No.5(2000/05/31〜08/19)

2000年5月31日
ひどい話

バリ島から日本に旅行する場合、きちんとした手続きをふめば、日本領事館も厳しいとは思うけれど、ビザを発行してくれる。ひどいのは、インドネシア人同士のことだ。
普通、パスポートを作ってもらうのに、余白2ページくらいで45000ルピアである。これが正規の値段である。このパスポート発行に中国系のブローカーが絡む。
ビザを出してもらう為、あらかじめ旅行日程を先に決めている人がほとんどだ。そこが目のつけどころと、期日までに間に合わせたいなら、お金を出せ、俺がうまく話をつけてやる、と申請手続きの周辺にいて、話をもち込んでくる。パスポートを作る係員も、その仲間もすべてグルである。これで1,500,000ルピア(約25000円)をとられる。
次は、出国の際である。日本なら無料のところである。政府は出国するインドネシア人から1,000,000ルピアをとる。計2,500,000ルピア。普通の人のサラリーの5ヶ月分である。
さらにおまけがつく。日本で物を買う。それを持って帰ると、なんだかんだと言ってお金を要求する。ひどい国である。たかりである。ふんだりけったりである。役人がそれをする。役人は給料が低いから、という理由がつく。だから、政府が悪い、となる。
脱税がほとんどで、道路などのインフラも整備できない。役人にそこそこの給料も払えない。だから利権でもうけようという者が出てくる。この悪循環が経済の裏で繰り返し繰り返し行われている。
日本の敗戦時のように、外から強制的に変革されるなら、改革は進みやすいのだろうが、インドネシアにまだそのような機会がない。スハルトが沈んだだけではこの国はおいそれと変りはしないのである。そう簡単に自分自身の力で、過去からの習慣や関係性を断ち切れるものではない。
この国が、せめて日本くらいまで(良いとは言えないまでも)つまり、一般大衆が正規料金でパスポートが取得でき、無料で出国できるようになるまであとどれくらいかかるだろう。
さて、このことに関してのバリ島民の意識だが、ほとんど外国に出ないから、被害の意識はなく、そんなものだと思っている、といった方が正解の感じがする。
僕は、このH.Pを通じてこのような問題を書きつづけている。
<不安>は、<わからなさ>からやってくる。なんとかして<わからなさ>をわかるように明らかにしたいと思う。


2000年6月1日
バリアン

イダが事あるたびに行くというバリアン(ヒンズーの僧侶で呪術師)のところに行ってみる気になった。慢性膵炎という不治の病を持つことになったのは10ヶ月ほど前で、以後、食べ過ぎたり、アルコールを飲むと病んだ膵臓からの乏しい消化酵素のせいで胃が痛んだり、疲れやすくなった。体重も74kgあったのが、60kgまで徐々に落ちてきた。周囲の者もすっかりスリムになった僕を見て、癌などに犯されていないか心配する。とにかく、膵臓が病んでいてこれは元には戻らない臓器なのである。
キンタマーニ近くのバンリという村に、そのバリアンがいる。昼間は行列ができるということなので、夕方から出かけることにした。お供えを途中、道沿いの店で買い、そこに心づけを入れた。八時半の到着で、そのバリアンの屋敷に入った。すでに、10人ほどの人がいて、僕はシバ神やウィヌス神、ブラーハマ神を祀る屋敷内の祭壇の前で30分程順番を待った。
イダの話によると、いくつかの敵を追っ払ってくれ、悩みは解消し病気が治る、ということである。
元に戻らない臓器が治ったとしたら奇跡としか言いようがないが、彼は、目を閉じ、しばらくして目を開け、僕の現在のバリの住居、そして日本の住所の位置関係を聞き出した。そして僕の家の絵を描き(前に鉄でできたゲートがあり、広い庭があって奥が住居になっている)、そこから線を引き、この辺に僕を強く呪うカーリーヘヤーの太った女性がいることを告げた。思い当たる女性がいる。次に僕が生まれて育った家の位置関係を聞いてきた。しばらくしてまたペンで線を引き、印をつけて、「ここにヒーラーがいる。」と言った。「心当たりはないか。」と言う。確かに子供の頃、そこに祈祷をする女性がいた。
この二人からマジックパワーが出ているという。
僕はその二人がマジックパワーをかけたとして、どうすればよいのか、と聞くと、「それは知っておくだけで良い。」と言い、次に僕の内臓の絵を描き、「胃の上部の辺が鉄のようになっている。」と言った。「鉄のように」とはどういう意味かわからなかったが、その部分をギザギザの線で強調した。
僕の膵臓は繊維質状態で固く腫れている。そのせいで消化酵素などが出にくくなり、胃がただれてしまう。三日前にバリュームを飲んでレントゲン写真を何枚も撮って胃のただれが判明したばかりである。
マジックパワーを解き、聖水で身体を浄化することに同意するか、と聞いてきた。「プリーズ。」と言うと、にっこりして「土曜日に来なさい。」と言った。薬草も調合すると聞いていたが、僕の場合、それはなかった。
バリアンとは、情報ストックのような人である。かなりの知識と経験を持っているようだ。それに常人以上の透視とか念ずる力とか何かすぐれた能力を持っているのだろう。
自分で自分の膵臓をどうしようもできないのだから、ここは身を任せるしかない。「土曜日の夕方、聖水で悪いところを取り除いてやる。」この不信心の僕がこの言葉を信じるしかない。


2000年6月4日
バリアン(つづき)

さらに加える話がある。実は、僕の仕事上のパートナーであり大先輩のY氏も一緒にバンリのバリアンのところに行ったのだった。彼には糖尿の気があり、不整脈があるらしい。日頃、メデテーションを行い、この世界(?)は詳しい。
彼に対して、そのバリアンは、「腰がいたいのではないか」と言った。このことは、彼と僕以外誰も知らないことである。僕は3日前、彼の腰に膏薬を貼ったばかりである。スクーターでの軽い事故が原因だった。それを言い当てたので、彼は驚き、これはホンマモンだと思ったようだ。次に「腹のところで炎が立ち、そこで滞留していて、全身にパワーが行き渡らない。パワーのバランスが悪い。」と言った。
1ヶ月程前、彼は僕にメデテーションも自律訓練法も独学でやっているものだから、もう少し極めたいので、東京のとある道場のようなものへ行きたいのだ、と言ったことがある。大変気持が良いのだが、まだ、今ひとつすっきりしないらしい。
このような背景があるものだから、彼はもうこれでパーフェクトにホンマモンだと思うようになり、スーッと<信>の世界に入った。
僕は、慢性膵炎は絶対治してほしいのだけれど、心にホンマカイナ、イヤ、コンカイダケシンジヨウとか、シンジマスカラ、ナオシテクダサイとか、いろいろ不信の証拠となるような思いがチラつく。
さて、金曜日の夜、エステの女の子たちに体験談を話していたら、まだ23歳の受付の女性(女の子)に、「信じてるの?信じないと効き目はないわよ」と言う風に言われた。わかっとるわい、イワシの頭も信心から、と言うやろ、と言ってしまいそうになったが、知らん振りして、フンフンと聞いていた。まだ、ホンマカイナと思っている.
土曜日が来た。仕事を済ませて、3時からバンリに出かけた。クタから2時間近くかかる。バンリまで道がきちんと舗装されている。イダは、このバリアンのためにスハルトがぬかるみの道をアスファルトに変えたんだと言う。
バリアンの家の近くから車が左側に駐車して並んでいる。これは相当待ちそうだ。家に入るとまずY氏のための薬草が用意されており、それを篭に入れて、待合場所にいく。
今日は、ヒンズーの儀式どうり、お祈りを捧げて、身を浄めてから、順番を待つことになった。たいへんな人だったが、土曜日は相談を聞いたり、口頭で答えたりする日ではないらしく、まずY氏らのグループ、つまり自らの身体から発現する病気の人に、マントラを唱え聖水をふりまき、そして飲ませ、顔を洗わせ、薬草を食べさせることを何度も繰り返して、5分ほどで終了した。
次は、僕も入るグループで、これは、他からかかったマジックパワーで発現する病気の人たちである。上半身裸になり、手のひらを上に向ける。するとマントラを唱えつつ、各人の手のひらに聖水を注いでくれ、それを頭にかけ、飲み、顔を洗い、ビシッビシッと冷たい聖水を体中ビショ濡れになるまで浴びる。マントラよりも聖水のかけ方に迫力がある。
要するに全部まとめてやってしまうのである。
僕はマジックパワーがとかれ、Y氏はパワーの位置が正常になったということになる。五日以内によくならないようだったらまた来なさい、ということにだった。帰りの車の中で、僕はやや胃が腫れているような気がするものだから、いつもの漢方薬を飲んだ。病院で「膵臓から消化液が出にくいものだから胃がただれている。」と言われ、胃薬をもらった。それから5日間、調子がよく身体も疲れない。
願わくば、この慢性病から解放されたい。Y氏は陽気で、前向きで、ヨクボシで、すっかり治ったと思い、はしゃいでいる。僕も治ったと思いたいが、心の底から思えない。でも期待し、心のどこかで信じている。
そして後日談がきっとあると思う。


2000年6月5日
時間の感覚

僕としては、相当真面目に書いているつもりであるが、残念ながらこの日記は25時間目に、妖しい夜の時間も果てるころに書いているので、文章を推敲する時間がない。
今日は、この日記を読んでくれている方がわざわざ訪ねてくれて、嬉しかった。言い訳めいているが、夜の時間は不健康で、貴重な時間なので、なんだか妄想を湧かしているうちに、24時を過ぎるとその後は限りのないような闇の中に沈み、そういう中で思ったことを書いている。朝や昼は「実」の仕事時間で急に「虚」になれなくて、従って文章を再度見直すことはない。世界が全く違うのだ。
さて、バリのことである。
この前、バンリのバリアンのところに行った時、多くの人が順番を待っていた。我々日本人の多くは時に時計を見て、時間に気にかけるのだが、バリの人々は待っている間、全くイラつく様子もなく、時間を気にする様子もない。そういえば、最近までイダも時計を持っていなかった。時計がなくても、時間は別の感覚であったのかも知れない。太陽が昇る頃とか、沈んでから薄闇の頃とか、お腹がすいた頃などと。また、そう言えば、であるが、食事をする時間も決まっていないように見える。いつも、もう12時だ、昼にしよう、と言ってもピンとこない。夕食も同様である。家族のそれぞれが、てんでバラバラに必要時に食べるという感じだ。
話を元に戻すと、時間にそう縛られていないバリの人達の時間の感覚はどのようなものだろう。
3才ぐらいから小学校を卒業するまでが、相当長かったような気がするが、あのような感覚なのだろうか。20才を過ぎたあたりから時の流れる感覚がますますスピードアップしていると感じるのは、生活の時間が、仕事時間などに縛られているからだろうか。
空虚に待っている間も、日本の場合は、雑誌や漫画が置いてあったり、テレビが提供されたりする。貼り物も多い。それらを読むこと、テレビを見ることで、脳の映像を映し出す部分がいつも忙しくしていて、時の経つのを忘れることが多いから浦島太郎のようにあっという間に時が過ぎたと思えるのだろうか。
この点の感覚の違いをつかんでバリ人と一緒に仕事をするのは、重要だと思える。そのことでイラ立つことはなくなるのだから。時間感覚を大幅に延長してもてばいいのだから。もっとい言えば、ゆったりとした時間の過ぎ方のほうがより一般的かも知れないのだから。


2000年6月9日
せめぎあい

もっと詳しい感情はわからないが、バリ島がリゾート地化され、バリの人々に観光産業がつまり第三次産業の立ち居振舞いが身についてきたことから、感情は第三次産業の色彩をもつようになってきた。
村落共同体は、さまざまな面から、その存在を脅かされているように思える。
例えば、ひとつの会社、またはグループ会社は、ひとつの地域から何人も人を雇ってはならない、という暗黙のルールがある。また、同じ会社で親、兄弟、妻が働くことは良くないことだとされている。
これは、会社に対して、相当に強い人間の関係性を持ち込まないことで仕事に悪影響を与えまい、という意思と裏返しに、会社の仕事と村の行事がぶつかった時に、村の行事を守らなければならないという意思も働いている。
つまり、会社と村落共同体の利益が合致しているのである。
しかしながら、個々人はそんなことを言ってられない。職がなければ誰でもどこでも働きたいと思うのが心情である。個々人は、なんとかそのルールを無視し、あえてその障壁を越えてしまおうとするが、すぐにチクられたりして、採用前に頓挫するのである。
この辺のところが、個人と共同体のせめぎあいのところでそろそろバリ島もその臨界点まできているのかな、という気がする。もしかしたら、まだ共同体側の方に余裕があるのかもしれない。ここら辺りの感情がちょっとわかりにくい。
若い人々は、核家族化を押し進める。子供により高度な教育を身につけさせたいと考える。家族の宗教的セレモニーは大切だが、村の組織への参加は、必要だけれども億劫になることもある。
バリで仕事をするということは、自分も現在のバリに巻き込まれ、バリの人たちをも巻き込んでしまうということである。
自分自身にとって、未来に通じる言い方をすれば、彼らのはにかむ微笑や、スラッとした身体や、ゆっくり刻む時の流れ、はっきりとした昼と夜、食欲の自由なリズムなどに人間と言うものの原型を見ることだ。このような原型というか、人間が太古から持っている原初のイメージから今の自分を視ることによって、未来につなげてゆく、としか未来に通じる言い方はないのである。
一方、僕の周囲のバリの人たちは、僕を通して、未来を視ている人もいるだろうし、僕という壁のところで立ち尽くす人、さっさと遠ざかる人、それぞれだろう。縁あったもの同士が互いを契機にある豊かなイメージをつかみとってゆくしか共に歩む方法はないのだと思う。
そんな七面倒臭いこと考えずとも「仲良くやればいいじゃないか」と言われれば、それまでなのだが。


2000年6月11日

バリ・ガラスでできたレストランを建設中である。建設と並行して、様々な準備をしなければならない。料理の決定、ドリンク類の決定、メニューデザイン、トレーニングなど事細かである。
最高の味、最高のもてなし、最高のデザインがあれば、成功することは間違いないだろうが、そのシンプルな、3つの原理に到達するには、事細かに微密に物事や想像力を積み上げてゆく必要がある。
そのような中で、今日は日曜日。天気がよく、爽やかである。レギャン通りをブラブラ歩き、シェフ特別用のスカーフとエプロンを探すのが、外での唯一の目的である。久しぶりに買物気分で店を見て歩いていると、ちょっとずつ新しいおみやげ物も出てきている。ビーズ物が流行っているのだろうか。
シェフ用のスカーフは、絹のバティックを使用したいと思っていた。絹のバティックを売っている店がベモコーナーからクタスクウェアに行く途中の右側にあったのをおぼえている。値段も定価でびっくりするほどだったのもおぼえている。
その店で買おうと思っていた。シェフにも好みはあろうが、これは僕が決めるつもりだった。ひとつは、シェフの肌の色や雰囲気で決めた。つまり、色に意味をもたせずに決めた。茶とえんじの間のような色で金色も入っている。
もうひとつは、色に意味をもたせたかった。あんたは、シェフなんだ。料理の世界では、最高の地位なのだ。それに恥じないように頑張れ。みたいに、その事が通じるような色を選ぼうと思った。あまり知られていないが、バリ島には、色のヒエラルキーがある。
アグン山のあるほうには聖なる者が宿り、海のほうに邪悪なものが住むと見なす。その聖なる色は黄金である。その対極の色は、黒である。黄金色、白、黄、赤、黒と続く。
黄金色は、楽器や舞踊の衣装でも使われるが、その色の見事なのは、家族が行う通過儀礼の時だ。全てが黄金色である。全ての色に似合う完全の色である。
白地に黄金、赤に黄金、黒までも黄金色が配され黄金色は黒に負けないのである。
あれこれ考えた末、シェフのスカーフは、黄金、白、それに淡い水色、黄色が入ったものを選んだ。
黒は、邪悪な神バタラデュルの色だ。シェフは黒を希望していたがやめた。
白は、ブラーマ(慈愛の神)の色だ。それに太陽の色(黄色)と火の色(赤)が加わる。その中に火を使う台所での仕事が主なのだから、赤が入っていて欲しかったが、それは見当たらなかった。
かくして、明日は、これらのスカーフを見せて、特別な思いをシェフに伝えるのである。このようにして1つ1つ片付けていく。レストランオープンまで、あと50日である。


2000年6月13日
崩壊、そして・・・

戦後、最大の事件といえば、僕は阪神大震災とオウム真理教事件、そして神戸の少年の事件だと考えている。
それらの事件は、戦後日本人が励み、生きてきたことの崩壊を意味しているように思える。
近代都市が一瞬にして崩壊する。制度も法も、過去も明日も崩壊する。それが阪神大震災である。オウム真理教事件では、ただ宗教的な動機で無関係な人々をサリンで殺した、という動機や縁のない殺人が起こった。それに心優しそうな知性の人が参加しているのからしてわかるようでわからない不可解さがあった。
もっと心の核の部分を現実に浸犯してみせたのが神戸の事件だった。家族、親と子、その事件はやはり戦後50数年間のこの日本の社会の中の家族、親子の関係、心の奥底を衝撃的に映し出した事件だった。この事件はオウム事件と底のほうでつながっているのかも知れない。
それら3つの事件は1990年代に入ってから、バタバタと起こった感じだ。
近代都市などは一瞬にしてつぶれるんだよ、そのときあてになるのは、個人、個人が生きていく力なんだよ、制度や規則なんてまるっきりダメなんだよ、政府みたいなのも労働組合みたいなのもからっきしダメなんだよ、そんな中で、それでも人間はやっていくんだよ、弱さも強さもズルさも、全部さらけだして、みたいな強烈な衝撃が世界の人々を揺さぶったと思う。それが阪神大震災だ。
前置きが長くなったが、それが今日の話である。
阪神大震災後、自分が経営する事務所、住む家を失った時、夫婦はどうなるか。夫婦それぞれの過去、現在の思い、未来へのひそかな思い、それらも凝縮されて、噴き出てしまうはずである。その凝縮のされ方を想像するのは難しい。
男はこの際に自然に順したような生活を送りたいよ思い、女は男についていこうとしたけれど、都会の生活をやっぱり好む。それは逆であってもよい。二人で次を見つける旅もした。バンコク、シンガポール、バリ、ブルネイ。漂流するように旅をした。二人とも元には戻りたくなかった。壊れたものを建ち直らせる、その原点のような希望がなかった。
希望とは新しく別々に、それぞれの思いでやり直すことだったのだろう。女はバリ島で踊りにはまってしまった。男は別の事を考えていた。ある日、女のほうから男に別れたいと申し出があり、それは受けざるを得ない感情のものだった。


男は一人になった。長く滞在したバリ島、そこでやり直そうか、どうこれから生きていこうか。被災から4年。男に心ときめかせるバリ島の女性が現れた。こんな感情がまだ身体のどこかから湧いてくるのかと不思議に思いながらも、突き動かしてくる心の衝動は激しかった。
何もかも捨てて、ヨットにすべて生活道具を入れて、黒潮を避けるようにしてグアムの西を渡り、漂海民のスラウェシを渡り、バリ島に入った。その女性がいたからである。ヨットをバリ島に向かって意思して操ってきた。漂流してきたのではない。逆である。
日本からバリ島へ逆にのぼったのである。幾らかの蓄えはある。バリ島でつつましく生活してゆければよい。そう思っている。しかし、なんだか第二の人生が始まったようで、やろうぜ、と思ってくる。僕は、やろうぜ、と思い、やろうと起き上がった時の男と会った。今日のことである。


2000年6月14日
おいしいもの

 僕の住む町は、一方が海で三方が山で囲まれ、ほんのちょっとの平地に人間が貝のように集まって住んでいる。昔は、林業と漁業で栄えた町である。
山は、人工植林だから、なんとも不自然でいつも緑色をしているが、海の方は、少なくはなったが、磯釣り、堤防釣り、波止釣り、砂場釣り、船釣りとなんでもでき、魚種も豊富である。
2月の末あたりから3月の初旬あたりになると「えたれ」といわれる小さないわしにアブラがのりはじめ、一夜干しか一日干して、それを焼いて食べると絶妙にうまい。わずか十日程の間だから、スーパーなどにもまわらずほとんど地元の魚屋さんあたりでなくなってしまう。
オニエビという深海のエビがある。10cm程の頭の大きいエビだが、このエビを塩ゆでして食べる。頭の部分をはぎとるとミソがでてきてそのミソを食べる。これがまたまたおいしく「将太の寿司」という漫画のネタにもなったほどだ。
これもスーパーなどには出まわらず、料理屋でもなかなか出てこない。量多くとれないのだろう。このように東京や大阪の大消費地に出まわらず、ここの町の料理屋でもなかなか味わえないものがある。
これは、バリ島も同じで、美味しく、少ないものは、地元産品である限り、さっさと地元でなくなってしまう。地元でさっさと売れてしまうのだから、別の場所で果たして好まれるかどうかわからないものをトラックなどを使って、別の市場や業者にもっていくことはない。
さしずめココナッツクラブ(ヤシガニ)などはその例だろう。きっと地元の誰かが時にうまい、うまいといって嬉々として食べているに違いない。
川魚も海の魚も同様である。川魚などは、スーパーなどではほとんど見かけない。日本の「あまご」や「イワナ」だってそうだ。貝も、バリのレストランで見かけるのは大きくて味も上等でない「あさり」だけである。巻貝やつぶ貝のようなものは出まわらない。
自然のおいしい食材はある地域で少量しかとれないため大量に出まわるもので、レストランは、加工術にビジネスの命をかけて、食を提供することになる。
美味しいものとは何か。自分が生まれ育ったところの自然と風土から取れるもの。それに、簡単でシンプルなものだ。料理屋のお茶漬けではなく、自分でお茶をかけて食べるお茶漬け。卵をかけて食べるご飯だとか、そんなものが、結局おいしいということになってしまうのでないか。
池波正太郎の「創客商売」や「鬼平犯科帳」などで紹介される料理は、シンプルなものばかりである。これがコテコテと飾り、加工された一流シェフの料理よりも、美味しそうに思えるのだ。
おそらくきっとバリ島の人々も少量のおいしいものを、ごくあっさりと料理して、食していると思うと、何とかそれが手に入らないものかと思ったりするし、あきらめもすぐに思い立つ。


2000年6月15日
ランダ、ランダ

「『ランダ』って魔女、つまりオンナだよね」とエステのスタッフたちに尋ねると、彼女達はちょっと考えてから「そうよ、そうそう」と答える。
「君らもオンナなんだから、君らの中にランダはいるよね」と次のタマを出す。???と首を傾げ、「それは、悪い行いをする、ということ?」と聞き返してくる。
「いや、悪い行いとか、具体的なものじゃないんだ。つまり、ランダだ。それは身体のどこかに密んでいて、悪の根っこ、どんな風にでも形を作り出す装置のようなものだ。」
「えっ、私の身体の中にあるの?どこにあるの?」
「ああ誰でもオンナは持っているんだ。それがランダがオンナであるということの意味だ。」
と自分でも訳のわからない方向に行こうとしている。しかし、意外にもこの話に乗ってくるのだ。
「私のどこにランダがいるの?」とカーティーが聞く。僕は、すかさず「ここだ。」と言ってカーティーの右脇腹の下を指でさす。えっと驚いたような様子で、右脇腹の下を見る。別の女の子は「私はどこ?」と聞いてくる。と、僕はパァっと、血液の中だとか答える。
いい加減にいっているのに本気にしそうな雰囲気である。
ちょっと話題を転じて、
「オンナというのは、オトコよりも身体が強いだろう?長生きするよね、オトコより。精神も強いだろ?オトコなんてのは見せかけだけで、本当はどうしようもなく弱くてだらしがないだろ?」
「うん、うん」と一同5人程、相槌。
これは、オンナの身体の中にランダが住んでいるからだ。だから強くて長生きするんだ。」
「ふ〜ん???」とわかったようなわからないような雰囲気。
「悪がいるから長生きするの?」
「そうだ、まさに正解(パチパチパチと拍手)」
「悪がいるからこそ長生きするんだ。全身、善ばっかりだったらどうなるんだ。それこそ最悪じゃないか。善と悪のこの微妙なバランス、これがバリ・ヒンズー教だろ」
ここでみんな「うん、うん」とうなずく。
「ところで、本木さん、あなたにはランダはいないの?」
グッドクエスチョン。
「オレは、バロンだ。」
なぜかオオウケ。僕も頭がますますハイテンションになって
「オレは、バロンだから、ノーティーみたいなベイビー・ランダがいるやつから、アルフリーダーみたいにお化けランダがいるみたいな、まわりがそんなのばかりだから、ヘトヘトだ。バロンはいくらランダと闘ってもダメだろ。チュルルックやスリンギ、ランダの子分はいっぱいいる。わかってるかい。バロンがランダを巻き散らすんだ。まさに、オトコじゃないか。そのくせランダを退治できないだ。おおこの矛盾。」
すっかり僕は酔っ払ったようになってしまって、バロンになった振りまでし始めた。われながらツジツマがかなりあっている。
一気にここで煙にまいて、
「ところでね、オトコの死に方で、一番幸福な死に方って何か知ってるかい。死に方にもいろいろある。病院で死ぬ。家でみんなにみとられて死ぬ。孤独に死ぬ。事故で死ぬ。どれも変りはないけれど・・・・」
といっていると「アタシ、ウチ」などと言ってきたのはニョマン。
「オトコはね、オンナのオ○○コに頭を突っ込んで死ねたら一番いいの。わかった?」
一瞬?????
「元に戻るっていうわけ?」
「そういうこと、ピンポーン。」オトコはその願望だけで生きているんだ(?)」
「だってオンナもオ○○コから出てきたんだから、戻りたいんじゃないの?」
「ノンノン、自己矛盾。自分から自分のオ○○コには行けんだろ。」
「だからオンナはランダのような魔女になって、オトコが死んでからひっそり死ぬんだ。まあ、善なる(大悪なると言ってもよいのだが)オトコを吸い取ってから死ぬんだ。」「どこへ行くと思う。」
すると一人が「海」、一人が「どこか。」霊界とでも言いたいのだろうか、言葉がわからない。「どこでもないんだよ、死ねば終わりだ。」ノーティが「グッバイ」などと相槌を打つ。「生きている間に、自分の中のランダをまつって、ねんごろに大事にしたらいいんだ。」などと僕はすっかりプリーストになったような気分で「ナイストーキングだね。」
一同チョンチョンで、一幕が終了した。
◎ランダ:バリ島で悪の化身
◎バロン:善の象徴


2000年6月19日
バリに住みたい?

僕はまだかつて、バリ島に住みたいと思ったことはない。ここを定住の地としようと思う気持がどうにもわからないのだ。もちろん、そう思わせない理由は幾つもあるのかも知れない。例えば、仕事が日本にもあるとか、年老いた両親が日本に住んでいるとか、である。
バリ島では、居心地よく仕事をしている。日本にいるよりは楽しい日々が続いている。
僕の好きな地のひとつであるが、定住とまでいかないまだ行ってみたいところがある。何ヶ月か住んで見たいところもある。マラッカとか、モロッコあるいはニューヨークとか。
リスボンは好きな町のひとつで、アルファーマあたりに住んでみたいと思ったり、ナザレの海岸のそばに何ヶ月かいたいと思うこともある。東京の下町でも小さなアパートを借りて4月の桜を見、下町の商店街をぶらぶら買物をして、みたいなこともいいなと思う。
それらすべてを実現させようと思ったら、その場が一番便利となる仕事を作らなければいけない。
ジプシーではないが、行く先々で仕事を作り、人と接し、人と共に築きあげてゆく。長く滞在できる条件とは何か、と問えば、自分の場合、きっと食材だろうと思う。
このことを考えると、僕には明確に故郷がある。そこで、2月の下旬から3月の上旬の10日程の間にとれる「えたれいわし」は、この10日間だけあぶらがうっすりとのって美味しい。軽く塩をして一日干してから焼いて食べる。
あるいは、11月頃から南下してくるサンマは、まだあぶらがおちきっておらず、これを丸のまま干物にすると実にうまい。夏になれば鮎がおいしい。
バリ島の川魚を見たかったので、料理長に買ってきてくれないかと頼んだ。彼が持ってきたのは、鯉に鮒(ふな)、それになまず。貝といえばタニシの大きなものだった。川魚の種類が少ないのに驚いた。
日本でも川魚はそんなにスーパーなどには出まわっていないが、熱帯の地には、鮎やアマゴはいないようである。
僕は、貝や魚、蟹などが好きで、その点ではリスボンはよい。タカノツメという僕の住む町でもとれる貝も豊富で、イワシも同じように焼いて食べる。アジの開きまである。
話は脇道に入ってしまったが、どうやら僕の場合、バリ島を定住地と思えないのは、そういうことからなのかと思ったりする。
バリで定住を決めている人で、僕の知っている限りの人は、一様に食が細く、食にあまり関心がない。
この辺が違うところなのかな。すると、どこのところで定住を決意するのか、そこから先の想像がつかない。脳みそをカチ割って、見てみたい好奇心にかられる。


2000年6月22日
グチる人

バリの人々と共に仕事をしている(雇っている)日本人の多くは、「バリ人は、いくら仕事を教えてもおぼえない。自らの判断で仕事を見つけられない」と不平を言う。
僕は、この種の日本人の言うことをほとんど信用していない。
「約束の終了日までにできない」「仕事が雑だ」 それは、裏を返して言えば、雇い主である日本人のことである。
例をあげよう。
朝、民宿めいたホテルで朝食をオーダーする。オーダーは、トースト、コーヒー、ヨーグルトをのせたフルーツサラダだとする。すべて完璧に持ってくるのかと言えば、トーストを持ってきてもジャムを忘れる。今日は、完璧かなと思ったら、サインをするペンを持って来ない。などなど。おそらくこのようなことが日常の仕事の場面で起こっているのだと思う。
バリ人がゆっくり歩くのは、身体を消耗させない、汗を吹きださせないための風土的な知恵である。これをグチってもしかたがない。多くのことは、言語能力が不足する為に起こるものばかりだと思う。だからこそ、指示を出す側に念押しの確認がいる。また、あいまいな返事になっていないか、そうならないようスタッフも確認とイエスとノーをはっきりするという習慣を、これは雇い主の仕事として研修し、身につけさせなければならない。
指示する側が持っているイメージがあるならば、それを何でもいいから表現してできるだけ正確に伝えるか、もしくは、見本を見せるか、一回目の失敗を覚悟するかである。国土、文化、生活習慣、経済的格差のある人々が一緒に仕事をするということは、日本人同士のようにならない。これは、誰でも当然のことと思うだろう。
わかりきったことなのにバリ人をけなす日本人が多い。
「それなら、バリにおるなよ」とつい言ってしまう時もあるが、この頃は、「いやぁ、そんなのは半分ずつの責任ですよ」と笑って言うことにしている。
自慢ではないが、僕らのグループ・バリの人たちに僕は不満はない。その代わり、互いの仕事がうまくいくよう、経理は経理でバッチし指導したし、営業は営業で、受付は受付で、徹底して互いのコミュニケーションをはかった。当初の覚悟として、失敗はしかたがないと思っていた。
海外に荷物を送る場合でも、荷物がどのように空港やトラック業者で扱われるのか、普通バリで生活をしている人は知らないから、傷がついたり、割れたりしないように梱包する方法をきちんと言った上でやってもらう。それを「この荷物、日本に送っといてくれ」じゃぁ、あまりにも無責任すぎる。
このように不満をもらしながらも、バリを出てゆかず定住まで決めている人たちだから、本当は、日本人といっしょにやるよりはしんどくないだろうと思う。根っこの方ではバリ人を好きなのかもしれない。だったら、「言うなよ」と僕はいいたいのだ。


2000年6月25日
<社会性>の世界

個人の世界と共同の世界、この世界をこのように分類することができる。共同の世界は、さらに各個人との関係性の世界だと言うこともできる。
「家」というものを考えた場合、それは共同的な世界であり各個人は、父と子、母と子、兄弟というような関係性のなかで縛られている。
「家」を場所としてみた場合、台所は、家族の関係性の世界であり、夫婦の部屋は夫婦という関係性の部屋であるが、それらは、外、つまり第三者にはあまり開かれていない。個室は完全な個人の世界である。第三者に開かれた、つまり社会性がある場所といえば、玄関、トイレ、応接間、時には居間である。「家」は共同の世界でありながら、その中には、内側に閉じる世界があったり、外に開く世界がある。
近所に人がいなくて、親が人付き合いもあまりないという場合、親と子の社会性はどのように養われるのだろう。
唯一、第三者を意識して、せっせと片付けをしたり、掃除したりする。トイレや玄関も第三者を気にせず、好き勝手に置き雑然としている、家族という関係性だけの場所として使っているのなら、子供の社会性は養われていくとは思えない。
社会性を身につけるために学校にいくのであるが、それまでに何らかの社会性がしみのようにでもついていなければ学校に拒否反応が起こったり、学校での人間とうまくやっていけず、心の病気になっていくのは想像できるような気がする。
人間は、個人の世界の中ではいくらでも妄想を膨らませることができる。どんなイメージを描こうが勝手である。ところが、これは不思議なのだが、この妄想は個人の部屋の中ではいくらでもできるし、寝転んでボヤッとテレビを見ているとき、学校の自分の机にすわっている授業中ならどれだけでもできるのに、二人や三人、グループでいる時、公園などを歩いている時などは、妄想は起きにくいのである。
つまり<社会性>の中にいる時には<妄想>は起きにくいのである。
さて、バリの話。バリの人々は、家も隣近所も互いに開かれている。個人の部屋というものがない。いつも近所のものも出入りする。つまり、<社会性>だけの社会であると言ってもよい。かろうじて夫婦という関係性の部屋があるといってところだ。
バリの人々は、人付き合いも上手に思えるし、喧嘩をすること、大声で怒鳴ることを嫌う。
従って妄想の度合いが少ないように思える。歪んだ妄想のような世界が少ないと思えるのは絵を見てもわかる。病的な絵がない。
個人の妄想の度合いが少ないかわりに共同の妄想が多い。悪魔やら霊やら妖怪みたいなのが多い。病気も共同の妄想の原因や結果であったりする。
日本はいつの間にか、いじいじした神経症的な人の多い国となった。
バリ島は、今後どう進むのだろうか。そして、日本人は、次の時代の理想をどのようにイメージするのだろうか。


2000年7月2日
意志

石をひたすら削り、四角形のものを作り、壁に貼り込めていく作業。床のテラゾーをひたすら磨き上げていく人、ガラスを接着させ、積み上げ、隙間の汚れをとる人、鉄パイプ等で枠組みや支え棒をセットする人、飯を売りに来るおばさん。もっと詳しく言えば、新婚ホヤホヤで6時になったらいつもいなくなる左官屋の大将。やらなくちゃと思っていそうな人、疲れた疲れた、腹減ったをくり返している人。工事現場は、バリ風に遅れつつ、ちょっとづつ進行している。
料理チームは、新しいレシピが多いのにややとまどいながらも、シェフに才能があるため、予定通りにスケジュールをこなしている。
日本チームとオーストラリアチームが加わり、昨日からはウエイターやウエイトレスのトレーニングもスタートした。
レストランを作るというのは、実に楽しいだろうとは思っていたが、こうまで楽しいとは思っていなかった。
自分の世界をレストランに閉じ込めるわけにはいかない。いろいろな好みをもった人がいて、それらトータルの平均値として「客が来る」ことが決定する。
始まりからレストラン開始まで3ヶ月。バリ島というものが集中して現れる。世界の中でのバリ島も、内としてのバリ島も政治、経済、日常的な生活、宗教、システムすべてがこの3ヶ月に凝集されていて、僕はその中で指揮をとるわけだから、なかなか刺戟的である。
最も感じたことは、おそらくアメリカ人が日本人を見る時、皆同じ顔に見えて、みんな同じような考え方をもって何かのっぺらぼうとしたイメージを持つのではないかと思っていた。
バリの人々は、その点で言えば、さらにのっぺらぼうとしている。悪い意味ではない。前にもここで書いたが、個人の生活というものがほとんどなく、共同体の中で生きる彼らは個人の意志をも共同体に預けたり、意志=共同体の意志であったり、恋人ができても、すぐに村に連れていったりと個人、家族、村の境界がほとんどないようなのだ。だから、強烈な個性というものが現れにくい。個性がある、ないは「幸福」には関係ないように思われる。
こまかいことをもうひとつ。バリ島の人々の動作のゆっくりさである。彼らは、エネルギーの消耗を動物的な感覚でコントロールしているのである。
身体を早く動かせば、汗をかく、エネルギーを消費する、タオルやハンカチもいる。彼らの身体の計算能力がこの風土に適応しているだけの話である。
これを無視して、日本人の尺度でやろうとすれば、必ずコントロール不能になるだろう。
今日は日曜日。朝から爽やかな天気である。庭のブーゲンビリアが陽を受けて美しい。その背景にある空の色もまた美しく、バリ島では一番良い季節だ。


2000年7月3日
だまされた分

925と彫ってあるシルバーアクセサリーも安く出まわっているものはほとんどニセモノである。ウブドのマーケットで売っているものはサギ同様である。シルバーを磨く時に使う液で拭いてみたらすぐわかる。メッキがはがれてしまうのである。
僕は、だから気をつけろよ、と言いたいのではない。
発展途上の国では、この手のやり口が実に巧妙にできあがり、それを売っている純朴そうな女の子は、きっと本物だと思って売っているのだ。作る巧妙さから売る巧妙さまで「やるなぁ」と感嘆してしまうのである。
これがいけないことだとか、悪いことなのだから、と言っている倫理や法の基準では、そこを問題にする限りは、やられた側は怒るしかないのだ。
別の観念の導入が必要である。「それは、騙された分をあげる」と言う考えである。原材料費、加工賃、手数料の合計が売っても良い値段だとすれば、それ以上はボーナスである。そのボーナスは、衣類や食べものや家賃にまわるかも知れない。決してアワのように、お金はまわっていかないのである。「だまされた分」は確実に、このインドネシアやバリ島の経済の中に組み入れられ、新しい生産を増やしている。こう考えた方が、まあまあ怒りもおさまる。
観光客で行く限りは、このくらいのおさめ方の心の準備が必要だろう。それをカンカンと怒っていたのでは旅も台無しである。
「だまされた分」のお金は、日本でだったらもっと巧妙にスケールが大きく、しっかりとシステム化されている。麻薬にまわるのか、天下った元官僚にまわっていくのか、そしてそれが生産を促すものなのか、判然としない。
お金の一部は、とにかく海外口座、幽霊会社、他人名義でまわるやり口の中で、裏に沈んで眠っていたり、時効となって表に出てきたりである。
日本人が戦後身につけたものは、僕は何度もこの日記で書いたことだが、「神経症」とこのような「高度なだましのテクニック」である。テレビ局やマスコミはさしずめこの二つの象徴的存在である。
話が長くなりすぎた。


2000年7月8日

いつも不思議に思っていたのだが、まだその理由を聞かずにいる。
それは、食事をとる、そのとり方と場所のことである。バリでは、お腹がすいたときに、ナシチャンプル(白いご飯のまわりに、鶏肉や野菜などの4〜5点を置き、混ぜて食べる。)をそれぞれが食べる、ということは知っていた。
僕が働く事務所には、楕円形のテーブルがあって、そこは会議などをする場所である。そこには、椅子もあるのだから、そこで食べるのかな、と思っていたら、ひとりなぜか隅のほうの机の前で、ひとりは更衣室の中で、ひとりは通路の脇で、ひっそりと隠れるようにして食べるのだ。丸イスにナシチャンプルを置いて、右手でひっそりと、しかもさっさと食べる。食べる時間もそれぞれ違っている。みんなでワイワイと喋りながら食事をすることは決してないのである。
唯一、一人になれる時間なのかな、と思ったり、まあ、それは習慣なのだからそんなもんなのか、と思ったりしていた。
「食」にさほど関心がないという人たちは平均的に、消費生活は先進国から言えば、貧しいものがある。生きてゆくのに絶対に必要な、つまり基本的に体力を維持する食、そして衣、住で収入のほとんどが消えていきそうなところにプラス通過儀礼のための蓄えがいる。
食べることなどは、必要最低限のものを食べればよく、あとはさっさと働いて、みたいな感じがあるのか、あるいはいつも出入りする家の中で、食事時間を決めて、家族一同そろって食事をするというのは、さらにもっと煩わしいことなのかも知れない。日本では、個人の生活も尊重され、家族が一同にそろうのは夕食くらいしかない、だからその一回くらいは家族が集まって、いろんな話をしようという気持になるのかも知れないが、バリでは四六時中、親、祖父母、兄弟、嫁、いとこやはとこ、それに近所の人がいて、今さらみんな集まってなどということは、それこそ通過儀礼での時で上等だと思っているのかも知れない。
本当のところはわからない。
毎日、変ることのない食事の内容では、食はただ本能的なものであるかも知れず、淡々としたものなのだろうか。
クタで食事をする、などとなれば、一ヶ月の給料のうちの一週間分くらいが飛んでしまう。印象としてバリの人たちは、たとえ観光客がワイワイと食事をしていてもいっしょに食べるということは苦手のようで、高給とりのガイドですら、ひっそりと屋台とかワルンという小さな食堂で食事を済ませ、気長くお客の食事の終了を待っている。
クタやレギャンがいくら賑わっていても、村に帰った人々は、ひっそりの食事をしているのだ。そして、その時、たったひとりになって食に集中しているのだ。そしてまた共同の世界に戻ってゆく。まるで、日本と逆なのである。互いに似通ったところがいっぱいあるのに、この点は逆なのである。


2000年7月9日
「食」ふたたび

 「食」についてもう少し考察してみたい。
おそらく「食」は「食文化」とも言われるから、経済的な豊かさと相関しているのだろう。
僕も含めて、日本人と言うのは何でも良く食べる人々である。日本料理はいうに及ばず、どこの料理もどのような料理のしかたをも、あまり拒否せず、どのような食材にも取り入れ方が早い。
自分で調節の出来る選択消費のお金が増えたからそうなった、とは単に思えない。
明治期、日本が近代化してゆく過程でも、今のバリ島より外国人は断然少なかったと思うが、洋食を取り入れ、日本料理もさらに高度に発達していったように思える。
飛躍させて想像してみる。我々の遠い記憶である。今から1万年も前、海流に乗ってポリネシアやインドネシアやフィリピンの人々が日本列島に漂着する。やしの実が遠き島より漂着するのと同じだ。あるいは、中国の南の海岸辺りからも日本列島に入ってくる。おそらくきっと朝鮮半島からも、ロシアの方からも入って来たに違いない。
この日本列島は、天皇制が成立する以前、かなりの人種、民族が混り合う、地球上の最終的な場所のひとつだったのかも知れない。日本人の顔は、純粋に顔だけ見れば、ロシア、モンゴルあたりから南、西はヨーロッパを除いてトルコ-アジアのどこにでもいるような顔をしている。
どのような食材をも食べようとするのは、もちろん、食材が保存できる季節、できない季節などの風土がその基礎的条件としてあるだろうが、遠い記憶のせいなのではないだろうかと想像したりする。
日本列島の東は太平洋。このファーイストでいろんな民族が混りあった時代があったと考えたら、我々日本人はインターナショナルな視点をつかむことができる。
遠い記憶が研究されればおもしろい。


2000年7月13日
バリの風邪

エステ・デ・マッサで一人、咳をゴホゴホしているスタッフがいた。次の日には三人になり、その次の日は、五人になり、また次の日にはグランブルーに移り、僕を含め、アキちゃん、バーキャプテンのプジャナと感染していった。
まるで、小学校や中学校の集団感染である。風邪のウィルスの伝染力、その早さに驚いている。
この経験で、バリ人がどうしてボレという各種スパイスを粉にして、体に塗るのかわかるような気がする。微妙な気温、湿度に身体が敏感なのだ。日本でだったら毛布もう一枚というところだが、こちらでは暑すぎ、その差が微妙すぎるのである。
僕は、真夜中に咳で苦しみ、味覚がなくなり、人への感染を恐れ、あと17日でオープンのグランブルーへの影響を恐れている。
世界でも、バリ島でしか見れないガラスのレストランができる。ガラスはバリ・ガラスという海の色をしたようなものだ。それが、陽の光によって、煌き、輝き移ろう。夜は、ライトで一定に光を出すが、人の動きによってガラスが反射する。
英語名のキャッチコピーを「Reflections of the Deep」とした。日本語キャッチコピーは「海に似た感情」と決め、一斉にガルーダ誌やホテルに置かれる雑誌などに広告を出した。
世界中の人に楽しんでもうらおうとメニューも斬新をきわめ、驚き、舌鼓をうつものばかりである。
たぶん、一見、一味に値するレストランになると思う。
この日記を読んでいる方に、ひとつタクシーの安い乗り方を伝授したい。グランブルーに来てもらう為にである。
空色のタクシー(バリ・タクシー)がこれまで良心的メーター料金でやっていて、断然、日本人に好まれていたのだが、白色、オレンジ、紺色のタクシーもメーターを持っている。だが、これらのタクシーは人を見て、メーターのスイッチを押さないのだ。しかしである。「メーター」といえば、たいていはスイッチを入れる。これは、必ず言って欲しい。
さて、タクシーでグランブルーを目指す場合、「グランブルー」と言ってもまだタクシーの運転手は知らない。だから、「レギャンストリート、ホテルプラウィタ」と言って欲しい。本当は、ホテルアクエリアスの2階にあるのだが、このホテルは知られていないのである。ホテルプラウィタならほとんどの運転手が知っている。ヌサドゥアからでも約120円〜150円くらいのものだ。インペリアルやオベロイからだと南に下るだけであり、70円か80円くらいである。
あと17日。もうすぐ僕の滞在も1ヶ月半が経とうとしている。


2000年7月14日
気がついたことアラカルテ

5月の下旬にバリに来てから50日くらいになる。バリ島について新たに発見したことを述べる。
まず、水である。どうしたことか髪の毛が縮れはじめ、髪がパサパサとしてきた。スタッフのオーストラリアの女性もそうだという。どうやら水のせいではないかということになった。変化は髪の毛だけでない。白いマニキュアが黄色く変化してくる。白いシャツは何度か洗っているうちに黄ばんでくる。
バリ島には、爪を伸ばしている人が多いのだが、男性も女性もその爪が汚れてみえる。実は、汚れているのではない。伸びた爪の裏表が水に攻撃されて、光沢を失い黄ばむのである。これがひとつ。
次に、地図が描けない人が多い。ほとんどの人が描けない。逆に言えば地図が読めない。日本では、全ての家が載っている市町村別の地図もあればランドサットによる地図もある。バリ島では警察すらこのような地図をもっていないし、詳しい道路地図もない。
学校で地図を描く練習もないようだから、必要性がなかったのだろう。
次に話のポイント、核心的なことに触れず枝葉のこと、周辺の具体的な話がやたら多い。例えば、「いつから台所がつかえるの?」と聞くと、「来週の月曜から」と答えればすむ話を、手洗い場がこうこうこう、こうなって、キャンセルをして、それはどういうわけで、だれのせいで、オレらは夜中まで家に集まって相談して・・・・」という話になり、さらに、話が飛び階段を支える鉄は一本ではすぐに腐ってしまうのではないか、不安だ、延々と話は続き放っておくと結論はなく、まるで終わりのないバリの音楽を聞くような感じだ。
「それで、台所はいつになったら使えるの?」と聞くとまた別の話をし始める、といった感じである。
次に、一人に質問すると寄ってたかるように三人、四人と口をはさんでくる。それも怒った様子で口をはさんでくるので、一人の言っていることが何か間違ったことを言っているように思える。
「やかまし!オレは今、スリアシと話をしているんだ。」
と思わず言ってしまう。
人によって違うのだろうかと観察していると、確かに無口な人もいるが、その無口なひとでさえ、時に参加してくる。だから一般的にそんな風なのだろう。
次に、漢語ではなく、恐らく昔から使われていた言葉なのだと思うが日本語の動詞と音の意味がよく似た言葉がある。
語る、ストーリーを語る、物語みたいなことをカタとかカタカタというし、気持がたかぶるはタカブルと同様である。日本語という言語がある時期、この辺とも密接につなっがっていた、つまり日本語が積み重なってきた歴史の初期の頃、よく似た言葉を日本人も喋っていたのではないかと思ったりする。それは、着物をはいでいけば腰巻、つまりバリのサルーンが最後に残るというような、どこか根底のところで共通したものがあるという感じなのである。


2000年7月15日
ひそやかに、遠慮がちに

パトリシアが帰る日が来た。彼女は17日間、メニュー作りとウエイター、ウエイトレスのトレーニング、ヨーロッパテイストのチェックと大活躍。
最後の仕事が終わってパトリシアがあいさつをして、さてみんな20才以上のバリのスタッフを見ていると、何ていうのだろうか、「世界うるるん滞在記」みたいな感じだ。
しらけた人がいないのが不思議だ。人はみんな貴種流離譯のようになってしまうのだ。他所から来る人はなぜか尊く見えるものだ。
彼女はこの17日間、彼女が会ったバリの人々を批判することも、非難することも、愚痴をこぼすこともなく、文化・生活習慣の違いというものをしっかり認識して、仕事に入っていた。えてして、「バリ人って....」と、馬鹿にした言い方をする人がいるものだが、この点は、わがスタッフは気持がよい。
彼女が大好きなロングコーヒーもメニューに入れた。素敵なレストランで、美味しい食事をして、ワインを飲む。そして素敵な音楽がかかる、などと最後の夜は、はしゃいでいるように見えたが、そしてシェフやバーキャプテンもひそやかにこれから話が弾むことを期待していたのだったが、ふいの訪問客が僕の部屋のガーデンに来た。
テレビのワイドショーや歌謡番組の何分かのコーナーを請け負って、制作している仕事をしている会社の社長だった。僕らは彼を歓迎しつつも、シェフたちは日本語がわからないから、とたんに遠慮の姿勢となって、パトリシアのお別れ会めいたものはそのまま散会となった。
さて気がかりは、淋しそうに、遠慮がちに帰ったシェフのバワやバーキャプテンのプジャナであった。パトリシアも、しかたなさを感じているものの、心残りであったに違いない。いろいろあった日だった。


2000年7月16日
えんえんと続く話

「バリ島では人の家の豚を盗んだら、殺されるのか」
「それは警察が来るのが早いか遅いかの問題だ。警察が来るまでなぐり続ける。」
「それは人の物を盗んでも同じか。」
「同じだ。路上でスリがいて、そいつが捕まった場合は半殺しだ。」
「盗むのに命がけならば、なぜ、君らはそんなに物を盗まれるのではないかと心配するのだ。」
「他所から入ってくるものが多いからだ。素性が知れない。」
「その他所のものも、盗むことは命がけであることは知っているだろう。」
「知っていると思う。だがやる。」
「バリ人は穏やかそうに見えるが。」
「静かな時が危ないのさ。」
「ほう、静かな時?今は政治に関しても、みんなペチャクチャ喋っているだろう。好き勝手なことをいっているだろう。だから安心なのさ。」
「ということは8月は大丈夫なのか。」
「まず大丈夫だろう。ひとは騒いでいるから。それが静かになると危険だ。」
「話を戻すが、豚一匹くらい盗んで人を殺す、というのはヒンズーのおしえには背かないのか。」
「背かない。豚になる人間なのだ。」
「人の命は尊いか。」
「尊い。」
「悪人でも尊いか。」
「尊い。」
「尊いならば、なぜ殺すのか。」
「尊いから殺すのだ。」
「汚れた命をこの世でもつよりいいだろう。そして豚になる。あるいは犬になる。やがて人間に戻るかも知れない。」
「ほう輪廻転生か。この世は惜しくないのか。」
「惜しい。だから生きているのだ。」
終わりのない会話がえんえんと続く。彼らは真剣に自らの掟を話す。


2000年7月17日
アマヌサの満月

今回、バリ島に来て、二度目の満月の日を迎えた。ちょうどパトリシアが帰る日ということもあり、また彼女はクタ・レギャン以外どこにも出かける余裕がなかった、ということもあり、満月、と言えば「アマヌサ」(ホテル)だろうと、そこに夕食を食べに行くことになった。
6時30分出発と決めた。アマヌサまでレギャンから20分。夕方から雲が出、4時頃は空がどんよりよしている。鳥毛さんがいたので、「今夜は満月ですけど、あの空じゃ見えませんね。」というと、笑いながら「いやあ、わかりませんよ。島の空は変りやすいですから。」その言葉の方が自分の予想より当たっていると思ったので、予定を変更せずに出発した。途中、大きな橙色の丸い月が左方向に見えた。
しばらくすると月を見失った。月が見え隠れしているのだ。アマヌサのロビーの左手のカフェテラスに入るあたりからの月は真下で美しい。それを期待していた。
アマヌサに着いたのは6時50分。やや月の位置が期待と違う。もう30分早く来るべきだったのだ。僕の見る位置から前方に「テラス」というレストランが夜の闇にぼんやり浮かんでいる。そのむこう遠くに海がある。月はすでに「テラス」の屋根の上の方にあった。期待は屋根の左側の方に見えてほしかったのである。このホテルを見るたびに、設計者の心にくい、月をも考えに入れたデザイン感覚を思う。どんな人なのだろうと思う。
月は相変わらず雲間に見え、また隠れしている。もしも雲がなかったら、月の光はその下の海を集中的にさざめき立つように照らすはずである。
カフェテラスでビールを飲み、しばらくヌサドゥアの方向の風景を見ていると、プールサイドのイタリアンレストランの前で、ティルタサリ楽団のスマールプグリンガンが始まった。満月の日の特別な音楽である。踊り子も踊っている。音楽を聴きながら階下に降りて、プールの脇を歩き、また右手の階段を昇って「テラス」に入った。オープンエアのところは風が強いため使用できず、屋根のある方に迎え入れられた。とたんに月は見えなくなる。興がなくなる。恋人たちは手を取り合って、オープンエアのところに歩き、月を見ては抱き合い、うっとりとしては、またこちら側のテーブルに戻ってくる、ということを2、3度繰り返す。
彼方から儀式の歌らしい、よく通る歌声が聞こえてくる。オコカンの音、ガメランの音もする。バリ島では満月の日は儀式が多いのだ。アマヌサの敷地内にある小さな寺院でもスタッフたちが儀式をとり行っていた。
パトリシアとは久しぶりにいろいろな話をした。
「オレは本当は詩人になりたいんだけどね。25時間目、いつも詩人になってるんだけどね。現実はあれこれ次から次へと思いついたことをやっている。」
「一時ストップしなくちゃならないかもね。いや、60才になったら、ストップするかな、あとはすべて出してしまう。今は性分だからしかたないかな。」
などなど、この3時間はグランブルーのことはひとつも考えなかった。
レギャンに戻り、パトリシアが空港に向うと同時に雨がぽつりぽつりと降り始めた。


2000年7月18日
バリ人にとってのバリアン
ソースシェフのプトゥがすまなそうな顔をして、早退させて欲しいと言う。理由を聞くと、「妻がバリアンに行くのでどうしても夫はついていかなければならない。」と答えた。「どこが悪いのか。」と聞くと、「頭痛がとれない。」と言う。「病院に行ったけど、なおらない。」と言う。何か医師でもわからないことが、彼女に起っているのだろうと家族のものは心配する。当然、親あたりからバリアンに行ってこい、ということになるのだろう。
バリアンは呪術師である。夢枕 獏の「陰陽師」の安倍清晴明とはちょっと違っているようだが、だいたい村落に一人くらいはいるようだ。それぞれのバリアンに対して評価も違い、有名なバリアンには遠いところからでも人はやってくる。
以前、この日記でも書いたように相談の多くは、家族親族内のトラブル、精神的なことが原因っぽい身体の不調、突然のぎっくり腰などである。
風邪を引いたからと言って、バリアンに行くわけではない。骨を折ったからと行くわけではない。
奇妙な事柄、例えばよくないことが続いて起ったとか、どうして家族内の口喧嘩が多いのだろう、とか解決が自分でも不能な場合に行くのである。
透視術も持っているように思える。強い<気>を発することができるように思う。そのバリアンが本当に透視できるのかどうかは、そのバリアンしかわからないので、何とも言いがたいが、おそらく常人とは違う神経や知識、気力があり、その点で区別すれば異常の人なのだろう。
特に思うに、重要だと思われるのは、生業として個々人の願いを、彼がすべて吸い取り、不安や苦痛を取り払ってくれるということだ。
このようにして、個人は自分に突然現れた災難や苦悩を解消しようとし、共同体の生活の中でのバランスをとっているように見える。
プトゥに「奥さんはなおったかい?」と聞くと、「なおった。」と言う。
2〜3日して今度はプトゥが胃が痛いと言って、仕事を休んだ。僕はいささか、プトゥと奥さん、そしてプトゥの母親や父親、これらの関係が今良くなく、間にはさまれたプトゥも疲れているのかな、と思ったり、奥さんは、神経過敏な人なのかな、想像したり、子供はどうなっているのだろうと思ったりするが、「ガスター10」を見せ、これですっきりなおるから、と言って与えた。
翌日、「すっかりなおった。」とプトゥは報告に来、ついでにしばらくは「キャべジン」を飲むようすすめた。


2000年7月24日
恥?

「ジャナの風邪は治ったかい、イエニー?」
と聞くと、婚約者のイエニーは困ったような顔をして
「実は本木さん、ジャナは今シガラジャの実家にいて、会社には恥ずかしく出れない、と言ってるの」
「恥かしい?どうしてなんだい?」
「同じ会社で夫婦は働けないことになってるでしょ」
「同じ会社じゃないよ。グループ会社だけど、別々の独立法人なんだから」
「?????」
僕は、エステ・デ・マッサに関しては経営者ではない。ブックツリーが経営コンサルタント会社として管理運営しているだけだ。このことは何度言ってもわかりにくいらしい。
「いいから、全然心配することないから、気にせずに来るようにいっておいてね。」
と言うとイエニーは安心したように、うなずいた。
翌日、ジャナは来なかった。そして、今日も来なかった。
オカと、ジャナのことについて話をした。気にせずに来いと言ってくれ、と言った。オカも同様のことをいっているらしいが、あきらめ口調である。
この辺の本当のところがつかみにくい。日本人同士ならなんとなくわかるところなのだが、藪の中のような感じだ。イエニーやオカは、わかっているのだろう。
 1)前の彼女が同じ場所で働いているからなのか。
 2)相当に仲間の口や目が気になるのか。
 3)仕事に自信が持てないのか、好きな職種ではないからなのか。
 4)別にもっと給料のよい仕事が見つかったからなのか。
 5)イエニーの収入に甘えているのか。
ジャナは、ほんの4ヶ月前まで職探しをしていた。今のバリで仕事を見つけるのは困難である。英語が出来る男性はゴロゴロいるのに仕事がない状態だ。
しかも結婚式が近づいている。イエニーはしっかり者だから、彼女におんぶされるのだろうか。どういうつもりなのだろう。
イエニーが言うには、
「アタシも少しは遊んだけど、私、もういい。終わり、ジャナはプレイボーイで、ジャナのお父さんが心配して早く結婚させたがっているの、それで結婚式も急ぐのよ」
と真剣にあっけらかんと言う。
彼女の説得も功を奏しないのか、来るような感じがしない。当然、職を探している人が多いから、次の者が早々とやってくるだろう。
歯がゆいところだけど、これ以上手は差し伸べられない。


2000年7月31日
ある種の暴動

日本、オーストラリアから全てのスタッフがバリ島入りし、ホームページも中断した。
建築のほうが間に合わず、キッチンスタッフたちのイライラが募り、デザイナーである鳥毛さんとは一触即発の危機が三週間続いた。
鳥毛さんそのものは、ガラスの芸術家であり、建築家ではない。その弱点が厨房や建物の構造物に現れた。そんなふうなこと、あんなふうなこといろいろあったが31日のパーティーは無事に済んだ。たいへん混沌としてしまったパーティーであったが、盛大にそして、ミスだれけで終始したが、これまでのだんだん近づいてくるプレッシャーを来賓たちが帰った後、音楽に乗って、気持ちよくガス抜きをしたと思う。
それにしても、この時のスタッフたちの浮かれ方は良い面に出た暴動の一種である。たまっているものが吹き出る。おそらく、去年のヌサドゥアでの暴動は、悪い面にでたのだろう。
最後、プレゼントを用意していたのでクイズを出した。「バリ島の時計は左回りである」という問いに対してYesとNoで答えるものである。出題者の僕の前50cmまでつめより大興奮して、手を挙げイエス、イエスと叫ぶ。そうこうしているうちにケチャックダンスの掛け声が始まり、もうムチャクチャである。・・・・にしても、僕は昨日、のろのろ歩く女の子に、急ぐ時は手を振って早く歩きなさい、といったばかりなのだ。それほどのんびりしている人たちなのだ。それが大興奮となり、ツイストはやり、敏捷なところを見せるのだ。あぁ、驚いた、というのが正直なところ。
自慢ではないが、出した料理はひとつ、ひとかけら残らずきれいになった。
美味しさはとびっきりであることは保証する。値段も手頃な値段に設定してある。
みんな力を出し合って素敵なパブレストランが出来上がった。
乞うご期待!!バリ島に来たらぜひとも私を指名してください。


2000年8月4日
最後になって

この日記は、主にバリ人について書いているが、バリ人たちと仕事をしている中で、新たに発見したことがある。それは、一番大切なことを最後のギリギリになって言うことだ。
例えば、日程を決めて街頭配布のスケジュールをたてる。たまたまこの日程の中にバリのガルンガンという3日間の祝日があったとする。
日程を決める会議の席で、彼らは一切、そのことを僕に言わない。言ってくれればガルンガンの日を除いて予定をたてるのに、イエスの返事で事が進行する。
さて、どうなるか、と言うとガルンガンの前日の仕事の終了間際、この時に言うのである。
これは、どんな場合でも同様に思える。
食材を供給してくれる会社はO.Kか?と聞くとO.Kと言う。オープンの前日になってそのうちのひとつシーフードの食材店で、ロブスターやキングプローンが手に入らないと言い始める。
これはどうしたことだろう、と思う。
今日でオープン4日目。閉店後の後片付けで、男女それぞれのスタッフがワイワイとふざけあって、フォークやナイフを拭いている。ある女性は胸が見えるのを隠すような身振りをし、2〜3人の男が楽しそうにそれを冷やかす。楽しそうに皆でやっているのだ。
どちらにしろ、このような風景を昔見たことがある。それは、小学校の頃だ。仲間同士でこつきあって悪ふざけをしたりしていた。そこには、必ず先生がいるかいないかの気配があった。先生と目が合うと、なんだかきまりが悪かったり、何か自分が見抜かれているようだった。
そんな光景と同じようなのだ。
僕はこれを馬鹿にしていっているのではない。
おそらく個人という世界の概念がなく、常に仲間といること、それは学校での休み時間を仲間と過ごすという共同的な関係の世界だけで彼らの精神世界ができあがっているからなのかも知れない。それは、僕の目から見れば、子供の世界のように思えるが、ここバリでは大人の世界も同じようなのだ。
最後になって物を言う癖はやめさせなければいけないと思っている。利益を追求する会社なのだから予定がたたないとやっていけない。資本主義というのは、こういうことからでも人間を徐々に資本主義のスタイルに合うように変えてゆく。いいことか悪いことか、これも自然史のような気がしている。


2000年8月5日
主張しないバリ人

インドネシアという国家については詳しくは知らないがバリという島に住む人々の感情というものは、徐々にではあるが把握できそうな気がする。しかし、それはあくまで外国人から見た把握のしかたであり、正確を欠くと思う。
例えば、バリのたいていの服屋さんだが、5年前と変らずアメリカサイズのものばかりを売っている。身長150cmの女性は、ほとんど好きな服が買えない。男性も同様であり、ポロシャツを買いたいと思ってもデカすぎて、買えない。バリは、日本人観光客が圧倒的に多いというのに、またここはアジア人の島であるというのに、何もかもがアメリカやヨーロッパのサイズである。
店員に聞けば「無い」というだけで、それじゃ日本人向きのサイズも揃えてみようかという気もないようである。幾つかはある。気が利く店は当然客も多いのだ。しかし、断然多くは、隣りがそうだから、どうもそれが当たり前のようだから、当たり前のことをするのが商売として正しいのだ、と思っているようなのである。
アメリカ人やヨーロッパ人は主張する。その主張することがバリ人に反映される。日本人は主張せず、買わないだけである。主張しないものだから、バリ人に反映されない。
アイリッシュコーヒーは、どこも置いてあるのに、日本で飲むようなブレンドコーヒーがない。日本の居酒屋で飲むウーロン茶やチューハイもバリでは置かれていない。アイスコーヒーも同様である。
これは、アイリッシュコーヒーを要望するヨーロッパやオーストラリアの人が多いからである。
もうひとつ理由がある。それは、情報を伝達する意志の問題である。
店員が恐れすぎてオーナーに対してほとんど何も言えない。だから、情報が伝わらない。さらにある。知ったことを他に伝えることをメリットと思っていないということだ。
知ったことを教える、それができれば情報が伝達され商売も活発になる。しかし、それは危険なことでもある。人に教えればその人はでしゃばった奴だと見なされる危険性もある。オーナーが喜び、その店員一人をほめれば、嫉妬の嵐である。底意地が悪い、ともとれそうだし、無責任、まるで子供だ、ともとれそうだが、バリの村で生まれたときから身体と精神に「みんなでイコールにやっていく」という物の考え方をたたきこまれているのだろう。
にしても、このことを知ってかからないと四六時中バリ人に関する愚痴を言うはめになる。


2000年8月6日
訪問客

今日は、全国商工会連合会のジャカルタ事務所の園田所長が、わざわざバリ島まで足を運んでくれた。彼に、グランブルーを見せたかったが、あいにく今日は床磨きと台所の改装などで2日間休むことにしたため、残念なことだった。僕は、彼の訪問でゆっくりと食事ができる絶好のチャンスを得て、久しぶりにくつろいだ。
スミニャックの北にあるHANAという日本レストランは1ヵ月半ぶりである。日本レストランなのに、ハッピを着たり、ハチマキを巻いたりしてないのが良い。テーブルが広いのも落ち着くものだ。グランブルーは、テーブルは素敵なのだがサイズが小さい。不満のひとつである。
園田さんは、42才。東京の広告代理店に勤めていて7年前に転職した。4ヶ月前にジャカルタ事務所の二代目所長を命ぜられて、奥さんと子供を連れて赴任した。主な仕事は、日本の中小企業のインドネシア進出の情報窓口である。僕も、バリ島で仕事を展開する時、ジャカルタ事務所のホームページが役立った。
インドネシア内で頑張っている日本人を取材したいのだと言う。3年間でそういう人にいっぱい会いたいのだと言う。
「あれこれバリ島、発見・発掘」にも連合会のH.Pを入れましょうよと提案する。このような連合会の情報は貴重なものがある。インドネシアの税制、会社法、労働法なども会社手続きのことも全部日本語にしてくれている。インドネシアで仕事をしようとする人は、まず一番に得たい情報である。
「でね、園田さん。僕は、バリ島のことは一部しかわからないけれど、バリ人の精神の構造みたいなもの、バリ人の行動をこういうふうに理解したら、イライラせず、怒らずでき、だました、だまされたと言わなくて済むようなこと、そんなことをエッセイでもいいから情報として提供したらどう?」
例えば、バリ人は決して走らないし、急がない。しかし、この熱いバリにやってきた日本人がせかせか歩き、バリバリ仕事を朝から晩までやっていたら必ずバテると思う。
エネルギーの消費量を身体が時間で割って調節しているように思う。その理解の仕方は正しいのかどうかわからないがそう思えば、動作が遅いことにも腹が立たなくなると思う。
連合会の初代所長は法制面や手続き面の情報提供を整備した。園田さんは、このことを継承しながら、精神面の理解の仕方を様々な角度から、豊富な事例から提供してくれればよいと思う。
忙しすぎて翌日、話の相手もできず、園田さんは帰ってしまったが、また8月中に来るということなので、その時さらにゆっくり話ができると思い、取材をして人に知らせるという仕事はいろいろな人に会えるのだから、ぜひともいろいろな人のことをきいてみたいと思ったのだった。


2000年8月8日
混交すること

日本民族は、いろいろな種族の混合なのではないか。日本人は、グルマン民族やラテン民族とは明らかに違う容姿をもっているが、地球上のある範囲内の民族のそれぞれの顔を持っているように見える。奈良朝以前、実に様々な種族が住んでいたに違いない。
バリに三ヶ月も住んでいると、このことを実感する。エディという20才の男の子は日本にどこでもいそうな優しい美男子であるし、ティルタサリ楽団の太鼓打ちは、中井貴一をよりキリッとさせたような顔をしている。
この実感は、おそらく今後、研究され証明されていくのだろうが、僕らは過去に逆上ることによって、現在および未来での民族というものの解体への視野をもつ、あるいは僕らは同じ根っこをもつ人間なんだと認識できればよい。
さて、話題を変える。
バリのいたるところで「ンブルンブル」という幟を見る。ペンジョールという竹の幟とは違い、布を張っている。日本の長方形の幟を見ると、いかにも趣味の悪さに幻滅し、なにか村おこしのイベントでもあるのだろうと思うだけだが、バリ島のンブルンブルは布が細長い直角三角形になっていて、色も様々で特にバリの青い空の色と光と風によく合っている。このセンスは、どこから来るのだろうと思う。
聖なる山アグン山を象徴したもので、竹のペンジョールの代わりにこれを思いついたバリ人に敬意を表する思いだ。
メリアバリというホテルのフロントロビー前にも、ホテルオベロイのプライベートビーチにもンブルンブルはパタパタと風ではためいている。このンブルンブルを背景にガメランの奏者たちが座り、一斉に演奏を始めると、そのあたりの石彫の壁も、屋根瓦や柱も一斉に雰囲気を変え、バリ島という劇場そのものになっていくのである。金と赤の衣装を着たレゴンダンサーたちは、観光客にその踊りを見せると言うよりも、あくまで神々に披露している雰囲気だ。このような風景を見たときに、旅行者は感動するのである。
異様なほどバリは自らの芸能を守り、育ててきた。この小さな島で世界に類がないほどである。ハワイのフラダンスとは、その芸術性が違う。
日本の能や歌舞伎の源は何でありどこであるか僕は知らない。また、バリの仮面劇もどこがルーツかは知らないが、日本人の顔が様々な要素から成り立っているように、きっと能や歌舞伎も様々な要素から成り立ったのだろう。


2000年8月10日
バリの料理人

日本の料理人の世界は厳しそうである。焼き三年などということが本当にただしいのかどうかは別にして、見習いで入った者は、掃除、皿洗い、仕込みの準備の手伝いをし、チラチラと先輩たちが作っている料理の作り方を盗み見し、ソースをこっそりとなめては記憶にとどめ、客が残したものもこっそり食べては味を憶えようとする。
こんな話をバリの若い見習いのスチュワードに話をしたら真剣に聞いていた。そのあと、シェフのバワに、バリでは実際料理人の世界はどうか、と聞いてみたら全く日本と違うという。どっちがいいんだ、と聞くと「日本」と答えた。バリ人のバワに言わせれば、味に対する認識が低く、味が変わってもたいしたことはないと思っているし、叱ればやめてしまうし、シニアシェフそのものが同時に3つも4つも作れないという。
バリの人々の間では、食事を楽しむという習慣がない。料理に趣向を凝らし、どのような新しいそざいの組み合わせがあるか、考える余裕などはないように思える。
料理人を描いた漫画もなければ、ドラマもない。どんな外国の料理を食べてもやっぱりナシチャンプルが一番うまいとなってしまう。外国人が幾つもの品を注文して、楽しそうに食べているのを見て、何を感じているのか興味が湧く。
これからどのようにして一人前の料理人に育てていくか、バワと僕の課題である。グランブルーのオープンから今日まで、中2日休んで8日間、ガルンガン、クニンガンの休日を返上して働いている。スタッフの女性の中には走るものまで出てきて、僕は驚いている。キッチンスタッフも流れのまま超忙しくやっている。
自分で工夫して作った料理をにっこりと笑い、それから真剣な顔つきになって「食べてみて欲しい」といってくる日を僕は楽しみにしているし、そこまで育て上げなければダメだと思っている。
バリの一番良い季節も終わりに近づこうとしている。12日から日本人がドッとバリ島に来る。一段と忙しくなりそうだ。


2000年8月12日
近日中バリに来る人いませんか

昨日は、ノーマルプライスで営業を始めた。朝11時から深夜2時までである。
その日の夕方、二人のインドネシアの歌手が来て、ジュースを飲んでいった。夜は、ミックジャガーというアメリカの歌手?がきたらしい。僕は、ミックジャガーとは聞いたことがあるが顔も知らなければ、歌も知らない。鳥毛さんが「ほら、ミックジャガーが来ているよ、頑張ってね」といってくれたが、頑張りようがない。僕にとっては普通の人なので、ということになる。
ともあれ、芸能界の有名な人達が来てくれるようになると有難いと思っている。プロモーションがやりやすくなる。下のレストランに比べても、前のレストランに比べても、少々値段が高い。値段が高いといっても、日本の半分から3分の1。アメリカの半分くらいである。オーストラリア人たちは、ちょっと高いと思うかもしれない。
すべてが実験的だった。実験的過ぎたかな、とも思っている。バリのレストランは、どこへ行っても同じ様式である。木と石、ワラ、竹。一切これまでのバリ島のレストランを拒否して、建物から器、レシピ、すべて実験的に試みた。吉とでるか凶と出るかは、これからである。
サインボードが鳥毛さんのところからまだ届かない。たれ幕みたいなものを作りたいと思っても、クルンガンでどこも休み、マジックペンひとつ買えない。
様子を見ていて、ここに何か貼ろう、ということが起きる。現在のメニュー立てを変えたいと思っても、この2日間はどうにもならず、またバリには既製品というものがほとんどないに等しいので、注文をするとまた日がかかる。
僕のようにすぐしたいタイプは、気持のコントロールが必要である。の僕のバリ日記を読んでくれている人で、近日中にバリに来る人はいないだろうか。別の目から、レストラン全体を眺めてもらいたいし、不足しているところを率直に言ってもらいたいと思う。
どうか、近日中に来る人があれば、連絡をください。 
グランブルー 0361-763104


2000年8月14日
夜中まで

ブックツリーのユニやレストランのウィドニーは、結婚希望年齢もずいぶん高く設定している。19才や20才で結婚する人も多いが、既婚者は別として、未婚者のスタッフはほとんど結婚希望年齢が高い。高いといっても25才が限度だろうと彼女達の言葉から察せられる。
村の掟に縛られたくない。オートバイが欲しい。携帯電話が欲しい、夫婦だけで住める家が欲しいと、物に対する欲も明らかに増えているように思える。
バリ島の経済システムは、現金商売である。会社の支払いシステムが末日の翌日10日払いとか、物がローンで買えるとかの状態になるまで、まだ相当の年月がかかるだろうが、まずサラリーローンのようなものが登場して、次に銀行が融資基準を下げて、新しい金融商品を開発しはじめたら、バリ島は、完全に消費社会の中に組み込まれていくだろう。
中国から安いオートバイをローンで販売する、というような会社がでてきたら、消費は一気にそちらに向うだろうと思う。そうなれば、賃上げ運動も起こり、賃金が上がれば消費はさらに拡大され、というふうになるのかも知れない。
しかし、そのようになっていくための道路や電気などの社会基盤が遅れているのは確実だ。チグハグが最も恐ろしいと思う。
ただ、ウィドニーやプジャナを見ていて、危なっかしさを感じないのに割合に自己コントロールできていることだ。個人本位に物事を考えないことだ。この自制心が急速に変化した観光地の中で荒れもせず、伝統を守りつづけている心なのだろう。


2000年8月15日

思えば、ここまでよく走ってきたものだ。
これからの人生をまた考える時が来た。走り疲れた。休息が欲しいと、生まれて初めて実感として思ったような気がする。レストランを軌道に乗せるという仕事が残っている。人の育成、味の統一、プロモーション、バリの40人、その関係者がここを生活の糧の基地としてやっていくのだ。別にこれが負荷なのではない。共にやってゆけばいいことだ。何かを立ち上げると、そのあとぽっかりと虚脱の状態になる。そういう時、次の事をこれまで夢想してきたことをまた思うのだ。
時間というのはあるものだな、と思う。しきりに時が経つのがあまりにも早いと30代、40代と感じてきたが、ブックツリーを興してから、まだ2年も経っていないのである。2年前のちょうどこの8月のお盆の頃、バリに来て、よし始めようか、とイダに言ったのだった。ようやく本格的スタートになったのは、10月頃で、以後CD、写真マグネット、木彫りマグネットを開発し、対葉豆茶を作り、香水を作り、それらが発展して、マッサージオイルができ、アンテナショップが生まれ、銀製品、バッグ類を開発した。空港にも開発商品が置かれるようになり、エステ、レストランと進んでいった。まだ2年経っていないのだから、時間ってあるものだな、と思う。
トルコ、ギリシャ、エジプトを訪ねてみたいと思う。たぶん疲れたから思うのだ。休息しているとまた希望が湧いてくるだろう。希望があるとそこに何人も通る道が生まれる。道は歩くことによって作ってゆくしかない。きっと性分だから、道づくりをするのだと思う。絶対に貧乏性なのだ。