、さらに宗教もいろいろである。この複雑な国をまとめあげるためにだろうが、政府系のテレビチャンネルは、映像にいろいろな民族、宗教の違いはあってもこの国は一つなんだ、という意識をもたせようと工夫している。
各民族、各宗教の人々が一緒に歌い上げる「インドネシア」という歌がひとつの例である。We are the world のインドネシア版というやつだ。
夜の時間の外国映画は、安物のアクションものばかりである。ボクシングが毎日あり、ファイティング原田や海老原の時代と思わせる観衆の雰囲気がある。コマーシャルで出てくる家はほとんど全てヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア的な清潔でモダン化された居間である。コマーシャルは、どこも同じだが、化粧品、薬、家庭用品、車、特徴があるのはバイクのコマーシャルかもしれない。水、ジュース、お茶、アルコール系はない。
バリ島では、テレビもずいぶん普及してきたが、テレビにクギ漬けにされた風景を見ない。村では「ジョゲット」という賑やかな舞踏団がくると、そっちの方が大騒ぎで興奮する。
僕の泊まっているホテルのオーナーは、儀式、会合で忙しく、奥さんは供物づくりに忙しい。
テレビがないとお茶の間の風景にならないという世界に、まだバリ島はなっていない。テレビチャンネルは、7チャンネルあり、その点は結構多チャンネルである。


2000年12月9日
ナシチャンプル

日替わりでおかずが変わるナシチャンプルの店を、ロイが見つけて、スタッフ一同、昼前になるとそこへテイクアウトのナシチャンプルをロイに頼み、ロイが買いに行く。
事務所の近くのナシチャンプルの店(ワルンと呼ぶ)は、あまり美味しくなく、工夫もないので、僕は時々10分ほどかけて、クタの美味しいワルンにいっていたのだが、グランブルーも昼食にナシチャンプルを(究極のナシチャンプルである)することになったので、もう行かなくなった。
バリのスタッフたちには、予算があるらしく、地元のワルンで買うのである。ワルンに行くと、マグロの串焼き(これはうまい)、青菜のシャカンクン、香辛料たっぷりのゆで卵の半分、ポーク、チキン、豆類などいろいろあるが、どれもコラーゲンたっぷりそうで、いつもバリ人に引き締まった肌は、このナシチャンプルのせいだと思う。
辛いものが入っているので、苦手な日本人もいるかもしれないが、ナシチャンプルはバリに来たらぜひおすすめの料理である。白いご飯を真中に置き、そのまわりに具をのせる。なかなか考えられている。ラーメンみたいに容器は一つ。または、細紙。小皿とかおしんこをつけるとかは要らない。一つの皿、または紙に好きなものを乗せるだけである。バリ人は、朝、昼、晩とナシチャンプルで、家では作っておいてある具をお腹がすいた時に、それぞれが一人ずつ、ひっそり食べるのである。前にも書いたように、この食の時のみ、バリ人は一人になる。このよくできたナシチャンプルに、普通のフランス料理やイタリア料理はかなわないだろう。束になってっかても負けると思う。また、バリ人に西洋や日本の食事を誘っても、一回くらいは付き合うだろうが、二度目からは拒否するだろう。他の料理に振り向かせるのは至難の業である。
ご飯にうっすら具のたれがつく、それがうまい。おかずをどの順番で食べようかという楽しさもある。幕の内弁当みたいなものだ。女性スタッフの中には、家からナシチャンプルをもってくる人もいる。この頃は、日本の弁当箱のようなものにいれてくる。そうするとどうしてもバリ版幕の内みたいになってしまう。彼女らは必ず、果物を持参する。ナンカというジャックフルーツやマンゴ、パパイヤである。特にナンカを毎日美味しそうに食べている。
バリ人は、決してお茶は飲まない。基本は水である。ワルンに行くと冷たくて甘いお茶を売っているが、これが僕にはナシチャンプルと合うのだ。辛いからである。
ワルンも競争が激しい。やはりバリ人も食べることには最大の関心を寄せているらしく、昨日昼食時にナシチャンプルを食べているスタッフに「やっぱり昼飯の時は一番楽しいかい」と聞いたら、にっこり笑って一同「イエス、イエス」と答えた。


2000年12月13日
珍しいもの3つ

バリ人の肌がプリッと張り、胸もぶよぶよと大きいのではなくて、これまたプリプリと張っているのは、ナシチャンプルのせいなのかも知れないと思っていた。これは推測間違いだった。
真犯人は「スス」なのである。ススといえばミルクのことだが、これはあくまで通称で、原料は豆科の「クズイモ」である。3,4年前にTV番組でフィリピンの「クズイモ」が胸を大きくするイモということで紹介していたそれなのである。バリ人はこの「クズイモ」を良く食べる。パパイヤやパイナップル、それにこの「クズイモ」を生でやや酸味のあるしょう油に似たソースで食べる。味は山芋と梨を混ぜたような味である。
エステでは、フルーツボディマスクにこの「クズイモ=スス」を100%のパパイヤやリンゴのジュースを混ぜて使うし、風呂にもこのススを入れる。ミルク風呂というものだ。ビタミンの種類が豊富でコラーゲンがたっぷりである。
グランブルーで「プリン・プリンサラダ」とか名づけて、出そうかと思っている。
次はコーヒーである。バリのコーヒーそのものはドリップやサイフォンでつくれば最高に美味しいのだが、町のレストランのコーヒー(いわゆる粉が底にとごるバリコーヒーといわれるもの)は最高にまずい。コーヒーの量をごまかすのに米の粉を入れてある。まずいはずだと思う。ヤシの樹液で作るアラックという蒸留酒がある。クセのない酒である。この酒にコーヒー豆を入れて2週間から3週間寝かせると、とても美味しいコーヒーアラックができる。コーヒーと蒸留酒を同時に楽しめ、オンザロックなどにすると熱帯の美味しさがある。北国で飲むには向かないかもしれない。シロップを入れる人もいる。
今日は、ロティが家から「クロポン」というお菓子を持ってきてくれた。草もちのような色をしていて、中にはココナッツシュガーで作ったシロップが入っており、外側に鰹節のように削ったココナッツの実をふりかけてある。
4つめの紹介となってしまったが、本当に紹介したいのは、スス、コーヒーアラック、クロポンの3つである。バリコーヒーは推薦できない。


2000年12月14日
遂に発見、プリン、プリンのヒミツ

かねて長い間、どうしてバリ人の肌はプリンプリンしているのか、胸もプリンプリン、お尻もプリンプリンはどうしてなのか疑問に思っていた。そして恐らく「クズ」類のようなものを日常的に食べているに違いないと疑っていた。途中、この考えもナシチャンプルのおかずを見ていて、揺らいでいたのは確かである
エステで「スス」というお肌のパック用のヨーグルト状のものを使っている。10%リンゴジュースやパパイヤジュースを混ぜて、全身に塗るのである。スタッフは「スス」というので、てっきりミルクだと思っていた。ミルクの香りのするススもある。本当は「クズイモ」でなければならない。クズイモなのにスス=ミルクという。それはミルクのような白い肌にするということだ。
本物のススはクズイモでできているのである。匂いを嗅いでみて、僕は「これはミルクではない」と言った。みんなはミルクだと言う。バリ人も知らないのだ。「ミルクではない。植物が入っている」と疑った。早速メーカーに電話したら、「バンクアン」だと言う。インドネシア語だ。それ、バンクアンを調べろ、となった。わからない。英語にないのである。が、なんとかして学名がわかった。それ、日本の図書館で調べろ、となった。翌日、日本からFAXがツツツツツ・・・と入ってきた。なんと驚天、「クズイモ」である。
バンクアンを買ってきてもらった。まさに「クズイモ」である。ジャカルタあたりの専門家は「クズイモ」の効力は知っているのだ。日本では貴重な「吉野クズ」に相当する。バリ人は2日に1度くらい、いわばとても日常的に食べているのである。バンクアンとパパイヤやパイナップルにタマリンという甘くて酸味があり、ちょっぴり辛いソースをかけて食べる。このサラダを「ルジャ」という。胸がプリンプリンになるサラダである。
バリの人たちはこのバンクアンが栄養満点であり、解毒することも知っている。豊富なプロテインにコラーゲン(これですよ。プリンプリンのヒミツは)各種ビタミンが豊富である。「クズキリ」を思い浮かべてくれれば、そのプリンプリン度がわかると思う。これを生で食べる。味は山芋と梨の混じったような味だ。歯ごたえもよい。スープにしても美味しい。
にしても、バリ人も観光客相手によくやるな、と思う。バリコーヒーには米を混ぜてコーヒー豆を節約し、(だからまずい)マッサージオイルにはパラフィンを入れ、ススと言ってバンクアン少しにミルクと香料を入れる。塩は「地球の贈り物」と言って、普通の塩を売り、アンティークと言って新しいアンティーク風なものを作る。銀といえば925なんて嘘。シルクといえば化繊。バティックも今や本物の自然染料などは使わない。このたくましさ。すぐにバレるようなことでもこだわらずにやる。もちろん売り子の女性たちは真実を知らない。
しかしバリ人の日常の中に宝のような本物があるのだ。ルジャしかり、対葉豆しかり、グリンセンしかりである。バリの本物のコーヒーもドリップやサイフォンを使うと、とても美味しいのである。


2000年12月16日
カラオケに行った

カラオケに行こう、ということになった。よーし、今晩は歌いまくってやろうと心に決めた。グスは噂で聞くカラオケとはどんなところか興味津々である。カラオケはバリ島では「いかがわしい」場所なのだ。話によると女の子がズラリと並んでいて、覗き穴から気に入った女性を選び、隣りで歌とお酒の相手をしてもらうのだそうだ。
そこは小林旭の歌で有名になった歌の題と同じ「ブンガワンソロ」というカラオケバーだった。玄関のあたりガードマンやら店員やらがいる。玄関に入ると、まずフロアーの席(テーブルと椅子が墨の方に有り、モニター大画面の前は踊れるようになっている)か、部屋かと無愛想な案内係に聞かれた。僕らは女性を同伴し、健全に歌を歌おうという気持ちだったので、部屋の方を選んだ。防音もしていない部屋でフロアの音楽がとてもうるさいので、もっと静かな部屋はないかと聞くと、あるといって案内してくれた。フロアから遠く離れた分だけ静かになったという感じである。隣りの部屋にグループが入ってきたらどうなるんだべ、と思いながら早速郷ひろみの「セクシーユー」が目に飛び込んできたので、それを歌った。ワヤン(女性)はアメリカの歌を英語で、グスは全館の見学を果たしたあと、インドネシアのポップスを歌った。
少ししながら、ここの料金が気になった。あんまりお金を持ってないし、ぼられてもイヤだ。ビールを係の者が持ってきたとき、値段が書いてないのが気になった。トイレに行って来るといって係の者がいるところに行き、部屋を借りるといくらなのかと聞いた。1時間9万ルピア、2時間で18万ルピア。係員の表情が「ぼる」ような恐ろしげなこをしてないし、にこやかなおばちゃん風のおねえさんもいたので、これは安心と気持ちはよしよし愉快だぞとなった。
アメリカの歌を聞いてもオモシロクもなんともないのだが、ダンドゥットというジャワのいわば中間、下層クラスの人たちに人気(やっぱり今はダンドゥット離れが多いというが)のある歌は妙に迫力と奇妙さがあり、明るく早いリズムの中に時々哀愁を帯びたアラビア風のメロディも入っている。不思議なことに日本の歌は日本にフィリピンバーが出てきた頃に流行ったものばかりである。西条秀樹の「抱きしめてジルバ」とか、中森明菜の「デザイヤー」とか竹内まりやの「駅」、矢沢永吉の「Yes, my love」。演歌でいえば梅沢富美男の「夢芝居」とか五木ひろしの「契り」とか「細雪」である。新しい歌は一切なく15年〜17年前の歌ばかりである。ワヤンはアメリカの歌ばかりを歌う。グスはインドネシアの歌である。当然、僕と妻は日本の中森明菜の時代の歌である。
ワヤンもグスも初めての体験で、どちらも結婚しているのだが、この体験を家で喋ろうものならば「嫉妬の嵐」で大変なのだそうだ。だから秘密にするのである。帰りがけ、グスは前に偵察していたものだから僕らを一階に案内し、こっちへ来いという。するとガラスが20mくらいの長さで張ってあり、ところどころ丸い透明の部分がある。そこを覗くと空港の待合室のような椅子に女性たちが何十人も座っている。これだ、これだ、噂のシステムはこれなんだと、なんだか可笑しくなってしまった。向こうの女性と目だけが合ってしまいちょっとドキッとしたが、何気なく目をそらし(向こうは目だけが見えているのだから、さぞかし目が富に二つ、三つ、五つ、六つと浮いている奇妙な風景なのだろう)その場所を離れ、外に出たのだった。円で払って4人で3500円だった。
初めに「女性は要らない」と言ったので日本のカラオケボックスで歌うのといっしょだったが、ワヤンやグスは初めてのことなので慣れていない。不思議と慣れずに歌うその雰囲気、歌を探す雰囲気、曲を聞く雰囲気も、日本人とよく似ているのだ。カラオケが出始めた頃の日本人とである。これが西洋人だったらガラリと変るのだろうが、西洋人はカラオケには来ないのである。
大学生のときラジオ番組で、すぎやまこういちという作曲家がカラオケタイムを毎週一曲紹介していた。天知真理の歌だったが、カラオケの中にメロディが走っていないので一曲きちんと歌い終えると、やったぜみたいな気分になったのを覚えている。カラオケがその後瞬く間に日本国中に広がり、日本人はますます無口になっていった。仲間といても歌っていれば事が済んでしまうこの文化を僕は嫌った。「おにいさん、歌わないの?」なんて言われると、若い頃頭にカチンときたものだったが、この頃は態度も使い分けられるようになった。
ワヤンやグスは興味と罪悪感で妙に落ち着かず、僕は毒を一服盛ってしまったかなと危惧もしたが、独身のマデとかグデなどには絶対に誘わないことにしようと思った。「カラオケ」を「いかがわしい」ものにしておかないと、バリ島の各村落共同体はその存在を揺さぶられるだろう。まだたいていは貧しくたべてゆくのが精いっぱいの島で、女性に狂いカラオケにお金を消費し、さらに借金まで抱え込んでしまったら...。今はまだカラオケは経営者たちがどう頑張ろうと「いかがわしいもの」にならざるを得ないのである。


2000年12月17日
四季が凝縮されて

毎日のように熱帯の植物を見ているのだが、ブーゲンビリアやフランジィパニという花などは年がら年中咲いている。ホテルの中庭の大きな木はいつも青々とあいている。しかし、パラリパラリと枯れた葉も落ちるのである。全部枯れて、芽が出てきて花が咲き、葉が出てくるのではない。一本の木の中に四季みたいなのが同時に存在していて、今日はこの葉とこの葉を落とし、この芽とこの芽をだして、という風にローテーションを組んでやっているみたいなのだ。果物の中にはその収穫の時期というのがあるものもあるが、果たして植物と同様熱帯の人間もよく似たものなのか。
プジャナは毎日皮ジャンを着てしばらくそのままであるし、長袖、ポロシャツ、Tシャツと、その日のうちにでも着るものが変る。僕らではあんまり感じないのだが、気温が下がると風邪が流行する。これは日本の冬みたいなものだ。一日のうちで微妙に気温が変り、これに風が作用する。おそらく、一日のうちで植物と同じように四季をローテーションで感じ取り、ローテーション通りの働きをしているに違いない。
四季を持つ日本人から見れば四季が一日の中に凝縮されてあるのが、熱帯人なのかもしれない。僕は12月28日に日本に帰ることになる。果たして、僕の身体はどのように反応するか。寒くて寒くてたまらんのではないかと予想し、今から対策を考えるのである。


2000年12月18日
愛してるよ

僕の生まれて育った東紀州の尾鷲には「君のことを愛しているよ」にあたる表現がない。愛する人ができ、その恋心を告げる場合、どう言うかと言えば、「いな(おまえ)のこと好ききってくじょー」「好きなきってく」と言うか、「私のこと好き?」という問いに「おう、好きじゃれ」と言うくらいしかないのである。「愛してるよ」なんて恥ずかしくて言ってられないのである。
「愛してるよ」という言葉を標準語は本当に使うのかは知らないが、どうもこれは翻訳語ではないか、映画くらいの世界で使われる言葉ではないかと思ったりする。インドネシア語では特別に好きな人に対して言う言葉に、「アク・チンタ・カム」というのがあるが、これも本当に日常的に使うのか怪しいもんだと思っている。因みに「アク・センタ・アンダ」と言うと、単なる友達的に「好きよ」ということだそうで、態度と言葉で関係の距離を取っている。これは世界どこでも同じだろう。
で、インドネシアの女性と男性が互いにアク・チンタ・カムしたとして、手を握るのはいいのだそうである。アク・チンタ・カムすれば結婚に突き進むわけだが、結婚までは手を握り合うことくらいが許され、せいぜい進んだとしてもほっぺ、おでこへのキスくらいのようで、それ以上はいかないのかとたずねると、断固として「ノウ」と言う。その表情は嘘をついていない表情なので僕は信用している。
結婚前にいろんな男を試食するというか、付き合ってみるということはかなりの女性にはないようで、結婚したらもうやり直しがきかないのは一昔前の日本と同じである。おそらくやがて与謝野晶子みたいな女性も出てき、恋多き女性の小説なども出てき、そしてさらに「飛ぶのが怖い」みたいな小説も現れ、女も男と同等の権利や自由を獲得していくに違いない。
宗教がどうであろうと、テレビが現れ、炊飯器、洗濯機が現れ、それを購入した人が50%を超えたら、男と女の有り様は、つまり社会はドドーッと変化してゆくに違いない。50%を超えたらほっぺやおでこへのキスが唇やオッパイへのキスに変るに違いない。
どこかに論理の飛躍はあるか?日本だって30年で相当変ったのである。この自然史的な段階を拒否する場合は、重要な科学技術の登場を拒否し閉鎖するしかないと思う。かくして今20歳のナラの孫たちの世代は神経症的なわがままな女性が増えているのかもしれない。


2000年12月24日
疲れるバリ

バリ島は、赤道近くにあるので、緯度の高い日本から来ると暑さを感じる。そしてその暑さの微妙な違いがあまりわからないまま、観光客は帰ることになる。
日本にしてみれば毎日暑く、汗もかくので、とりあえずトイレに行く回数が減り、血液中の水分が減り、身体の動きが鈍くなる。しかもたぶん地球は自転しているわけで、丸い球体の一番ふくれた赤道が最も(専門用語で何て言うのだろう)回転が起こす力が強そうで、つまり外に向って飛ばそうとする力が強そうでそれだけでもここに存在することが疲れることを意味するように思えてならない。
バリ人がゆっくりと歩くのも、ゆっくりと仕事をするのも、このような赤道付近の自然条件があるのだと思う。
バリ人に低血圧の人が多いのは、塩分のものを日本人ほど取らないことと、水分が少ないからのように思えてならない。
それは、皮膚を触った時に、日本人との違いがわかる。水分が少ないという感じがするのだ。普段の生活を見ていても、お茶は飲まず、ビールもめったに飲まず、一杯のコーヒーと一杯ほどの水である。
エネルギーを一気に消費して、身体の水分を出し、血液の濃度を高くドロドロにするのを避けているようであるが、低血圧の人が多いというのだから、なかなかうまくいかないのかも知れない。
前にも書いたが、日本人には四季があり、この四季の変化の調節に失敗すると風邪をひいたり、肺炎、神経痛を起こしたりする。これに気圧の変化が加わるが、だいたい一年を通じて気温や気圧がどのように変化するかはよく知っている。
おそらくバリ人は、1日を通じて気温や気圧がどのように変化するのか、よく知っているのだと思う。ニューヨークのように極端な冬と夏の差はないが、微妙に1日の中で春、夏、秋、冬があり、さらに初春、初夏、初秋、初冬や晩春などもあるのだと思う。
バリの文学作品を読んだことがないので、確信するに至らないが、このような一日の中の微妙な変化は、詩人や小説家の作品に表現されているのではないだろうか。


2000年12月25日
バカス
「バワの家に行こう」ということになった。バワはデンパサールに住んでいるから、てっきり車で20分のところだと思っていたのだが、バワの家という限りは、バワの実家のことであることが行く前にわかった。クルンクン県にある。クタから車で北へ約一時間半。ギャニャールを通り、スマラプラから約5キロ、バカスという村である。
たいへんな田舎であった。バカスの村の入り口に割れ門があり、そこからバカスの村なのだが、あたりは棚田とジャングルで割れ門から2〜3分走ると人家が見え始める。大きな家ばかりである。
仕事がないためバワやさらに若い世代はこの村を離れ、デンパサールやクタ、サヌールに出かけ、そこで仕事を見つける。バワは、このバカスの実家の跡継ぎであり、バワが実家へ帰るとなると、そこは本家なものだから、分家の親戚筋が集まってくるそうだ。
300坪以上はあるだろう。そのうち100坪程は家の寺院になっており、3棟の一階建ての建物がある。各建物の扉はジャンクフルーツの木でできており、鳥や花の木彫りがほどこされている。宮殿をずっと小さくしたものだが、そこにバワのお父さんが一人で住んでいるのである。弟がすぐ近くにいるし、一人で住んでいるというより、親戚一同、近所の人一同と住んでいると言った方がよいかも知れない。
「お幾つですか?」と聞くと「83歳だ」と言う。「バリ暦でしょう。西暦では、お幾つですか」と聞くと73歳だという。笑わない人だった。
バワの家から山側を眺めると、高い木にドリアンが実をつけている。ジャックフルーツ、ランブータン、パパイヤが見える。静かである。鶏の鳴き声が静けさを破る。
僕は、15分位で、挨拶をして帰るつもりだったが、とんでもない話で、バリのおもてなしをこれからしっかり受けることになった。今日は特別な客が来るということで、朝早くから、食事の用意するために、はるばるヌサドゥアからバワの妹達もお手伝いに来、従兄や近所の人たちも準備に集まっていたのだった。一同集まって食べる形式をムギブンと呼び、これがバリのナシチャンプルだという料理がでてきた。一つは、ジャックフルーツと豚の皮が主になったもの、クローブの葉とインゲン豆と豚の皮が主になったもの、若いバナナの木を主としたもの、アヒルのアヤンバンガンブンブバリ、サテなどなど。たいへんなご馳走である。これがまた美味しく、バリの米も美味しく、うまい、うまいと食べたのだった。これを作る為にみんな集まってくれたのである。
食事の間、いろいろと話をし、その後、村を少し歩いた。ヌサ・インダーという赤い舌のような花の名を知り、道端の植物をあれこれと見た。500m先がラフティングの出発地点である。そこがこの村の端である。この村の人口は300人。1つの村に5つのバンジャール(自治会)がある。
闘鶏をやっているというので見に行った。男たちは、軍鶏の品定めをして、金を賭けている。この闘鶏は村の寺院の改築費用捻出の為に行われているのだそうだ。
道端にパイナップルが生えている。ランブータンが生えている。300人くらい生きてゆくのに十分な食糧がこの村にはあるように見える。僕は海育ちなので、このようななり物は珍しい。バリ島ではやっぱり魚は食べられないなと思う。魚を運ぶには気温が高すぎ、遠すぎる。
「仕事をリタイヤしたら、ここに戻るのかい?」とバワに聞くと、「そうだ。」と答える。
村を遠く離れた者も、バリでは実家の村に所属するため村のセレモニーの時は必ず村に戻ることになる。デンパサールの村組織には属さないのだ。村をいつまでも宗教的に行政的に支える仕組みになっている。
甘いバリコーヒーをいただいて帰途に着く。クリスマス・イブである。夜、グランブルーでは、スイスのグループ、オーストラリアのグループ、日本人達のグループで賑わっていた。
バワは大忙しだった。


2000年12月26日
思えば、思えば

思えば今年の5,6,7月、3ヶ月に渡るバリの滞在で到着してから3週間後くらいに風邪をひいてダウンし、それが逆に休養になったのだった。回復してまた3週間くらいでへたばったのだった。僕はこの事実を年のせいであり、膵臓のせいだと思っていた。今回は、50日に渡る滞在だったが、思えば同様だった。約3週間でへたばるのである。
以前に書いたことだが、バリ島にいる時は日本にいるときよりも1.3倍のスピードで外へ放り出される力を重力でバランスを保たなければならないため、疲労度が大きいのだと思う。速い飛行機での旅の方が疲れるのと同じなのだろう。この計算でいくと約3.5日で日本にいるよりも2倍疲れることになる。
僕はこの辺のことがわからなかったために、日本にいる時と同じ程度に興奮し、同じ程度に怒り、同じ程度に喋っていたのである。約33%身体の速度と精神の程度を落とせばよかったのである。帰る間際にこのことに気がついたのだった。
また四季が一日の中に凝縮されて訪れるという比喩を発見したのだが、このことも良く考えてみれば恐ろしくエネルギーのいることかも知れない。
バリはビジネスをする場所ではなく、リゾートをするところなのである。何もしないで日なか寝そべり、水につかり、読書をし、熱帯の植物やふいに訪れる鳥や昆虫を見て、くつろぐだけくつろぐ場所なのである。レゴンダンスやケチャダンスはつかの間ののんびりしすぎた精神を刺激してくれる心地よい芸能である。
路上に座るバリ人、感情の遅い女性店員、何もかも熱帯のリズムなのである。
だがしかし、なぜレゴンダンスやケチャダンスは激しい音楽なのだろうか。それは、いつも1ではなく0.5とか0.6とかのエネルギーを使っているバリ人たちのたまったエネルギーの爆発なのである。ジョゲットダンスに興奮する人たち。この時ばかりは動作も機敏である。バロンダンスで戦いを演じている人たちも動作は速く、とても日常のバリ人とは思えない。
「政治状況は大丈夫なのかい」とバリ人に聞くと「あっちこっちでデモしたり、小暴動起こしたりしているうちは大丈夫だよ」と言う。
「黙り始めたら怖いのさ。」
話は外れてしまったが、今度来る時は、相当、気持の持ち方を変え、その準備をきちんとせんといかんなあ、と思いながら、そうそう性格は変えられないし、認識力で性格をコントロールしなくちゃいかん、とまた厄介な問題を抱えてしまったのである。
もちろん基本的には、この熱帯の環境に体力がついていけないという「老化」の問題なのだが。若い人が思うことではない。