| 2000年3月2日 ああ、マッサージ 「オカ、今度の店のスタッフは集まったかい?」 と、5日から始まる面接を心配して、バリに着くなり僕は、バリのマネージャーであるオカ(名前はオカでもバリ人)に聞くと 「ノット、イエット。殆どがジャワからの女性で、バリ人は2〜3人。全部で18人」と答えた。 不思議な答えだったので、 「どうしてジャワの人が多いんだい?」と聞き返すと 「マッサージの仕事には、バリ人は来ない。」と言う。 「どうしてだい?」 「イメージ!マッサージというと売春をイメージするんだ」 「ええっ!なぜ、そんな大事なことを僕は今日知るんだ。募集広告には、なんてかいたんだい?」 「エステっていう言葉は、バリ人はわからないし、バリニーズマッサージという言葉を使ったから、たぶんバリ人は敬遠したのだと思う」 僕は、オカの気の利かなさを嘆き、あぁ、こういうところにもイメージの違いがあるのかと、またひとつバリを知ることになった。 5つ星のホテルでは、部屋に来てくれるマッサージサービスがある。日本にもある。僕もマッサージを頼んだことがある。 「それじゃぁ、オカ、僕はバロンコテッジ(1泊3千円くらいの安いホテル)で、マッサージを頼んだことがあるけど、マッサージにきた女性はセックスにも応じるのかい?とてもそんな風に見えなかったけど。」 「ケース バイ ケースだけど、前もって、ホテルにそう言えば、応じると思うけど…」 会社の他のスタッフもオカに同意する。みんな、マッサージはよろしくない職業と考えているようだ。 観光客相手のマッサージ兼セックスプロバイダーが元締めでいるらしい。 僕は、エステの店を立ち上げたら、小さなホテルにもマッサージの要望があれば派遣するつもりだったので、この会話でこの計画にブレーキをかけてしまった。 そう言えば、サヌールのバリ・ハイアットに泊まった時、海辺で女性が近づいてきて、マッサージをしないか、と誘われたことがあり、マッサージをしてもらいながら、セックスはどうか、と誘われたことがあるのを思い出した。僕は、あれは特別なことだと思っていた。また、昨年、メリア・バリに泊まった時、マッサージを頼んだら、二人の女性がやってきて、部屋に僕の妻がいることを確めてから一人が帰ってしまったことがある。 もしかしたら、防衛のためかも知れない。マッサージ=セックスと勘違いしている男もいるかも知れないし、マッサージ中、男がその女性にしつこく交渉を始めるかも知れない。 ここ3,4年でエステの店が雨後の竹の子のように増えた。しかし、エステという短縮形の日本語は、バリに定着していない。さて、どうやって良い人材を集めるか。思わぬ障壁である。 広告の出しなおし。しかし、スタッフのトレーニング開始は8日である。あと一週間。うまくいくのやら。 2000年3月3日 そんなこと、どうでもいいよ バリ島は、「神々の島」とか「劇場国家」と呼ばれたりする。リゾート地としての雰囲気は世界最高の部類に入るかも知れない。 しかしながら、経済生活的な観点から眺めると、その段階は日本の昭和30年代くらいではないかと思うことが多い。 馬鹿にしていっているのではない。 例えば、日本でこれから何かビジネスを起こそうとか店を持とうと思った場合、既存のものが多すぎて入り込む余地がないように思える。バリ島では、経済的スケールが小さすぎるのか、まだまだ日本にあって、バリ島にはないもの、付加価値やサービス、情報に対する意識が人々には薄い。 例えばジャムーが良い例だ。ジャムーはジャムーの専門店やデパート、スーパーにも売っている。しかし、我々外国人はどれを買えばよいのかわからない。そこに情報がオンされていないのである。2日か3日もあれば、なんとかして日本人を探し、協力をお願いすれば、簡単な使用法くらいは作れるはずだ。お金を欲しいと言いながらも、そういう価値のつけ方をしらない。 極端に言えば「そんなことなんか、どうでもいいよ」とバリの文化そのものが言っているように思える時がある。つまり、バリ・ヒンズー教に基づく村落共同体が、そんなことを考える時間など与えられないよというくらい行事で忙しいのと、働く人の役割が1つ1つ細かく分断されていて、1つの与えられたことを忠実にすることが和を乱さない、共同体のあり方だという風に習慣づいているのではないかと思えるのだ。 バリ島に観光という産業が入ってきてから、その産業だけはインターナショナル価格でやれるものだから、そこはたくましく知恵を使っていかに高くつけようかと考える。しかし、値段交渉のからくりはすぐにばれてしまい、高度に情報のようなものを付加してたらし込むというような技術を持っていないのである。僕のような外国人につけ入られるスキがいっぱいあるのだ。 しかし、バリ島もいつの日にかスキマがないほど物や情報やサービスで埋められる日が来るのだろう。昨年までのインドネシア危機がやや小休止し、又一歩ずつ階段を上り始めたような感じがある。ニ次産業、三次産業へとむかうのは、村落共同体との確執なくしてあり得ない。僕らの会社の30代の発言にちょっとだけ確執の時代が来ることを感じることがある。 2000年3月4日 おそらく必要となる産業 昨日、空港の免税店から、「本木さんの選んだものなんでも結構ですから、本木さんのゴンドラ(コーナー)を作りたい」という申し出があった。と言ってはなんですが、他の商品ラインアップの点検とPOPなどの協力をしてもらえないだろうかという裏もある。僕は、サービス精神はあるほうだから早速あれこれと思いをめぐらせ、今日は早速、空港に出かけ僕のコーナーのサイズと他の商品のチェックをした。 タバコを点検すると「峰」がおいてあるし、昔のセブンスターが置いてある。僕だったら、タールとニコチン1mgとか3mgに分類して置くかなとか、コーヒーは、日本人がドリップやコーヒーメーカーで使えるミディアムファインを並べるがなぁ、といろいろ思う。 空港に2つの大きな免税店をもつ社長は女性である。1年前、マグネットを制作した頃に、委託販売の交渉に出かけた時に知り合った。今回会ったのは2度目である。 マグネットがよく売れたということがまずある。それから対葉豆を作り、ローションを作り、ドアストッパーやマスコットなどを作ってきた。おそらく、彼女に決定的に僕の存在を思わしめたのは、「ジャムー」だと思う。ジャムーに外国語から光をあてた。自慢ではないが、そういうことだと思う。 日本のハーブ産業は1000億円市場になろうとしている。インドネシアは、ハーブの宝庫である。 彼女は驚いたに違いない。商品をただ置いておくだけではダメであると思ったに違いない。ひたすらわかりやすいものを置こうとする気持ちはわかるが1行か2行の説明でわかりやすくなるものもあるのだ。昨日もここで書いたように、バリ島はこの産業がまだ弱い。弱いから、僕の存在でもありがたがってくれる。 この手のプロがバリ島に乗り込んできたら、ちょっとかなわないな、と思うがあれこれ考えられるのは、楽しいの一言に尽きる。 2000年3月5日 突然の乗り込み H.P掲示板で「バリニーズマッサージを習いたいのですが、学校とか教えてくれるところを知りませんか」というメッセージが東京の女性からあった。ちょうど、エステの店を計画中、実行中だったのでよろしかったら研修に参加したらどうですか、という返事をしたところから、話が進み、ついに実現の運びとなり、その女性と昨日初めて顔を合わせることになった。 そして、翌日、つまり今日、僕の会社のスタッフにも紹介しようと彼女を事務所に連れて行き、皆に紹介していたところ、入国管理局の男性二人が乗り込んできた。乗り込んできたという言葉がぴったりである。 「店員は、あなたの事を(僕にはおまえのことを、と聞こえるが)コンサルタントだと言っているが、どうか。」 「そのとうりコンサルタントだ。しかし、P.T.Bali Book Treeのプレジデントディレクターでもある。あそこの前の店はヤーマという会社で、その会社に対してはコンサルタントだ。」 「あなたは、インドネシア滞在許可証では、プレジデントだ。コンサルタントを名乗ってはいけない。」 「どうしてだ。」 「あなたは、プレジデントでトップクラスの人で、コンサルタントはそれより下の人だ。身分は偽ってはいけない。」 そんなやりとりが10分ほど続き、相手は興奮して、今すぐにでもビザを取り上げ、収監することもできるのだぞ、と脅し文句も並べる。いんぎんさのひとかけらもない。 ついには、着いたばかりのその女性にまで、パスポートを見せろ、どうしてミーティングの席にいるのだ。このような席にいてはいけない。と言い始めた。 結局、僕は法を犯しておらず、合法的にやっているためか 「今回は許してやる(何を話すのかわからない)、次に警告されたらキックアウトだ。」という。そしていそいそ帰っていった。 なんだあれは一体?とスタッフと話をしていた。お金が欲しいのか、なんでコンサルタントを使ってはダメなのか、など、10分ほどが過ぎるとまたやってきて 「どうしてこの女性が(僕には「女」と言っているように聞こえる)まだここに座っているんだ」と言う。 「単なる話をしているだけなのに、なんだ」と僕も怒り始める。 「ここはミーティングの席だろ。ツーリストはいっぱいお金を使い、歩き、見物する。それがツーリストだ。」とか説教をする。僕が笑うと怒ってくるし、「すまん、すまん」と言うと説教をまた始める。それでその女性を事務所から出すことにし、なんとかその場をおさめたのである。 その後、僕はウブドに行く用事があり、1時間のタクシーの中で考えてみた。そうしたらだんだんと腹が立ってきてなんだあれは、と怒りに充ちてきたのだった。 入管の男は、6日の10時から新しいエステの店のための面接をすることも知っていて、また来るという。 そのときは、身分証明証を再度確認し、それをメモし、ついで入国管理局と日本領事館に行ってみようと思った。 明日からやってくるエステのオーナーたちも活動がしにくくなる。ビザの許可がおり、発行されるまでには、どうしても会社の設立手続きが必要であり、その会社がビザ取得の為の招聘書を発行しなければならない。 だから、ビザを実際に手にするまではどうしても観光ビザで一度か二度来なくてはならない。 彼の話では、その女性に言ったようにミーテイングの席についてもいけないということである。 それは、明日来る人たちも同じだろう。 そんな矛盾があるものか。 インドネシアに投資してくれ、投資してくれ、といいながら、あるいは、日本に援助してくれ、援助してくれと、いいながらやることは幻滅させることである。 しかし、ここでそう思わないで裏構造があるのかと考えてみる。その辺の感覚がもうひとつわからない。マジで真剣な取締りで、あんな態度なのか、裏の取引の為の態度なのかわからないのだ。バリのスタッフは「お金だ」という。 3日付けの新聞で公務員の給料が30%アップされることが報じられた。その代わり利権もなくしていく方向なのだ。 それにしても、入管や警察など、どうしてこの人達はヒゲをはやし、いかつい顔をしているのだろうと思う。ちょうどミュージシャンはすぐそれとわかるファッションスタイルがあるみたい(僕は笑ってしまうのだが)なんとなく仲間どうし伝染しあっているのだろうか。 恐ろしそうに見えるのは、こちらの妄想なのだろうか。 やはりバリに何度も来て仕事をしていると、それはもういろんな初めての体験をするものだ。と自分自身あきれている。 2000年3月6日 バリのホテル バリには、ひっそりとゆったりと、一日中本を読んだり音楽を聴いたり水に入ったり、時には散策をしてという風に過ごせるホテルが幾つもある。建築物も調度品やエクステリア、インテリアにも凝っていて、美意識みたいなものもくすぐられ、日常の生活空間とは違う空間を提供してくれる。ホテルスタッフの暖かい心遣いがあってこそだが、このようなホテルは、すべてにサービスがいき渡っている。 まるで芸術の中に身を染めてしまうようなアマヌサ。アマヌサの静かなビーチ。未来の誰かと必ずや一緒に泊まってみたいと思っている人には、おすすめのホテルである。 アマヌサとは値段も格式も全然違うホテルだが、インドネシアの経済危機で建築が中断し、ようやくのこと本格的にオープンにこぎつけたバリ・アガというホテルがアマヌサの近くにある。ここも隠れ家的でこじんまりしたホテルだ。 アマヌサやアマンキラ、アマンダリはまだ行かずにとっておこうという人には、このホテルやウブドのイバなどが良いのかも知れない。ブティックホテルと呼ばれていて、センスだけで勝負しているようなホテルだ。 バリにはピンからキリまでホテルがいっぱいある。僕は仕事で来る場合は、アクエリアスホテルが場所的に便利なので利用しているが、このホテルは一室2000円程である。アクエリアスホテルはレギャンストリートにレストランが面しているのでまだ2000円とれるのかも知れない。ちょっとレギャン通りから脇道に30mも入ると、一室500円位になってしまう。部屋をのぞかせてもらうとりっぱな部屋である。 ロスメン(民宿のようなところ)でもなく広く部屋数も50はある。 こういうホテルは日本の雑誌では紹介されていないが、それでも欧米系の客、日本人も泊まっている。 長逗留をして、サーフィンに熱中するとかダイビングをマスターしようとか、という人には良いのかも知れない。 バリはエアコンがなくても、よっぽど暑がりのひとでない限り大丈夫であり、その点、健康な若い人なら相当気楽に楽しめるだろう。 アマヌサなどは、どこかシャンというか気品を漂わせなくては、みたいなところがあるから、それはもっと大人になってからでいいとも言える。 2000年3月8日 今はそれがない バリ島に来て1週間が過ぎた。暑い日が続いている。きまって夜中の12時頃になるとスコールがやってきて、半時ほどで通りすぎてしまう。 昨年の緊張感は緩み、バリに観光客が戻ってきた、という感がある。NHKなど民放を含めて、結構バリをテーマとした番組も12月、1月とあったから、その効果もあるのかもしれない。 僕の方はと言えば、忙しい日が続いている。エステサロンのスタッフもほぼ予定通り集まり、面接も終え、研修に入った。昨日は、タバナンまで知り合いの見舞いに行き、夜は久しぶりにオベロイで「ラーマヤナ」というガムランと踊りを見ながら夕食を楽しんだ。 今日は、銀行、公証人事務所とまわった後、警察の人二人がわざわざ出向いてくれ、先日の入国管理局の態度を詳しく聞いてくれ、何かあったらすぐ連絡してくれ、という親切な対応をしてくれた。入国管理局の者は、お金にならないことがわかったから二度と来ないだろうと彼らは言う。 日本領事館には、まだ行く暇がない。 バリにリゾートに来ていた時は日を惜しむように一日一日が貴重だった。早くも日常の生活に戻らなければならないことに、何かしら気持ちが騒いだ。 今はそれがない。バリが日常の一部となってしまった。このことを僕の好きなリスボンに置き換えてみる。リスボンに5日間の旅行をして、のんびりと日常を離れて、アルファーマを歩いたり、ファドを聞いたりして過ごしたとする。僕は早くも二日か三日で帰らなければならないことを残念に思い、まだここでの日々がせめてあと何日か続いたらよいと思うのだろうか。 たぶん思わないと思う。 僕の中で何が変わったのだろう。外国はいつでも来れるという存在になったからだろうか? 自分の気持ちの処理の仕方に激しさや勢いがなくなってきたからなのだろうか。 今がわりあいと、気持ちのよい仕事がやれているためだろうか。 この2年毎日が冒険旅行のようである。冒険旅行が実は僕の心踊る望みではなかったか。橋のない川を渡り、野営をし、毒蛇の襲撃をかわし、暗いジャングルに迷い込み、そして脱出し……という展開は自分自身が望んできたことではなかったか。 2000年3月9日 家族であるということ タバナンにクラビタン元宮殿がある。王制が廃止されてから60年が経とうとしているが、そこに双子の兄弟がいて、この宮殿を引き継いでいる。もう、70歳である。弟の方のMr.Giriの娘は、プトゥリという名であり、それは女性という意味である。プトゥリは、ホテルオベロイでエグゼクティブゲストリレーションズの担当として働いていた。そこで彼女と知り合った。以後、付き合いが始まり、創刊号の為の雑誌で、バリを特集することに決め、バリ島の音楽を発掘する時、彼女のお父さんに大変お世話になった。 鳥に笛をつけて空で音楽を奏でるバリの人々の楽しみ方、神の楽器といわれるガンバンの演奏、バリの口琴、バリの民衆歌などを取材し、録音した。観光では、ほとんど見れないが、芸術の域にある演奏家たちの代々引き継がれた音楽だった。よそ見をして、観光客の様子をうかがいながらやっているようなものではない。自分が奏でる音のハーモニーに全身全霊をかけている圧倒感があった。それらすべてを彼がアレンジしてくれたのだった。 その時の縁で、バリに来る時、機会を見つけては、彼と話をした。 その彼が、動脈硬化から脳梗塞を起こし倒れた、という知らせがプトゥリからあった。 今日、彼に会うためにタバナンに出かけた。彼は、元気だった。記憶もしっかりし、英語も話し、前向きに僕らが持参した健康食品に積極的に対応してくれた。 問題はここなのである。1ヶ月はうっくつした状態でいたらしいが、今は立ち直りつつある。この人は立ち直っていくであろうと、彼の表情をみていればわかるものだ。僕らの言葉にも積極的に耳を傾ける。ノートをとろうとする。病気の加減にもよるのだろうが、僕の父も全く同じになり現在病院をいったり来たりしている。病院を行ったり来たりするのは、父そのものの性格のせいである。 性格とは、「物の考え方」を言う。これが性格の定義だ。 父は、何としてもこの困難に打ち勝っていこうという意志が薄弱である。母が言うことに(言い方にも問題があるが)怒り、病院が用意する食事を拒否し、母に甘え、自分の好きなものをいまだに食べようとする。あまりに面倒をかけるものだから、母が無視して一日病院に行かないとあわてて病院を抜け出て、タクシーを呼び、家に探しに来る。 自分の父の事であるが、これではダメだろうと思う。 一人で立ってゆく意志がない。たとえ身体が病気でも心が健康であればいいではないか、という気持ちがない。つまり死などというものは決して自分では経験できないものなのだから、生きている間、心を健康にもっていこうという物の考え方ができないのである。 「俺はな、海で死ねたら一番ええんじゃ」と父はよく言っていた。 それは、海で働いていた男だったから、海にとけこんで死にたいという願望だったのだろうが成就できず、ベッドの上で甘えっぱなしでいるのだ。 突き放したように言えば、死に方は生き方の問題である。 死というものはあり得ない。 死と言うものを存在すると考えるならよく死ぬということはよく生きるという意味である。 そういう話をプトゥリのお父さんとした。しかし、実際の父とはこのような話をしていない。家族の声というのは一番身近にもかかわらず届かないものだし、しにくいものだ。 2000年3月10日 あぁ、こういう人もいるんだ 「本木さんですか」と店に顔を出していたら、たずねられた。若い男性である。ホームページをいつも見ていて、大変貴重で役立つ情報が載っているとおほめをいただいた。サーフィンをしにやってきたのだそうだ。鼻の皮もむけて真っ黒に日焼けしている。 「バリの滞在記でも書いてくださいよ」とお願いした。 掲示板に投稿してくれるとおもしろい。いろんな人の旅行記を別のコーナーにして掲載できる。すると、もっと情報が集まる。 また別のある日、おもしろいというか、あぁこういう人もいるんだと思わせる46才の(46才には見えないほど若い)男性が店にやって来た。ガラスに絵を描いたものを売り込みしに来たのである。おもしろそうな人だったので、後日、また会いましょうということになって、4,5日経ってから電話がきたのでいっしょに食事をすることになった。 栄養士になって病院に勤め、それが嫌になって武蔵野美術大学に入り、それも途中でやめ、オーストラリアでレストランを開いたのが31才の時だそうだ。大繁盛したのだが、ビザ管理のミスで腕の良い相棒が強制送還になり、そこから苦労が始まった。今は、赤字で店を閉じたらしい。バリ島には、絵画の店を3店もっていたのだそうだ。それも家主とのトラブルでダメになったらしい。 「今、死んでも悔いはありませんよ」と彼はぼそぼそと言う。 「悔いはないなんて嘘でしょ。」と僕は言う。 「いつも身体のどこかに火種のようなものがあって、いつもそれがくすぶっているんじゃありませんか」と言ってしまう。悔いはないなんて、言い方を知らないだけだと思う。 「今まで、やりたいと思うことを一生懸命やってましたしね。人の見れないところもいっぱい見たし。そういうことからすると、毎日生き切ってきた、という感じですから。もちろん、まだまだやれると思うし、夢もいっぱいありますよ。」 帰るところはないと言う。ヌサドゥアに小さな家を借りて、そこで絵を描き何とか売り込もうとしている。出直ししようとしている。シンガポールに行くかもしれないと言う。 4時間もいろいろ話をして別れ際、ガラスの絵の売り込みをされた。ヤーマのような店では売れない。現に10個ほど置いているが1個も売れていない。幾つかのモチーフ上のアドバイスをして別れた。 こんなふうにして人と出逢う。縁があればまた会う。なんでもそうだが、人、物、事は向こう側からやってくる。そしていつも選択をせまられる。選択をして人生が変わる。そしてまた選択をして人生が変わる。二度と同じことはない。むこう側からやってくるものには、できるだけオープンスタンスでいようと思う。 2000年3月11日 研修始まる エステで働いてくれるスタッフがほぼ集まり、研修がスタートした。9日から日本語と英語の研修もスタートした。 1ヶ月で必要な日本語と英語を教え込むのに、バリに来る前にテキストを作成した。エステの経験がないので、想像だけで作るのである。 また必要な言葉だけを覚える、というのは無理がある。契機がないと憶えれるものではない。 そこで、僕が言った言葉を身振りする方法で30分ぐらい行う。例えば、 「手を伸ばしてください。」と僕が言うと、みんなは始めは何て言っているのかわからないのだが、何度も言い最後には手を伸ばす動作を示すと、「Te o nobashite kudasai」は「手を伸ばせと言っているんだ」と理解する。「右手を上げてください。」「左手を上げてください。」「両手をおろしてください。」「おかけください。」などなど、一日に10ほどの訓練をする。30日すれば300の聞き取りができるようになるはずである。 次のコーナーでは役割練習を行う。電話や受付、応対などの練習をする。 つづいて「ひらがな」の読み方と書き方を指導し、関連単語をおぼえさせるのである。 インドネシア語は一切使わず、日本語と英語で同時に行う。 スタッフは20代と30代の女性ばかり。バリ出身者、ジャワ出身者。熱心で外国語をキャッチする感覚は日本人は及ばないように思う。言葉は耳から、ということをよく知っているのだと思う。2時間の集中レッスンは大変だろうが、みんなよく頑張っている。 ここまでスタッフを育成してゆくエステの店はないと思うから、たぶん彼女たちの村ではきっと良さそうな会社だと噂しているに違いない。 バリでは噂は一日で広まるから、この波及方法を知っておくことが後々のために大切だ。 このホームページを見て、自分もエステ・マッサージを習いたいという申し出があったMさんがたいへんな助っ人で、僕の時間がすっかり空くことになり、今日はザ・レギャンというホテルとオベロイに僕らが作ったバリの花から作った香水を売り込みに言った。 オベロイには何度か泊まり、好きなホテルのひとつだがザ・レギャンはオベロイよりも広々した感じはないが、ずっと現代的なホテルである。フロントからプールと海の境界がなく、波の向こうにさざめき立っている。波の音が遠くでするのではない。近くでするのだ。そこはオベロイと同じである。71室全部スウィートということだ。 「やっぱりバリにはリゾートで来なくては・・・」などと思う。 2000年3月12日 今日はゆっくり 今日は、バリ島は朝から小雨が降り、昼になっても止みそうにもない気配だ。レギャン通り沿いにあるホテルのレストランで朝食をとっていると通りの雨の風景がおもしろい。 新聞売りの少年達は帽子だけをかぶり、雨の中を客を見つけるのに忙しい。傘をさして歩いているのは観光客だけだ。 ちょうど日本の梅雨のようだ。もしかしたら、もうじき雨季が明けるのかもしれない。 久しぶりに今日は日曜日なのでゆっくりしている。 ちょっと頭に思い浮かび、興味があるとホテルのオーナーやスタッフに聞く。そして、またあれこれと思い浮かべる。 例えば、バリの三大神ブラーマ(誕生の神)、ウィヌス(創造の神)、シワ(破壊の神)、この三神が調和して世界は守られるという。その象徴として何かがあるのだろうか、と思うと聞きにいく。すると、どの家にも三神の調和を表すオムカラというシンボルマークがあるのだ。キリスト教の十字架みたいなものだろうか。 例えば、バリの女性は、髪を洗うとき、どうするのだろうかと思う。すると、まず、ココナッツオイルで10分ほど髪と頭皮をマッサージし、次にシャンプーをし、洗い流して終わりだそうだ。ココナッツオイルの代わりに、ハイビスカスの葉をつぶして液をつくり、それを髪にふりかけマッサージするのだそうだ。 こういう一日は楽しい。人の声、鳥の声、雨音、ムッとする草いきれの匂い、目に入る涼しげな花。 ぜいたくな時間と空間である。 2000年3月14日 鳥毛 清喜のこと 「誰でも足を踏み入れ、昇ってみたくなる階段」をどのように作れるか。これがバリ島のレギャン通りでパブを成功させる為の最大で最初の課題であった。僕の頭の中にいつもこのことが課題としてちらついた。 鳥毛 清喜は、バリに移り住んで5年になる。人里離れた海のそばに工房を持ち、独自のガラス工芸作品を創作している。彼は、世界ではじめてと自負するガラスを作ってはコツコツとストックし、いずれ階段にしようと思っていた。光の加減でなんともいえない素材に変わるはずである。素材の中に彼の発想がこめられている。鳥毛はこのガラス工芸の世界では有名だ。賞も数々ととった。 ビンを作る日本人が、ボナ村から海の方に入ったところにいるという噂を聞き、ビン作りの依頼に出かけた。ビン作りはむろん断られたが、それが出会いだった。 思っていることが一致した。 彼にレストランの設計、デザインをすべて任せることにした。自分の発想力では限界だった。しかしながら、ぼくには、言葉があったと思うので、つまり「誰でも足を踏み入れ、昇ってみたくなる階段」という言葉があったので、めぐり逢ったのである。 楽しみにして欲しいと思う。 いつも海がそばにあり、潮騒が聞こえる。30年の契約で家を借りたという。もしかしたら、海が様々な色に変化するように、彼のガラスも海のようかも知れないと勝手に想像している。 外国という場所は、人との出会いが故郷にいるより多いところだ。心が開かれるからなのかもしれない。 2000年3月15日 保存の方法を知らない バリの女性たちは、髪の手入れをする時、まず自家製のココナッツオイルで10分から20分かけて髪と頭皮をマッサージする。時に、ココナッツオイルではなく、ハイビスカスの一種でファイアー・ハイビスカスの葉をこすりつぶし液をとり、そのヌルヌルした液でマッサージする。ココナッツオイルも、ハイビスカスも髪をつやつやしなめらかにするのだそうだ。それからシャンプーをして、洗い流す。 僕は不思議に思う。どうして、ハイビスカスの葉をいちいちこすりつけて液をとりだすのかと。たいへん面倒ではないかと思う。 考えてみるとバリには保存するという考えがほとんどない。冬を越すために秋のうちに保存加工したり、日干しにして美味しく魚や貝を食べるという日本人から見ると、手に届くところに食べ物がある豊かさからなのかうらやましいというよりももったいない気がする。 気候風土的に、保存が向かず、カビなども湿気のために生えやすいのだろうが。なかには保存方法さえきちんと考えれば、手間が省けたり、より価値があがったりするものがあるかも知れなしい。 例えば、ワキガの人が飲む植物の葉がある。これを飲むとたしかにワキガが消える。青汁みたいなものを飲まなくてもお茶にすればいいのにと思う。ジャワ人はイギリス人の知恵でお茶を作ったけれど、バリにはジャワ茶以外のお茶は作っていない。しかしながら、スパイスはたくさんある。インドネシアはハーブの宝庫と言われているのに、ハーブティーへの発展のさせ方ができなかったのだ。 保存したものは新鮮でない。オレ達はいつも新鮮なものを食べていると自慢する。 インドネシア全体に「保存」という意識と技術を導入すれば、きっと珍しく、おもしろいものが出るに違いない。 もう研究し尽くされているのだろうか。 2000年3月17日 劇場国家 バリは「劇場国家」とも呼ばれている。このことを単に芸能が多いとかいう意味でとらえるのではなく、もっと大胆に考えてみる。 通りにいかがわしそうな男がいることも、店の前ではなんともだるそうに座っている女性たちも、地元の人々の店の売り子たち、ホテルのスタッフたち、すべてがこの劇場への出演者である。カタコトの日本語も、もちろん出演者のせりふである。 こういう人たちをいちいち批判する人がいるが、それはその人の器量というか物の見方が狭いだけの話だ。比較でしか物が言えない人がいるが、もっと高いところから物を見る視線がなければならない。 浜辺に立って水平に海を見ても、見える海の風景はひとつである。それを高いところから見れば、どこが浅くなっていて、この辺が深くなっているということも見え始めるのである。 バリの外国人は、このバリの出演者たちが演じる中で、ようやく仕事ができる。 僕のような日本人は、劇場の舞台の裏で、シコシコあれこれお手伝いする。そういう感覚である。 |